いやなことから逃げないの真意

セラピストになって、セッションでクライアントさんにお伝えしてきた言葉で、最も繰り返し使った言葉は、きっと「いやなことを我慢してやり続けないことです」だったと思います。

我慢しないというのは、元々自分の生き方の基本だったということもあるのですが、多くの方々がそれと正反対の生き方をされていることに気づいてびっくりしたものです。

日本の文化では、特に「人生は忍耐だ」というようなニュアンスのことが普遍的に浸透しているために、誰もが一応に我慢強くなっているのです。

我慢強ければ、それだけ自己犠牲を続けることができてしまうので、「なるべく我慢弱くなって下さい」ということも言ってきたのです。

自己犠牲を強いてしまう根本的理由とは、自己防衛にほかなりません。自分を護りたい一心で我慢を続けてしまうわけです。

自分に辛い思いをさせる代わりに、自分の命を護ろうとするということです。こうした生き方がいつまでも続くわけもなく、いずれは爆発することになります。

我慢をしないということと一見矛盾するように思えるかもしれませんが、私は同時に「いやなことから逃げないで下さい」ともお伝えしています。

我慢をせずに、嫌なことから逃げないとはどういうことかと思われるかもしれませんが、いやなこと、都合の悪いこと、観たくないこと、痛みや苦しみから逃げないことは、決して我慢することにはならないのです。

いやなことから逃げないといっても、だからといっていやなことに向かってそれと闘ったり、打ち負かしたりして乗り越えようともしないということです。

逃げるのも闘うのも形は違えど全く同じことなのです。ただただ嫌なことの中にいるということです。それは、勿論耐えることとも全く異なるものです。

耐えるとか、我慢するというのは、すでにそこには闘争があるのです。だからそれは逃げることと同じなのです。

勇気はいるかもしれませんが、それは立ち向かっていくということよりも、ただそれを見ているだけでいいのです。そこには、何の自己犠牲もありません。