何があっても楽しむという選択肢

私たちは幼い頃から、例えば幼稚園のかけっこでビリになるよりも一等になるほうがいいと思っていましたし、一等になったら喜ぶのです。

テストで0点取るよりも100点取ったほうが嬉しいし、叱られるよりも褒められたほうがいい気持ちになるし、嫌われるよりも好かれるほうが断然好きなのです。

友達がいなくて孤独であるよりも、仲良しの友達がいたほうが楽しいし、欲しいものが買えないようりも手に入れられたらそれをすごく喜べるのです。

けれども、そうした基本は残るものの、成長するにつれて少しずつ反応が複雑化していきます。子供の頃は決して食べないような珍味を好むようになったりするのです。

腐った雑巾のような匂いのするウォッシュチーズを美味しいと思ったり、見た目は気持ち悪いものでも、それを喜んで食するようになったりします。

あるいは、少し毛色は違いますが、より多くの楽しみを得るために、いやなことでも我慢しつつそれも楽しみに変えてしまうということもできるのです。

例えば、以前毎日スポーツクラブに水泳をしに行っていたときには、必ず100℃のサウナで汗をかくのが楽しみでした。

10分も入っていれば、かなりシンドイ状態になるのですが、それがまた気持ちいいし、そのあとで水風呂に入るのがまた何とも爽快で、それをとても楽しんでいました。

あなたは、たとえどんなことであろうとも、本質的にはそれを楽しむことが可能であるということを認めることができるでしょうか?

何が起ころうとも、それを楽しむという選択肢があるのだということに気づき、それを実践するように仕向けていくことができることを認められるでしょうか?

もしも、人生を何が何でも楽しみたいという意欲があるのであれば、このことをじっくり考えてみることは決して損なことではないはずです。

何でも楽しんでしまいましょう。お金がなくても、楽しむことはできます。どんな経験でも、それを楽しむことができれば、人生は大きく見え方が変わってくると思います。