不幸な動物はいない

セレブな人たちに飼われて、とても裕福な生活をしているペットたちがいます。愛情深い飼い主に大事に育てられて、家族同然として一緒に生活しているペットたちもいます。

彼らを野良犬や野良猫たちと比べたら、何と幸せな毎日を送っているのだろうと感じますね。彼らは生活の心配もする必要がないし、いつも可愛く甘えてればいいのですから。

一方、野良君たちは、毎日自分たちの食べ物は自分たちで探さねばなりません。具合が悪くなっても、病院に連れて行ってくれる人などいないですし、常に身の危険を感じながら生きているわけです。

もしも自分が動物として生まれ変わって来るのなら、それは裕福な境遇のペットのほうがいいと思うに決まっています。

けれども、幸福かどうかというのは自覚の問題だということも明らかです。動物たちには、その自覚はないはずです。なぜなら、彼らには「私」という自覚そのものが元々ないからです。

したがって、幸福感も持ってないばかりか、不幸だという自覚も同様にしてないということです。つまり、動物たちにとっては幸不幸はないということです。

それを自覚できるのは、人間だけなのです。我々人間は、「私」という自覚を持っているために、その「私」が今幸せなのか、それとも不幸なのかという自覚を持つことができるのです。

不幸という自覚は、心理的な苦悩を一定期間以上感じることによって起きるものです。それは、単なる一過性の負の感情というよりも、激しい自己否定感や絶望のようなものです。

そうしたものは動物にはありません。人間だけが自覚することのできる苦悩なのです。つまり、人間だけが不幸になる可能性があるとも言えるのです。

しかし人間として生まれても、動物のように不幸という自覚なしに生きていくことができるのです。それこそが覚醒なのです。

覚醒した賢人たちは、私たちが望んでいるような幸福を手に入れたと思うのは間違いです。幸福とは不幸の反対であるだけで、それも一過性のものにすぎないのです。

彼らの状態とは幸不幸を自覚することのない、まさに動物と同じようなものであると言ってもいいのかもしれません。

もしもそれを至福と呼ぶのでしたら、それは何ら理由のないものでしょうね。なぜなら、それは永続的なものだからです。

動物と賢人との違いは、真の自己の姿に気づいているということです。そして、真の自己に気づく可能性があるのは、動物ではなく人間である我々だということです。

そういう意味では、不幸を知らない動物よりも、不幸を知っている人間に生まれたことは、真に目覚めるためのチャンスがあるということであり、それは本当に感謝すべきことだと思うのです。