何も無さを観、静寂を聴く

山や森のような大自然の中に行くと、よくその静けさに耳を澄ましてみる、ということをすると思います。イメージしただけでも、とても気持ちよくなりますね。

しかし、静けさというのは音のないことですから、それに耳を澄ます、あるいは耳を傾けるというのは本来変な話しです。

それでも、私たちはよくそのようなことをするものです。それはきっと、本質的に静寂さというものを求めているからなのかもしれません。

耳で聞けるのは音なのに、その音のない状態である静寂を聴くというのはどういうことでしょうか?勿論、静寂さを自分の耳で聞くことなどできません。

そうではなくて、私たちは静寂さを直接体験しているのです。そしてその静寂さにじっと意識を向け続けていると、ふいにその静寂さこそが自分自身だと気づくのです。

その一瞬の意識の転換をきっと誰もが経験しているはずです。それは決して知覚ではありません。静寂とは、対象ではないからです。

見るということについても同じようなことが言えます。目をつぶるなり、真っ暗な場所にいると、そこには光がないために私たちは何も見えなくなります。

けれども、何も見えないはずなのに、闇を観ているということを知っています。それは暗闇を知覚しているのではありません。

ただ何ものも見えない闇、つまり無を直接体験しているということです。そしてやはり、それは対象ではないので、自己の本質であるという気づきへと移行します。

静寂さであれ、何もなさであれ、どちらもこの世界で起きるすべての現象の土台であり、それこそが自己という純粋な意識なのですね。

それは何とも言いがたい、安らいだ気持ちにさせてくれます。どんな音が聞こえていようと静寂を聴くようにし、何が見えていようとそこに何もなさを観るのです。

そしてそのときに、静寂も無も、今という違う言葉でも言えるということが分かります。今とは、私たちの本質の姿そのものだということです。