期待値

自分がまだ赤ちゃんの頃、夜中に必ず目を覚まして、ぐずっていつまでも寝ないため、母親は積み木で遊ばせたそうです。それが習慣になり、しばらく遊んでからそれでご満悦して、寝るということがあったらしいのです。

恥ずかしながら、赤ん坊といえどもかなり我がままだったようです。母親は赤ちゃんの私を説得することは無理と判断して、敢えて夜中に積み木遊びをすることを許してくれたのでしょう。

幼稚園に通うようになったら、深夜の積み木遊びには母親も付き合ってはくれなくなるでしょう。でもまだ自分で洋服をうまく着れないとしても、許してはもらえたはずです。

そうやって、親は子供のそれぞれの年齢に相応しい対応の仕方を自然と心得てくれていたということです。つまり、親というのは子供の年齢に応じて許すことができる範囲、あるいはレベルというものを変化させるのです。

これはある意味、子供という相手に対する期待値というものをあらかじめ設定しておき、その期待値に照らして許すかどうかを判断しているということです。

幼い子供ほど期待値を低く設定してあるため、かなりのことでも大目に見てもらえるということです。それが、20歳を過ぎて大人扱いされるようになると、期待値も親自身と同等になるため子供の時のような許され方はしなくなりますね。

それなら、期待される側としたら期待値を低く設定してもらった方が気楽に生活できるということも言えますね。

ところが、それはそれで人は期待値が高いと感じるほうが自分の価値も高く思えるので、期待値が低いことは必ずしもいいわけではありません。

しかし、本当は人は期待されるよりも愛されたいのです。愛されるということをあきらめた人は、愛の変わりに期待されたいと思うのです。

愛は期待値ゼロです。なぜなら、期待するのは望むことであり、それはエゴの働きによるものなのです。愛ができることは、ただ愛するということだけです。

自分から相手に対する期待値も、相手から自分に対する期待値も、同じようにゼロになる世界がくれば、それはきっと理想的な世界になるのでしょうね。

感情の層

人には沢山の感情がありますね。気持ちがプラスに向くような嬉しい感情もあるし、逆にマイナスに行ってしまう否定的な感情もあります。

感情はその都度必要に迫られて心の奥から上がってくるものですが、それを通り過ぎるとなくなってしまうものと考えられがちですが、実はしっかり味わわずに済ますと心の奥に戻っていって溜まってしまいます。

そうやって様々な感情が溜まって行くのですが、それぞれの感情は大抵互いに関連して、絡み合って大きな塊、もしくは層を成しています。

我々が一番奥底に隠し持っている感情は、罪悪感です。一口に罪悪感といっても、広く捕らえると自己嫌悪や自己否定などの自分に対するネガティブな感覚も含みます。

幼いときには、大人に比べれば当然未熟なわけですから、惨めな自分や情けない自分というものを数多く感じるはずです。

そうした自分に対するダメ出しが心の底辺にある罪悪感を膨らましていきます。それと同時に、そんなダメな自分を知られてしまうことに恐怖を感じるようになるのです。

みっともない自分、恥ずかしい自分、役に立たない自分をできる限り、隠そうとします。その言動力が恐怖なのです。従って罪悪感と恐怖は切っても切れない関係にあります。

また自分が惨めな思いをさせられたと思うと、それを隠そうとして恐怖が出てくるだけでなく、その相手に対して怒りも感じるようになります。

そうやって、罪悪感と恐怖にさらに怒りという感情が絡んでくることになるのです。ただし、怒りは、罪悪感や恐怖によって上手に蓋をされてしまう場合もあります。

自分に非があると思うと怒りが引っ込んでしまう経験をしたことは誰でもあるはずです。それが罪悪感によって怒りを抑圧した瞬間ですね。

また、あまりに恐怖が強いと、それだけで怒りなど出て来れなくなってしまいます。刃物を持った人に脅かされたら、それがどんなに理不尽なことだろうと怖くて怒れないのはそういうことです。

このように、罪悪感と恐怖と怒りが幾重にも重なって複雑に絡んだ状態で心の中に溜め込まれています。そのパワーが人生に多大な悪影響を与えるのです。

癒しの一つの重要な作業は、このように絡んでしまわれている感情を一つひとつ丹念に見てほぐしていきながら味わって開放していくことなのです。

裁くこと その2

昨日のつづきです。

日々続けられている裁くという心の行為、それは対象となるものに罪を与えて、罪悪感を想起させるのが目的だというお話しをしました。

そしてこの裁くことは、勿論意識できることもありますが、その大部分が無意識的に成されているのです。意識して悪いものは悪いとして、何がいけないのかと言われる方がいるかもしれません。

確かにこの世界はそうした裁きによって、ある秩序が保たれていると見ることもできます。交通規則を破れば罰金を科せられますし、人のものを奪えばそれ相当の罰が与えられます。

しかし、ここで話題にしているのは、そういった規則や法律のことではなく、純粋な心の問題なのです。心の問題が一番幸せに関わる大切なことだからです。

どんなにすばらしい法律があったとしても、それで幸せになるわけではありません。話しを元に戻して、裁いた結果は罪を認めることであり、その結果として罪悪感が発生するのです。

もしも、電車の中でマナーを守れない人がそばにいて、その人を心の中で裁いたとすると、それはその人に罪があると断定することです。

そして、最終的にはその人がそのことを自覚することで、自らの心の中で罪悪感を味わって欲しいと思うのです。だからこそ、その人が何も悪びれる様子もないままでいたとすると、怒りが湧いてきます。

その怒りは、相手に罪を認識させてやりたいという攻撃的な気持ちなのです。もしも直接相手に注意することができずにいると、その怒りはやり場のないイライラ感として残ってしまいます。

逆になんらかの理由で相手が自分の非を認めるような態度をすれば、それは相手の中に罪悪感が湧いたという証拠であるとみなすために、穏やかな気持ちに戻れます。

このように、我々は常に対象となる人に罪悪感を感じさせておきたいという欲求があるということです。それは、実のところ罪悪感を持っている自分を隠す隠れ蓑として使おうとするからなのです。

だからもしも裁かないでいるとしたら、世界中で自分だけが罪深い人ということを認めることになり、こんな怖いことはないのです。

しかし、実際には周りを裁くことをやめていくことができるとしたら、それと同じようにして自分の罪悪感も減らしていくことができるのです。

なぜなら、自分がそれまで裁いてきた罪深い人たちとは、自分の罪深さの投影に過ぎなかったからです。我々が飽くことなく繰り返している裁くということを勇気を持ってやめることができたら、この世界は間違いなくユートピアになるでしょうね。

裁くこと

日頃、日常的に「裁く」という言葉を使うことは少ないかもしれませんが、私たちは一日のうち意識的にも無意識的にも何度となく、誰かを、そして何かを裁きつつ暮らしています。

例えば、朝出かけるときに近所の人に挨拶したのに無視されたら、無礼な人だなと思うかもしれません。

通勤電車の中で大音量で音楽を聴いている若者がそばにいたら、常識のないやつだとイライラするかもしれません。

こうしたことはいくらでも身の回りで起きていることです。そして、このときに相手を裁いているのです。職場で仕事上のミスをして周りの同僚たちに迷惑をかけてしまったら、そんな自分をダメな人間だと思ってしまうかもしれません。

この場合は自分を裁いていると言えます。このように、裁くということは、あるものに対して善悪の判断を下すということですね。そして大抵は悪のレッテルを貼ることを意味します。

その対象となるものは様々です。個人であったり、団体であったり、国であったり、その言動や抽象的な概念だったりもするのです。

何かを裁くためには、善悪の判断をするための判断基準というものが必要です。その基準は個人によって違いがあるし、性別や人種によっても様々な差異があるかもしれません。

勿論、人類に共通の判断基準というものもあります。人を騙したり、裏切ったり、傷つけたり、奪ったりということはほぼ悪というレッテルを貼られますね。

その一方で、なぜ人はそうやって日常的に裁くことを続けるのかというと、そこには重大な目的があるのです。その目的とは、実は対象となるものに罪を与えて罪悪感を想起させることなのです。

罪があると認めてしまえば、必ず罪悪感が付きまといます。実はこの罪悪感がこの世界を作っているといっても過言ではありません。

つづく

親しい仲こそ学びあり

人はスポーツをしたり、趣味に興じたり、勉強したり仕事をしたりと、毎日の生活の中で様々な活動をしながら学んでいくものですね。

しかし、どんな事をしていようと学びの中心となるものは何といっても人間関係なのです。何をしていようと、大抵は人間関係がついて回ります。

自分の周りにいる人は自分の内面を映し出す鏡のようなものだからこそ、自分を深く理解し認めていくためにはどうしても人との関わりがとても重要なものとなるのです。

そしてその中でも特に重要なのが、より親しい間柄における人間関係にあります。親子の関係や兄弟の関係、そして夫婦の関係など家族の人間関係は生涯、重要な学びのネタを提供し続けてくれます。

それは親しい間柄であればあるほど、それだけ心の深い部分が映し出されるために、自分がなるべく見たくないとして抑圧している都合の悪い自分をも見せてもらえるからです。

誰でも心当たりがあるように、親しい関係ではそうでない関係よりも自分の本音や正直な感情が出やすいものですね。

また、幼い頃の家族や親戚との人間関係というのは、その後の人生における、自分が作り出す人間関係の基本的な部分を占めているのです。

人生はそうした人たちとの関係からスタートしたわけですから、当然そこにはとても重大な秘密が隠されていたりするのです。

日頃自分が作る人間関係を注意してよく観察してみると、なんらかのパターンがあることに気付くかもしれません。そのパターンは多くの場合、子供の頃の両親との人間関係によって作られたものであることが多いのです。

このように親しい関係はある意味宝の山です。よりすばらしい人生に変えて行きたいと思うのでしたら、今一番身近なところにいてくれる人との関係を見直してみることです。

そこには、必ず新しい発見があるはずです。そしてそういった発見を繰り返していくことで、多くの気付きを得ることができ、自然と人生が変化していくのです。

天職

人は誰でも一度や二度、自分は一体何をするためにこの世界に生まれてきたのだろうかと考えたことがあるのではないでしょうか。

10代の頃でしたら、自分はこれから社会でどのような仕事をするようになるのかなと思ってみたり、すでに仕事をしている人であっても自分は本当にこの仕事をしていていいのだろうかと疑問を感じたりするものですね。

それは、一般的な職業として分類されないような主婦の人の場合でも同じです。自分の人生はこれで本当にいいんだろうかと一度も考えた事がないと言う人はいないはずです。

適職という言葉がありますね。その人の生まれながらに備わった能力を思う存分使えるような仕事のことを言うわけですが、そうした仕事に就いている人ばかりではありません。

逆にお笑い芸人なのに人見知りする人とか、引っ込み思案な人などは誰がどうみても適職とは言えません。しかし、仕事となると、案外そういった適性というものを乗り越えて活躍している人もいます。

この人生での自分の天職は何なのかということを知りたいという理由で、催眠療法を受けに来られる方もたまにいらっしゃいます。

ただ漫然とその日を暮らしていても、自分が成すべきことに出会えないという焦りのようなものを持っている方が意外に多いのかもしれませんね。

天職というのは、ある意味人智を超えたところで、することが決められていた仕事といったようなニュアンスを感じますね。従って、天職はその人にとって必ずしも適職であるとは限らないかもしれません。

私は本当の天職というのは、目に見えるような職業であったり何かの活動ではないと思っています。我々に共通の役目とは、一人ひとりが日々許しを実践し続けることで、自分の心の闇に光を当てることだと思うのです。

それが誰にも共通した究極の天職ではないでしょうか。そしてそれこそが、自分や人も、そしてこの世界のすべてを救うことに繋がるのだと思います。

心理療法

心理療法の役目とは、人が闇に葬った都合の悪い心の部分に自ら光を当てられるようにお手伝いすることです。

熱心に心の癒しに取り組むことで、自分独りでも時間をかけて次第に闇に光を当てられるようになるはずですが、それには相当の努力と根気が必要とされます。

なぜならそれは例えて言えば、自分で自分に麻酔をかけて、自らお腹にメスを入れて患部を摘出する手術をするようなものだからです。

人は無意識的に心の闇の部分から常に目をそらそうとしてしまいます。元々、目をそらしてしまいたい、つまり見たくない部分だからこそ光の当たらないところへ押し込んでしまったものだからです。

自分自身にとって都合の悪い闇の部分とは、到底認めることができないと本人が思っているような否定的な部分です。なぜそこに光を当てなければならないかといえば、その部分が外部に投影されることで本人の人生に様々な都合の悪い事象が起こるからです。

本人が隠したものは必ず投影されて本人の目の前に出現するのです。そうやって、それは自分とは違うとして安心しようとするのです。

心理療法ではそれこそ自分の闇の部分なのだということに気付いてもらうように仕向けることで、今までまったく手付かずだった心の闇に次第に目を向けることができるようになるのです。

私たちは知らぬ間に自分の心の中にたくさんの闇の部分を作り出して、自分からも他人からも気付かれないようにして生活しているのです。

どんな人でも例外なく、そのことに気付いて闇の中に隠されたものを自分の目の前に全部さらけ出して、しっかり認めることが必要なのです。

それが結局自分を許すということを意味します。心を癒して、人生を輝き光る満ち足りたものにしていくためには、どうしても必要なことなのです。心理療法はそこに焦点を当てつつ、様々な方法でそれをバックアップするものと言えます。

未来の世界

この世界が自分の心の投影であるということは、心の中の愛とエゴのそれぞれの割合がそのままこの世界を形作っているということになります。

誰もが心温まる愛の物語は、自分の内の愛の投影であるし、戦争や殺戮などの悲惨な物語はエゴの象徴であるはずです。

政治の腐敗や経済の悪化、あるいは最近頻発する天変地異などもエゴの仕業と考えていいかもしれません。

自分の心の中の愛とエゴの比率が変化して、愛の占める割合が多くなったとしたらどうなるでしょうか。きっとそれはとても大きな変革が待っているはずです。

例えば経済の基盤にお金というものが使われなくなるかもしれません。それぞれの人が自分の才能を存分に発揮して、互いに必要となるものを交換し合うのです。

そのことによって、貧富の差というものが根絶されることになります。また、自分の幸せと同じくらい他人の幸せを願うのが当たり前になります。

エゴの代表である表面意識が薄れていき、無意識よりも更に奥にある集合無意識が活動するようになって、人々はそこで密に繋がっていることを感じるようになるのです。

国家という集合体よりも、もっと小規模で分散したコミュニティが人々の生活の基盤になるかもしれません。核家族がなくなり、子供はこのコミュニティで複数の大人たちによって育てられます。

そうすると、子供を育てられない親の存在はなくなり、家庭内暴力や機能不全家族といったものがなくなるのです。

きっと人々は今よりも数段自分のスピリチャリティに気付くようにもなるはずです。そんな世界に早くなって欲しいものですが、それには普段の許しの実践を続けることですね。

執着

かれこれ10年くらい前に、執着を手放すというワークをやったことがありました。それはどういうものかというと、自分の目の前に底が見えないくらいの深い断崖絶壁があるとイメージします。

そして、自分が執着しているモノなどをリアルにイメージして、ゆっくりと絶壁に向かって押していきます。少しずつそれを続けていくうちに、それは絶壁に落ちていくというものです。

つまり、自分の決断によって、自分の手で執着しているモノを絶壁に突き落とすというイメージをするのです。本気でやったはずだったのですが、その時に落ちそうになるモノを瞬間的に拾い上げてしまいました(笑)。

その時に執着というのは凄まじいまでのパワーなんだなあと思い知ったのです。普段から自分には執着などないものとして生活していたのですが、実はそうでもなかったということですね。

勿論今でも執着はあると思いますが、自分が翻弄されるようなことはなくなったかもしれません。夜、少々のアルコールを飲むことくらいでしょうか。

執着というのは、自分にはなくてはならないと信じている思い込みのことです。それが、物だったり人だったりするわけです。

物の場合にはまだ自分だけの問題で済むこともあるかもしれませんが、人への執着は相手を巻き込んでしまうため、人生そのものに大打撃を与えかねません。

執着は依存という言葉に置き換えてもいいくらい、二つの言葉には深い関連があります。つまり依存心がターゲットとするものに執着するということです。

「~がなければ、自分は生きてはいけない」という思い込み、それは自分の外側にあるものに自分の人生が振り回されてしまうということを意味します。

執着が強いということは、それだけ自分の内面を見ていない状態であるといえます。自分は何に執着しているのか、それを心を静かにして見つめてみることは大切なことですね。

集中力

何をするにも意識が散漫では自分の能力を最大限発揮することはできないですね。逆に集中力を養って、意識を一点に絞り込むことができると思った以上の成果を生むことも可能です。

よくスポーツ選手などが競技の前に精神統一を図って、集中力を増すようにしているのをみかけたりします。この集中力とは人によって違うものなのでしょうか。

一般的に女性よりも男性のほうが、大人よりも子供のほうが集中力が高いように言われていますが、それも本当かどうか分かりません。

幼い子供が世界中の国旗を覚えてしまったり、50枚くらいあるカルタを全部暗記したりということがありますね。ゲームなどにのめり込んで長時間やっていられるのも子供です。

自分は子供の頃から勉強は嫌いでしたが、中学生になってテストの期間が明確になったため、いわゆる一夜漬けをするようになりました。

その時の集中力は自分でも結構高かったのではないかと記憶しています。気がつくと、周りの音が聞こえなくなっているのを何度も経験したことがあります。

それが高校生になると、さすがに一夜漬けだけでは間に合わなくなったせいか、何となく机に向かっているといった曖昧な勉強時間を過ごすようになりました。

そうしたら、てきめんに集中力を欠くようになってしまいました。勉強をしたくないのに、ただ形ばかり机に向かっているという癖をつけてしまったおかげで、だらだらとした時間の過ごし方に慣れてしまったのがいけなかったかもしれません。

人の集中していられる持続時間というのはそんなに長いわけではないはずなので、めりはりをつけた行動をしないと集中力は下がってしまうはずです。

イライラしていたり、そわそわしてるときに集中できるはずもなく、やはり瞑想の習慣をつけることがそうしたざわついた心を静めるのに役立つはずですね。

真の愛の状態とは、完全に純粋な愛に満たされた心であるので、きっと集中力は無限大なのではないかと思います。そういう体験をしてみたいものです。