「すいません」という言葉

ある深夜のお笑い番組で、もしも自分が犬になってしまったとして、吠える以外に一つだけ人間の言葉が言えるとしたら何にする?というような内容をやっていました。

いろいろな言葉を考えては現実の状況に則してうまく使えるかどうかを試してみるのですが、やはりたった一つの言葉ということでなかなかこれがベストというものは見つかりませんでした。

しかし、最後の最後で「すいません」はどうかということになって、様々なシチュエーションを想定して使ってみると、これが何と大抵の状況で使えてしまうのです。

例えば、

飼い主:ご飯だよ~
犬:「すいませ~ん」

飼い主:散歩いくぞ~
犬:「すいませ~ん」

飼い主:そそうしたの、お前か?
犬:「すいません」

考えてみると、何と便利な言葉なのでしょう。この「すいません」は、謝るときにもごめんなさいの代わりとして使えるし、「すいません」、ちょっといいですかと言う具合に呼びかけるときにも使えます。

また、「すいません」、助かりました、のようにありがとうと同じで感謝の意味としてもよく使いますね。それ以外にも、許可を求めるようなときにも使うかもしれません。

これほど、いろいろな意味を持っていて利用頻度の高い言葉は他にないかもしれません。この「すいません」に匹敵するような外国語などあるでしょうか?

ただし、逆に言えばそれだけ曖昧な表現であるということも言えるわけですね。やはり、謝るときには「ごめんなさい」、感謝のときには「ありがとう」を使うように心がけるのが自分の気持ちを明確にする上では大切なことだと思います。

自分に自信のない人は、言葉のあちこちにこの「すいません」をよく使う傾向があるようにも思います。もしも、心当たりがあれば気をつけて、別の言葉に置き換える習慣をつけるといいですね。

現実的に生きる

最近、ここ10年くらいでしょうか、アセンションという言葉をよく耳にするようになりました。私なりの解釈では、アセンションとはこの世界という幻想から離れて、神の永遠の世界へと至るということです。

2012年にマヤ暦が終わるため、もうすぐ世界に大異変が起こるなどと言っている人たちもいるようです。何となくそうした時代の流れの中で、このアセンションという言葉が目立ってきたのかもしれません。

「奇跡のコース」においても、この世界は幻想だと繰り返し教えています。本来の我々の実在を思い出して真実の世界へ戻るために今を生きていると言っています。

しかし、だからといって山に篭って仙人のような生活をしたり、修行や苦行を繰り返す必要もないと教えてくれています。

大切なのは、この世界の中でしっかり腰を据えて生きる、この現実社会の中でどのようにして愛をもって生きるかということを教えてくれています。

スピリチャルな考え方が全盛ですが、それが一人歩きしてしまって、毎日の生活が現実離れしたものや考え方になってしまっては全く意味がありません。

最も効率的な学びのネタは、ごく身近な毎日の生活の中にこそあるのです。自分を見つめることが大切だからといって、一日中瞑想していても大きな癒しが起こるとも思えません。

瞑想は確かに抑圧されて見えないように隠されている心の部分に近づこうとする行為であるわけですが、そう簡単に都合の悪い深層心理の部分とコンタクトすることはできません。

それよりも、現実の世界でどのようにして愛をもって毎日生活できるのかということを意図しながら現実に則した人生を送るほうが何倍も癒しが進むのです。

それは、隠された心の部分がそのまますべて毎日の自分の周りで起こる現実として見えているからです。

そのことを理解して、誠実に毎日と向き合って生活することこそが、最も早く心を癒してアセンションする方法であると言うことができるのです。

文句を言いたい自分 その3

またまた続きです。

誰の心の中にもある「文句を言いたい自分」が、「幸せになりたい自分」よりも優勢であるなら、そしてそれをそのまま放置しておくと、必ず不幸な人生になってしまうというお話をしました。

「文句を言いたい自分」にとって、もっとも好都合な人生とは、理不尽きわまりないことが断続的に起こる人生です。

そして、自分の努力は報われず、割りの悪い結果ばかりを背負わされたりするような人生です。自分は何て不幸な星の下に生まれたのだろうと思うのでしたら、「文句を言いたい自分」の仕業であることを疑うべきです。

逆に人生の不遇を生まれや育ち、周りの環境や近くにいる人たちのせいにするのであれば、人生を好転させることはまったく期待できません。

何が起ころうとも、それは自分の中にいる「文句を言いたい自分」の仕業なのだということにしっかりと気付くことです。

もしも、これにはっきり気付くことができたら、もうすでにその時点で人生の最も大切な気付きを得たと言ってもいいといえます。

実際この気付きはとても大きな影響をその人の人生に与えることになります。それは被害者から脱出することを意味するからです。

あとはそのことを一瞬たりとも忘れないようにすることです。これによって、不幸を背負おうとしていた人生の方向が変わり始めます。

常に注意して、「文句を言いたい自分」を監視し続けることです。そうして、それが心の中で優勢になって、心の中であろうと外へ向かってであろうと、つい文句を言ってしまったとしたら、そのことをしっかり認めることです。

そして、次からはできるだけ相手を加害者扱いしない穏やかな心でいるように努めることです。それが許しに直結することにもなるのです。そして結局それが幸せへの最短コースなのです。

文句を言いたい自分 その2

昨日のつづきです。

誰の心の中にも文句を言いたいという部分があり、それは相手を否定することが本当の目的ではなく、自分の正しさを証明して自分をまもりたいがためだというお話しをしました。

「文句を言いたい自分」をはっきりと表現するかどうかとか、そうした自覚があるかどうかなどはその人の生まれ持った気質や育った環境などによって違いが出てきます。

文句を言うためには、文句を言うことが正当化されるような立場が必要となります。仮に自分の周りにいる人がみんな親切で愛に溢れているような人ばかりだったら、文句を言いたい自分には都合が悪いわけです。

従って、「文句を言いたい自分」にとって都合のいい状態とは、幸せよりも不幸、豊かで満ちたりるよりも貧困で不足、加害者よりは被害者の立場だったりするわけです。

つまり、自分の人生が思うようにいかない方が、それだけ「文句を言いたい自分」にとってはおあつらえ向きであるということです。

もしも、自分の心の中の比重として、「幸せになりたい自分」よりも「文句を言いたい自分」の方が大きければ、確実に不幸な人生になるということです。

「幸せになりたい自分」と「文句を言いたい自分」はちょうど真反対であるし、それらが心の葛藤を起こしているのです。

そしてここで投影のことを思い出してください。私たちは誰でも例外なく、自分の心の中にある望みどおりの人生を作る事ができるのです。

ですから、「文句を言いたい自分」が心の中の主導権を持っているとすれば、その心の部分に最も都合のいい、つまり文句を言い続けられるような現実ばかりがやってくるということになるのです。

皆さんは、自分の心を静かに見つめたときに、この「文句を言いたい自分」に気付くことはできますか?もしもそんなものはないと思うのでしたら、それはとてつもなく癒しが進んでいる場合か、あるいは抑圧が強くて自覚できない場合のどちらかです。

もしも自覚できるのでしたら、その自分はどんな望みを持っているのか、じっくり見つめてあげることです。そんな自分は情けないと否定してしまうのではなく、しっかりと正面から向き合うことです。

その上で、その自分を選択しないで生きることを決意することです。そうして、「幸せになりたい自分」を心の中で優勢にしてあげることです。

文句を言いたい自分

自分は昔から何に対しても評論したがる傾向があったようです。今でもそうした部分は残っています。学生のときの仲間にも、同じような友人がいました。

今思い出しましたが、社会人になりたてのときの先輩に、評論家と呼ばれている人がいました。どこにでも、一人や二人、そうした「うるさがた」的な人はいるものですね。

またどんなジャンルにも評論家と言われるような人がいるものです。例えば、政治評論家、映画評論家、スポーツ評論家など、本当に様々です。

そうした人たちは勿論それで生計を立てているわけですから、私や職場の先輩のような素人評論家とは比べ物にならないくらい、知識も豊富ですし分析の能力もすぐれているのでしょう。

そして、私たちはプロの評論家と呼ばれるような人たちの言った言葉や書いたものなどを参考にして、それを便利に活用しているという面がありますね。

しかし、評論というものは少し間違えば批評や批判につながります。そうなったら、冷静な評論というよりも文句の類とほとんど同じになってしまいます。

人は誰でも心のどこかに、自分の外側の何かに対して批判したい、文句を言いたいという欲求を持っています。実際に態度に出すかどうかは別として、そうした気持ちがあるのです。

それは生まれたときから死ぬまで、一生を通して持ち続けてしまうものなのです。文句は、自分以外を批判することで反対に自分は正しいということを証明することに繋がるからです。

文句を言いたい自分というのは、実は誰かを否定することが本当の目的ではなく、それによって自分を守ろうとする行為であるということに気付くことです。

幼いうちは、それが表面化しやすいため、子供は親によく文句を言うのです。駄々をこねるというような表現があるのも、文句を言う表現の一つです。勿論子供と言えども、何かの理由でそういう子供っぽさを出せずにいる場合も沢山ありますが。

しかし、いずれにしても成長するにつれて、そうした文句を言いたい自分を抑えて表現しなくなるようになっていきます。そうやって、本音と建前のような二重構造になっていくのです。

つづく

夜空の星

久しぶりに夜空に星が戻ってきたので、双眼鏡でいつもの場所を見ていたら、垂直に上から下に真っ直ぐに落ちる流れ星を見ました。

私の双眼鏡は倍率がそこそこ高いので、結構視野が狭くなります。オリオン座の真ん中にある三つの星がちょうど視野に収まるくらいです。

そのため、双眼鏡越しに流れ星を見ることは今までなかったのですが、まったくの偶然がとても嬉しいことを起こしてくれたわけです。

オリオン座やシリウスの少し左側には肉眼ではまったく見えない天の川があるのですが、双眼鏡で覗くと無数の星ぼしが集まっているさまが見て取れます。

それはそれは美しい星たちなのです。星は首と目が痛くならないなら、いつまでも見続けていたいと思えるくらい、本当にきれいだと思います。

これは趣味の問題ですから、誰もがそう感じるかどうかは分かりませんが、美しいと感じるときというのはその対象が何であれ、自分の中の愛が発動しているはずです。

だからこそ気持ちがいいし、何ともいえない穏やかな気持ちにもなるわけです。でも、そんな美しい星も自分の心の内面の投影だと思うと不思議な感じになります。

え、星も投影の一部なの?と思われるかもしれませんが、それは勿論です。自分が知覚するもので投影ではないというものは一つもありません。

そう思うと、自分の投影がすべて恐れからくるものだとばかりは言えないかもしれないなと思うのです。あれほど美しいものを自分に見せてくれるわけですから、投影も捨てたものじゃないなと思います。

自分の心って本当にすごいなあというのが星を見たときの本当の気持ちかもしれません。みなさんは何を見ると、感動しますか?美しいと思えるものが沢山あるほど、心が豊かになれますね。

今のうちは夜遅くでもまだそれほど寒くもないので、思い切って夜空を眺めてみてはいかがでしょうか?自分の投影に感動するかもしれませんよ。

景気の影響

毎年今くらいの時期になると、卓上用の小さなカレンダーを買います。いつもまったく同じものを購入して、セッションの予約を記しておくために使っていました。

昨日そのカレンダーを買うためにいつもの本屋さんに出向いたのですが、いくら探しても同じ種類のものが見あたりませんでした。

気のせいか、売りに出ているカレンダーの種類そのものが毎年の自分の記憶と比べて、とても少なくなっているように思いました。

仕方なくまったく違う種類のもっと大きめのカレンダーを買って帰ってきたのですが、やはり景気の悪さがこうしたところにも影響を与えているのかもしれませんね。

景気悪化の影響といえば、モータースポーツの最高峰であるF1世界選手権から、トヨタが突如撤退してしまいました。昨年はホンダも撤退し、来年はブリジストンも撤退が決まっています。

ご興味のない方にとっては何の問題もないことのように感じられるかもしれませんが、日本の自動車業界もアメリカ同様に赤信号が灯っていることの証明だと思います。

経済のことについては、まったく無知なのですが、一つ分かっていることは景気の良し悪しは人々の気持ちによって左右されてしまうということです。

私たちの心に不安が広がってくると、間違いなく景気は悪化すると思われます。いやいや、景気が悪くなるから人々の心が不安になるんだと言われるかもしれませんね。

仮にそうだとしても、私たち一人ひとりが景気の良し悪しに気持ちを左右されないようにすることができたら、きっと悪化した景気はあっという間に回復するはずなのです。

景気の低迷を長引かせているのは、間違いなく我々の心のあり方が原因だと言えます。ですから、自分の身の回りに起きていることに心を奪われないようにすることが大切ですね。

何が起ころうとも、心を穏やかな状態に保つことは本当はそんなに難しいことではないはずです。なぜなら、そもそもその心自体が周りの事象を起こしているのですから。

みずから起こした事柄によって自分自身の心を揺さぶられてしまうということは、本末転倒もはなはだしいと思うのです。常に自分が原因だし、景気の悪化も含めてすべての出来事はその結果に過ぎません。

どんなときでも、こうしたことを忘れずにいることができたら、常に心を穏やかに保つことができるはずですね。

愛のセラピー

セッションをやっていてセラピストとして一番困るのは、幸せになりたくないと思っている人がいらした場合です。幸せになりたくない人がなぜ、わざわざセッションにやってくるのか不思議に思うかもしれませんが、これは紛れもない事実です。

仮にからだの病気を治したくないと思っている患者さんが来たとしても、医師はその病気を治すことができるでしょう。本人が病気を治したいか治したくないかに関わらず、物理的な病気は治療できるからです。

しかし、明らかに心因性の症状については、本人がそれを本気で治したいと思わなければ治すことができないのと同じように、幸せになりたくない人を幸せに向かわすことはできません。

一般的に言えば、私たちは誰でも心の中に幸せにはなりたくないという部分を持っています。しかし、その部分は通常心の奥に隠されていて表面に出てくることはありません。

ですから、そうした心があるとは自覚していないのです。ところが、稀にそれをはっきりと自覚している人もいるのです。それは、あまりにもその心の部分のパワーが強いために、隠しておくことができなくなってしまっているからだと思われます。

そうした人は、例えて言えば薬物中毒患者に似ているといえます。禁断症状が出てしまっている人に幸せを求めてくださいと言っても到底聞いてはもらえないのは当然ですね。

そういう状態では、今その瞬間に渇望しているものを満たせればそれだけでいいという切羽つまった心のありようであるわけです。

そういう人にセッションをすること自体に所詮無理があるのかなと思ってみるのですが、そうした場合いつも思うのは、自分が小手先の技術を使ってセラピーをする方向に行き過ぎてしまっていることに気付かせてくれようとしているのかもしれないということです。

クライアントさんとのセッションで一番大切なのは、セラピストの愛です。クライアントさんを愛の塊であると見ると同時に、自分の愛を与えることなのです。

そのことを思い出せば、どんな心の状態のクライアントさんがいらっしゃっても、セラピストがするべきことは悩むことなく一つであるはずなのです。

講座

今年の7月から午前中の時間帯を利用して始めたヒーリング講座が今週で無事終了します。全10回の講座の中で、予定通り二種類のヒーリングスタイルの実習を終えることができました。

初めの頃は、どうなるものかとやや心配もあったのですが、みなさんすぐに上達されてしまい、ヒーリングを受ける側としてもヒーリングをする側としても、生まれ持った感性を最大限生かされたと思います。

受講された方々はどの人もみなさんまじめに取り組んでいただいたという印象を持っています。残念ながら、様々な事情もあって全員の方が卒業できたわけではありませんが、約20名の方々に修了証書をお渡しすることができました。

講座では毎回みなさん一人ひとりの過去二週間のレビューから始まるのですが、それを全員でシェアすることもとても参考になり、大変有意義だったと思います。

この場を借りて、受講されたみなさん全員に感謝の気持ちをお伝えしたいと思います。本当にありがとうございました!

来月からまた、第二期のヒーリング講座をスタートいたします。講座名も、「ヒーラー養成講座」と新たにし、心機一転してより意義深い講座にしたいと思っています。もしも、ご興味がおありでしたら、HPの更新情報をご覧下さい。

また、そのほかにも以下のような新しい講座等も開始する予定です。

○不登校児を持つ親のための講座 3,000円×10回=30,000円 各曜日ごとの定員4名

○カウンセラー養成講座 3,000円×10回=30,000円 各曜日ごとの定員4名

○ヒプノセラピスト養成講座 6,000円×5回=30,000円 各曜日ごとの定員2名
 上記カウンセラー養成講座を修了している必要がありますので、開始は来年になります。

○よりよく生きるための座談会 2,000円 MAX6名(3名以上集まったら開催します)

ドッペルゲンガー

みなさんはドッペルゲンガーという現象をご存知でしょうか?自分と瓜二つと言っていいほどそっくりな人が自分の知らない場所で目撃されたりすることを言います。

世の中には自分にそっくりな人が○人いるというような事を聞いたことがありますが、それとはまったく別の話です。

他人の空似ではなく、完全に自分がもう一人いて、違うところに出現するという現象です。ある種の都市伝説のような感じで言い伝えられているようですが、そのことについて少しお話しします。

私は以前あるヒーリング・スクールのような場所に通っていたことがあるのですが、その授業はホールのようなところにみんなで輪になってすわり、瞑想することから始めるのです。

ある日、私は遅刻しそうになって時間に間に合いそうにないなと多少焦りながら、その場所に向かっていました。程なく、そのホールに着いたときにはもうほとんどの人が着席して瞑想を始めていました。

空いている席を見つけてそこにすわり、みんなとおなじように瞑想に入ってしばらくしてから、隣に座っている女性からこう言われました。

少し前に私に似た人が今私が座っているこの席に急いで座ったのを見たというのです。そしてしばらくすると、今度は私が先ほどの人とまったく同じように急いでこの席に座ったらしいのです。

つまり彼女は同じ光景を二度目撃したというのです。ただ、最初に入ってきた私のそっくりさんは全体的に銀色に光っているように見えたと言っていました。

きっと、遅刻するんじゃないかと思う気持ちが肉体よりも先にその場所に行ってしまっていたのではないかと解釈できます。そういう意味ではいわゆる生霊のようなものですね。

本人の思いとしてのエネルギーが肉体を離れて、その場所に行くのだろうと思うのです。以前私は、自分のすぐそばに友人が直立不動で立っているのを見たことがあります。

その時は、そこに肉体を持った友人そのものがいるというよりは、そこにいるのをはっきりと感じたと言ったほうが近いかもしれません。ただ、目で見たというよりもそこにそうしているのはしっかり分かったのです。

自分の気持ちが外側の何かに強く向かっているような場合に、このようなことが起き易くなるのではないかと思います。また、心が辛くて自分の中にいたくないようなときにも、こういったことが起きるような気がします。

皆さんは経験があるでしょうか?グラウンディングをしっかりして、心を自分の内側にしっかり据えていれば、こうしたことは起きないはずですね。