緊張

面接試験の時とか、人前で何か話しをしなければならないときとか、そういったときに人は大抵緊張するものですね。緊張の反対は弛緩、つまりリラックスです。

緊張し過ぎてしまって、思ったように話しができなくて困るといったことでセラピーにいらっしゃる方もいます。本人にとっては切実な問題なわけです。

勿論、緊張する事自体が悪いことではありません。適度な緊張はかえって気持ちがひきしまり、しっかりとした態度で事を成すこともできるからです。

緊張が困るのは、二つのことです。一つは、緊張の度合いが強すぎて、正常な精神状態ではなくなってしまい、大失敗をしてしまうということ。

そして、もう一つは緊張する理由がなくなった後からも、緊張が続いてしまうということ。つまりずっとリラックスすることができない状態が続くことです。

そして概ねこの二つのことは、おおいに関係があるためどちらか一つというよりも、両方を同時に経験することが多いのです。

緊張は防衛からくるものです。つまり、ダメな自分を見せてはいけない、だから失敗やそそうをしてはいけないという気持ちが強いとひどい緊張状態になってしまいます。

つまり緊張は自分をうまく守れないかもしれないという不安や恐れによるものでもあると言うこともできますね。

従って緊張を緩和するためには、ダメな自分という独りよがりの思い込みをまずしっかりと把握することです。そうして、その思い込みがどこからやってきたものなのかを特定します。

ほとんどの場合は、幼い頃の親からの肯定される経験の不足によるものです。幼いときには、自分で自分を認めるすべを知らないため、親から認めてもらうという体験がぜひとも必要です。

それが十分になされないまま成長してしまうと、自分はダメな存在だというレッテルを自分に貼ってしまいます。その思い込みが放っておくと一生付きまとうことになるのです。

そのことをしっかりと理解して、馬鹿げた幼い頃の自分への思い込みをご破算にしてあげるのです。つまり、それが自分を許すということです。そうすることで、強い緊張で自分を守る必要もなくなります。肩が凝って仕方がないという人はこのことを疑ってみることをお勧めします。

否認 その2

昨日のつづきです。

自分にとって都合の悪い自分を、「それは自分ではない」として自分から分離することを否認というというお話しをしました。

そうやって自分の心には沢山の都合の悪い断片が出来上がってしまいます。それと同時に、その都合の悪い部分を見えなくするために、自分の心の奥深くに隠してしまいます。これを抑圧といいます。

これで表面にいる自分の意識は都合のいい自分だけになって、気持ちよく毎日を生活できるというわけです。

そして、日々の生活の中で、あらたに都合の悪い自分が出現しようとするたびごとに、やはり「それは自分ではない」として、心の奥深くにしまい込み続けてしまうのです。

この否認による自己防衛はうまく機能しているようにみえて、実は限度を超えると大変なことになってしまいます。

それは、あまりに抑圧し過ぎたものは、その下向きの力に反して上向きに逆襲してくることになって行ってしまうからです。

そうすると、今まで理性的に生活していた自分が、いきなり幼い子供のような言動をしてしまったり、急に泣き出したり、怒り出したりしてしまうことになるのです。

何か自分の中に別の自分がいて、それが心の中で暴れているような感じがしてしまうかもしれません。実際、そのようなことが心の中で起きているのです。

これは、都合の悪い自分を見ないように否認して蓋をしてきたことの「ツケ」が回ってきたということに他なりません。これを解決するためには、否認を解除するしかありません。

それには、何を否認し続けてきたのかということをしっかり確認する必要があります。ところが、否認してきてしまった自分の心の断片を直接心の奥に探しにいくことは相当に難しいことです。

それはもしかしたら、苦行難行を積んだ修行僧のような人なら可能かもしれませんが、凡人である私たちにとっては至難の技です。

しかし、そんな難しいことをせずとも自分が無意識に否認してきたものは探さずとも見えるところに実はあるのです。

人の心のメカニズムとして、奥深くに抑圧した都合の悪い自分の部分は、必ず自分の外側へと投影されます。その投影されたものこそ、私たちの身の回りに起きているこの現実であるということです。

従って、目の前にいる都合の悪い人たちを見れば、それがそのまま自分が今まで否認してきた都合の悪い自分であるということです。

誰かを許すとは、否認してきた自分を認めるということと同じであることがこれで理解できたと思います。周りを許すことで分断されていた自分の心が一つに戻るのです。

否認

否認とは自己防衛のもっとも基本的な方法です。自分を守るために、自分の心にある自分にとって都合の悪い自分を人は否認します。

否認することを具体的な言葉に置き換えるとすると、「それは自分ではない」ということになります。自分であるものを自分ではないと思い込むのです。

そうすると、当然の結果として自分であり続ける心の部分と、自分ではないと切り離された心の部分とに分裂することになります。

自分にとって都合の悪い自分とは、たとえば罪悪感を感じさせる自分、自己否定や自己嫌悪を思い起こす自分、つまりダメな自分、あるいは情けない自分、惨めな自分、恥ずかしい自分、無価値な自分など、数え上げたらきりがありません。

たとえば、怒りを感じる自分はダメだと思えば、怒りを感じた瞬間に、その怒っている自分は自分ではないとして否認するのです。そうすると、冷静な自分と怒りを持つ自分とに心は分断されます。

一度それに成功してしまうと、毎日の生活において感じるあらゆる怒りは、瞬間的に自分ではないとされる自分の心へと横流しすることになります。

ですから、表面的な自分はいつもおだやかで、心のやさしい自分でいられるわけです。その分、怒りを受け持たされた心の部分は知らず知らずのうちに激しい憎悪の塊と化していきます。

自分は物事に腹を立てているという自覚がないですから、我慢しているということも分からないままに、怒りの感情だけが、自分ではないとされた自分の心の部分に溜められて行ってしまいます。

怒り以外にも、ありとあらゆる不都合な自分は、自分以外の別のものとして分裂した状態で実は自分の心の中に保たれるのです。

俗に言ういい人というのは、多くの場合こういったことを心の中で無意識的に行っている人であると言えるかもしれません。

孤独感

寂しいという気持ちを知らないという人はいないはずですね。特に子供の頃は寂しいという感覚といつも一緒だったように記憶しています。

その寂しさをなるべく見ないようにして、毎日生きていたのかなと思います。それが、大人になるにつれて、少しずつ心の自立と共にあまり寂しさを感じることがなくなってきました。

しかし、大人になっても人一倍寂しがり屋という人もいます。男性よりも女性の方がそういった傾向がもしかしたら強いのかもしれません。

この寂しさというのは、言ってみれば孤独感からくるわけです。人は誰しも他の誰かとは別の個体であって、そういう意味では孤独であるといえます。

しかし、孤独感というのは、単に他と分離している個であるという意識よりも、自分は誰からも助けてはもらえない、というような孤立した感覚からくるのです。

それは別の言い方をするなら、自分は誰とも繋がっていないという意識ともいえます。からだは別々でも、心と心が通じ合っているという認識があれば、孤立してはいないからです。

こういった意識を強くもって生きていると、とても耐え難いような孤独感を持ってしまうことになります。そのままでは辛すぎて生きていけないので、それをできるだけ感じないようにして生きることになるはずです。

そうしたごまかしをしても、その孤独感を完全に忘れることはできないし、本人は心のどこかで分かっているので、人生を楽しむことはできないのです。

孤独感を少なくしていくには、頑張ることをやめて、困ったときには自分以外の誰かに対して素直に「助けてください」を言える気持ちになればいいのです。

それは委ねる心を取り戻すことだとも言えます。助けてもらうことを恥じないことです。それが分かると、自分で隔てていた外側との距離が自然と縮まるのです。

そうして、人との心の繋がりができるのです。それは自分を過度に守ろうとしないという意識でもあります。結局、それは与えるという側で生きようとすることになり、人を孤独感から救ってくれることになるのです。

片栗粉

片栗粉を水に溶かしてドロドロの溶液を作ると、とても不思議な現象が起きるのをご存知でしょうか?その溶液は、瞬間的な力には岩のように固くなり、ゆっくりした力には液体のように反応するのです。

例えば、バケツにその溶液を満たして、上からコブシでできるだけ早く突けば、セメントのように固い物質になるし、普通にコブシを入れればただの溶液のままであるのです。

これを使ったお笑いの番組を見た事があります。プールを小さくしたくらいの中にその溶液を満たして、そこをお笑い芸人たちが走って渡るというものです。

両足を速く上下させて走れば、固いものの上をただ走っているように渡りきることができるのですが、疲れてきて足の速度が遅くなると、途端にズブズブっと溶液の中に沈んで行ってしまいます。

走らなくても、ものすごく速く足踏みをすればその溶液の上にいられるのですが、いずれは疲れて足踏みが遅くなり、沈んで行ってしまうというお笑いでした。

それを見ていてイメージしたことがありました。それは、ある人の人生です。その人は毎日をのんびりと過ごすことができなくて、常に走り続けているような人でした。

いつも走り抜けていくその人が、たまに立ち止まることがあったとしても、決して速い足踏みをやめられないのです。もしも、止めてしまったらその人の人生がズブズブと沈んでいってしまうと本人が思っているかのようです。

いつも多忙にしている人、これといって何かをする必要もないときでも、常に身体を動かしているような人、このようなタイプの人は大抵瞑想することが苦手かもしれません。

瞑想は自分の内面にズブズブっと入っていこうとする行為です。それが怖いために、常に走り続けているのです。本人はそのことに気付いていない場合が多いかもしれません。

一度片栗粉の溶液の中に沈んで行っても、何でもないという経験をしてみるということをお勧めします。きっと、分からないないようにしていた様々なことに気付くことができるはずです。

志(こころざし)の高さ

時々ですが、世の中には志が高いなあと思える人がいますね。同じ仕事をするにしても、その人の志が高いかそうでもないかということは、何となくその仕事の種類、その進め方や成果物などに反映されるものです。

志の高い人は、思い入れも大きいと言えるかもしれませんね。ですから、おのずと過程や成果の質の高さというものが滲み出てくるかもしれません。

例えば、いい政治家になって、国の将来を担おうと思っている志の高い若者もいるでしょう。実際、ある程度志が高くなければ、政治家になろうなどとは思わないはずです。

それなら、政治家に汚職や贈収賄の疑惑がいつも付いて回るのは一体どうしてでしょうか?実は本当に志の高い人というのは、当の本人にはそういった自覚はないものです。

端から見て、志の高さを感じるとしても本人的にはそうしたいからやっているというのが真実なのです。貧民救済活動で知られるマザーテレサの志の高さに異論を唱える人はいないでしょう。

しかし、彼女は自分は志を高く持って活動しているということではないと言明していました。ただ、神の喜ぶことは自分の喜びであるということで、その活動を続けたのです。

彼女の活動はシンプルに愛がベースにあったというだけなのです。そして、彼女自身、自分はとてもわがままに自分のしたいことを誰が反対してもやり抜いただけだと言いました。

逆に、自分は人に比べて志が高いというふうに自覚している人がいたとしたら、それはベースが愛ではない可能性があります。

心の奥に、自分に対する否定的な思いや嫌悪感などを強く持っていると、それを何とか打ち消そうとして志を高くしようとする場合があるからです。

その場合にはベースにあるものは愛ではなく、自分を否認しようとする防衛であるわけです。だから、その志の高さは愛の場合のようにずっと継続することが難しくなるかもしれません。

志を高く持ち続けるということは一見すばらしい事のように思われがちですが、このように分析すると、まったく違った見方ができるのです。

三つの過ち

「奇跡のコース」によれば、私たちは大抵次の三つのことを信じて疑わないでいると言っています。それは、

-自分が攻撃されている
-それに対して攻撃し返すことは正当だ
-そんなことに巻き込まれた責任は自分にはない

確かにその通りだと思えるようなことは沢山あり、私たちは、それは信じているというよりも事実だと言いたいわけです。

例えば、クルマを安全運転していて、交差点の横から飛び出してきたクルマにぶつけられたとしたらどうでしょうか。

自分は何も悪くないにもかかわらず、大切な自分のクルマをぶつけられてしまえば攻撃されたと感じます。それはたとえ相手に悪意がなくてもです。

そうすると、咄嗟に相手に罵声を浴びせかけたくなってしまうかもしれませんね。それも正当な怒りだと思うのです。「何やってるんだ!」くらいのことはつぶやくかもしれません。

そして、こんな事故に遭遇することは、自分には何の責任もないと当然思いますし、100%相手の不注意だと断定するでしょう。

そうやって、つまりは上の三つのことを信じることになるのです。確かに常識的に考察して、自分に落ち度はまったくないし、そうした事故に巻き込まれる責任は自分にはないと考えます。

だからこそ怒りが出るわけですね。その怒りを鎮めたいと思う人もいるでしょうけれど、この怒りは正当なものだと考えると、威勢良くその怒りを相手にぶつけてしまうこともあるでしょう。

人生において自分が遭遇するいやな出来事、理不尽なことは大抵この三つの思いを想起させることになるはずですね。

しかし、当然だからと言っているだけでは心の平安はやってはきません。本当に幸せを望むのでしたら、どんな場合でもこの三つを手放すことなのです。

自分が攻撃されていると思うのは、自分の外側に起きていることは自分の心の投影であるということを忘れているからです。

投影として物事を見ることができたら、攻撃されているとはみなさなくなります。つまり相手は加害者でもないし、自分も被害者ではないという新しい認識ができます。

その結果、怒りによって攻撃し返すということに、正当性はなくなってしまいます。そして、そうした出来事に遭遇することも、自分の内面の投影による結果だと理解すれば、相手に責任を押し付けるということがなくなるのです。

これが許しの全貌です。いついかなるときも、100%投影だと分かっていればすべてを許すことができるのです。これが本当の心の平安につながるということです。

仕返しの人生 その2

昨日のつづきです。

人は親から受けた惨めな思いや体験に対する仕返しをするために多大なエネルギーを費やし続けるというお話をしました。

本当に自覚がない場合が多いので、それは延々と続くのです。そして、その仕返しという目的のために、数限りない自己犠牲を強いてしまうのです。

大人になってからする仕返しで一番代表的なのは、不幸せな結婚をするというものかもしれません。常識的には幸せになるために結婚をするのですが、それを仕返しに使うのです。

そうすると、結婚生活は悲惨なものとなるはずです。それが、親への見せしめであり、自分が不幸になることで仕返しをするのです。

勿論本人にはそんな自覚はまったくありません。表面的には幸せになろうと考えて相手を選び、結婚するのですが、心のうちではとんでもない仕返し劇を考えています。

例えば、ドラマなどでよく見るシーンとして、結婚式の前夜に両親に対して、娘が今まで育ててもらったことへの感謝の気持ちを伝える、みたいなものがありますね。

その時に、心から「私は結婚して幸せになるね。」と両親に言えるなら、仕返し目的の結婚ではないと思われますが、そうした気持ちがないままに結婚したなら、仕返しの結婚である可能性が高いかもしれません。

自分の大切な人生を何かの仕返しのために台無しにしてしまうとしたら、こんな残念なことはありませんね。そうした復讐劇から抜け出すためには、毎日許しの実践をすることです。

幼いころの親を許し、仕返しするために結婚したパートナーを許し、自分の周りの人や出来事のすべてを許していくことこそ、仕返しから本当に足を洗うことなのだと思います。

仕返しの人生

誰でも一度や二度、何かの理由で相手に仕返ししてやりたいと思ったこと、実際に仕返しをしたという経験があるものです。

そもそも、仕返しとはどういった心の働きかということについて考えてみたいと思います。なぜなら、私たちは実は気付かぬうちにこの仕返しのために多大なエネルギーを費やしているということに気付いていない場合が多いからです。

子供の頃に兄弟げんかをして負けてしまい、欲しいものを相手に取られてしまったら、それがすごく悔しければいつかその仕返しをしたいと考えるものです。

その方法は、親に泣きついて相手をしかってもらうとか、その他さまざまな方法によって相手にぎゃふんと言わせてやりたいと思うのです。

もしかしたら、自分は何も手を下してなくても、相手の身に何か不利益になるようなことが起きただけでもざまあみろと思うこともあるかもしれません。

この仕返しというのは、相手という加害者から不当な不利益を被ったと感じたときに、その惨めでかわいそうな自分を守るために自分の気持ちを相手にわからせようとする行為なのです。

どれだけ自分が辛く惨めな思いをしたかを相手に理解させることができたら、仕返しはその目的を達成することになります。

しかし実際には、大抵の場合いくらそうしたことを期待しても相手に自分の気持ちを十分に分からすということにはならないものです。そのため、仕返しはいつまでたっても終わりません。

特に、幼いときの親に対する仕返しは、無意識のレベルで行われ、しかも大概一生かかってもそれは終わりません。そして、そのために自分の人生を台無しにしてしまうのです。

そのことについてもう少し深く考察したいと思います。

つづく

信じる能力 その2

昨日のつづきです。

人は誰でも平等に信じる能力というものを持っており、その力を使って自分が作ったエゴを信じて生きてきたのです。その結果が今の自分の人生だということをお話ししました。

では、これまでエゴが私たちに信じ込ませてきた法則とはどういうものでしょうか。それは概ね以下のようなものです。

-自分は他と分離した一個体である

-自分に固有の心と身体を持っている

-自分の力で自分を守らないと傷つけられる

-足りないものは外部から取得することで満たされる

-自分のものを誰かに渡せば減る事になる

-自分の能力を進化させて何かを成し遂げることに価値がある

-罪は罰することにより、秩序が保たれる

他にも沢山ありますが、そのどれもが一般常識的なものであるわけです。しかし、こういったことを信じてしまった結果、この世は争いの世界となっているのです。

いくら世界平和を願っても達成されないのは、こうしたエゴの法則を完全に信じきって生きているからに他なりません。

エゴのルールには、すべては一つという愛の想念は含まれてないのです。愛がない状態は、恐怖であり、怒りによる攻撃です。

常に欠乏を発生させ、満たされることがありません。本当に心から満たされ、常に心が平安でいられるためには、このエゴの法則を信じることを放棄することです。

あるいは、この法則を手放して別のものを信じることにする必要があるのです。どんなルールもいらない、ただただこの世界は愛であり、自分自身も愛そのものだということを信じるということです。

そうすることで、自分の本質は個ではなく、すべてと一つであるという愛に戻ることになるのです。