裁くこと その2

昨日のつづきです。

日々続けられている裁くという心の行為、それは対象となるものに罪を与えて、罪悪感を想起させるのが目的だというお話しをしました。

そしてこの裁くことは、勿論意識できることもありますが、その大部分が無意識的に成されているのです。意識して悪いものは悪いとして、何がいけないのかと言われる方がいるかもしれません。

確かにこの世界はそうした裁きによって、ある秩序が保たれていると見ることもできます。交通規則を破れば罰金を科せられますし、人のものを奪えばそれ相当の罰が与えられます。

しかし、ここで話題にしているのは、そういった規則や法律のことではなく、純粋な心の問題なのです。心の問題が一番幸せに関わる大切なことだからです。

どんなにすばらしい法律があったとしても、それで幸せになるわけではありません。話しを元に戻して、裁いた結果は罪を認めることであり、その結果として罪悪感が発生するのです。

もしも、電車の中でマナーを守れない人がそばにいて、その人を心の中で裁いたとすると、それはその人に罪があると断定することです。

そして、最終的にはその人がそのことを自覚することで、自らの心の中で罪悪感を味わって欲しいと思うのです。だからこそ、その人が何も悪びれる様子もないままでいたとすると、怒りが湧いてきます。

その怒りは、相手に罪を認識させてやりたいという攻撃的な気持ちなのです。もしも直接相手に注意することができずにいると、その怒りはやり場のないイライラ感として残ってしまいます。

逆になんらかの理由で相手が自分の非を認めるような態度をすれば、それは相手の中に罪悪感が湧いたという証拠であるとみなすために、穏やかな気持ちに戻れます。

このように、我々は常に対象となる人に罪悪感を感じさせておきたいという欲求があるということです。それは、実のところ罪悪感を持っている自分を隠す隠れ蓑として使おうとするからなのです。

だからもしも裁かないでいるとしたら、世界中で自分だけが罪深い人ということを認めることになり、こんな怖いことはないのです。

しかし、実際には周りを裁くことをやめていくことができるとしたら、それと同じようにして自分の罪悪感も減らしていくことができるのです。

なぜなら、自分がそれまで裁いてきた罪深い人たちとは、自分の罪深さの投影に過ぎなかったからです。我々が飽くことなく繰り返している裁くということを勇気を持ってやめることができたら、この世界は間違いなくユートピアになるでしょうね。