人生という物語を生きる

もうすぐ年が変わりますね。今、毎年恒例の年越しそばをいただいたところです。人生はそばのように細く長く生きるという意味で食べる、ということらしいですが…。

本当のところは定かではありませんし、私の場合はとりあえず、麺類が大好物なので食べ続けてきたということでしかありません。

どういうわけか、長寿つまり長生きというのはめでたいということになっていますね。せっかく、生まれてきてこの人生という物語を堪能するのですから、短いよりも長いほうを好ましく思うのも、分からないでもありません。

けれども、長くても短くても人生は人生です。映画を見に行って、短編だから長編よりも価値が低いなどということはないのと同じです。

そしてもっと言えば、長短だけでなく、その内容がどんな物語であったとしても、いい悪いということはないのではないかと思います。

ラブストーリーがあれば、戦争の物語もあるでしょう。悲劇があれば、喜劇もあります。まったくドラマチックではない人生であっても、それもありです。

人生でどう生きたかということも、何をしたかという実績も、それもまた人生の一部であって、さまざまあっていいのでしょう。

敢えて言えば、ただ一つだけ、人生という物語の中に生きて、それを本当の意味で物語であると分かること、その物語の中の主人公を演じているのは本当の自分ではないということ、そのことに気づくことこそが、大いなる喜びなのではないかと思うのです。

みなさん、よいお正月をお過ごし下さい。今年も沢山の感謝を込めて…。

源泉に身を委ねる

今年もあと一日で終わりですね。今年いっぱいで仕事を完全に終えるつもり満々でいたものが、こうして今でも仕事を続けているのがやや不思議な気がします。

それどころか、来年以降もある程度からだが続く限りは、もしかしたらこの仕事を続けていくのかもしれないとまで思うようになりました。

でも本当は、身体がしんどかったり、そこまでして続けなくてもいいのではないかと囁く声がどこかにあるのも感じています。

それなのに、なぜやめないのだろうと考えても、本当のところはよく分からないのです。もう、これは自分の意志ではないかもしれないと思うのです。

日頃、チャンスがあれば、人に自由意志はないですよと伝えているので、それは当然のことなのですが、それにしてもただ起こるべきことが起きているというのをリアルに感じます。

勿論それは自分のことだけではなくて、みなさんのことや、この日本のこと、あるいは全世界で起こるあらゆることにも言えることですね。

私たちは、自分の身に起きていることに対して、自分がそれに深く関わっていると思い込んでいますが、本当はそうではありません。

私という思考には、全くどのようなことを起こすパワーもないのですから。何のパワーもないくせに、解説だけは一人前なので惑わされてしまうのです。

もう、そろそろ分かってあげてもいいと思います。私という思考には、何かを起こす力はありません。あらゆることを起こし続けている力とは、すべての源泉からやってくるものです。

どうころんでも、それに身を委ねてただ受け入れることによって、独りよがりの重荷や苦しみから解放されるのです。その源泉こそが、本当の私たちの姿なのです。

清々しい人生への始まりです

この二ヶ月間の間に、とても偶然とは思えないようなことが起きています。それは、今まで何となく目を逸らし続けて来た人たちが、急に逃げなくなってきたのです。

それも、数人ではなくて一斉にそんな状態になってきているという印象なのです。これはとても嬉しいことなのですが、本当に不思議です。

やはり、何か特別な時期に来ているのかもしれません。多くの方たちが、私のつたない話を真正面から聞いてくれています。

私の話というのは、いつだって自分を守ってきた人にとっては、聞くのが苦痛であるはずなのです。だから、今までは分かったようでまた忘れるということを繰り返してきたのでしょう。

それが、ここへきて、どうやらみなさんの癒しに本腰が入りつつあるのでしょう。それを、とても間近に見せ付けてもらっている感じがします。

私の伝え方も、以前よりもずっとある意味厳しい口調になっているなということも分かっているのですが、でもきっとそれが原因ではないと分かるのです。

とにかく、大勢の人が逃げなくなりつつあるのです。これはもう間違いのないことです。そのことが、何とも嬉しくて嬉しくて…。

痛みを伴うのは覚悟の上で、みなさんがようやく防衛を解除するときが迫ってきているのがはっきり分かるのです。

そしてそれは、穏やかに多くの方のところへやってくるでしょう。そのときになって、本当に人生で何があろうとも、清々しい気持ちで生きられるのだと知ることになるのです。

常に新鮮さの中に在る

本当は、ただ在るだけなのに、思考は少しの隙間もないくらいに、絶えず事細かな解説をし続けています。

思考が緩んでくると、時間経過の間隔が曖昧になってくるということは、時間を作り出しているのは、思考に違いないということが分かります。

物事を時間の流れの中にしか捉えることができないのも、思考の特徴です。それが、実は物語を継続させる方法なのです。

本当は私たちが思っているような時間はありません。一瞬一瞬に起きては消えて、また起きては消える。これを繰り返しているのです。

つまり、連続しているように思えるあらゆる事柄は、すべてが不連続であるということ。不連続なので、日常的に感じている因果というものなど本来あるはずもありません。

原因があって、その結果が起こるというのは、単なる思考の解説に過ぎません。すべては、この瞬間に新しく生まれては、消えていくのです。

それは何と美しいのでしょう!どの瞬間も完璧で、完全に独立していて、いつも新鮮で、そこには物語など一つもあるはずがありません。

物語が大好物のエゴからすると、その物語の中にこそ美しさや愛があると思いたいのですが、真実はそうではありません。

本当の私たちは、いつも生まれたばかりの新鮮さそのものの中にいる、そしてそれ自身こそが私たちの本当の姿なのですね。

愛を理解することはできない

私たちには、物事を理解したいという欲求があります。分からないままでは、何だかすっきりしないのです。できるだけ多くのことを把握しておきたいのです。

なぜなら、理解できているものが多ければそれだけ安全だという感覚があるからです。幼い頃は、社会のことやこの世界がどんなものなのかさえ分からないので、それだけで不安なのです。

大人になるに連れて、いろいろなことを理解していくにしたがって、不安も少しずつ払拭していくことになります。

私は幼い頃に、両親に連れられて夜クルマであちこちに一緒に外出させられていたのですが、どこへ行くのかとか、どのくらい遠いところなのかとか、何も分からないので不安でした。

その不安があったから、車酔いもしていたのではないかと思うのです。なぜなら、大人になって出かける目的や、かかる時間や走る道路を知っているだけで、安心するようになったおかげで、車酔いがなくなりました。

それだけ、分かっている、理解できているというのは心の安定には欠かせないものなのだということです。

けれども、今になってようやく気づくことができたのですが、理解できることというのは、あくまでも思考の中でのことだということです。

思考の中で分かったつもりになっているだけで、それは真実からは程遠いものだったのですね。真実なるものとは、決して理解できるようなものではありません。

知覚できないもの、理解することができないものこそ真実であり、そこにこそ本当の愛があるのだと思うのです。

三重苦になってしまった

ただいま、絶不調男となっています。何と、5,6年ぶりくらいだと思うのですが、珍しく風邪を引いてしまいました。

今までも、時々は喉が痛いかなと思うようなことはあったのですが、そのたびに難なく治ってしまっていたのでした。

それが、今回ばかりはどうもはまってしまったようで、きっと引越しなどの疲労によって、免疫が弱っていたのでしょうね。

そして、風邪をひくと大抵は自分の身体の一番弱い部分も影響を受けるのですが、私の場合はお腹に来てしまいました。

それも突然、数時間前から痛くなって、何度もトイレに行かねばならないような状態になりました。なんだか、さらに体力を奪われてしまうようで。

そして重なるときは重なるものですね。今朝、お風呂で腰をかがめた瞬間に、ギクっときて、それからずっと真っ直ぐに伸ばせない状態でいます。

つまり、今私は三重苦のさなかというわけです。この苦痛も受け入れようとやっていますが、周りの人への配慮まではできないようです。

それでも、これも一つの物語の場面に過ぎないということも、分かっているので、以前よりはどこかで寛いでいる心の部分もあるのです。

なんか、強がりに聞こえてしまうかもしれませんが、ウンウン唸りながらも心の奥ではそれを静かに見ているのです。

さすがに疲れたので、今日は早めに寝ることにします。みなさんも、身体に気をつけて下さいね。

目覚め体験後も人生は続く

自分は誰でもないということがはっきりしたとしても、肉体が朽ちるまでは人生というものは相変わらず続いていくのですね。

そして、やっぱり相変わらず困った事態もやってくるし、身体の具合が悪くなることも同じようにやってくるのです。

それなら、本当の自分が純粋な意識だと気づいても、これといって何も変わるようなことはないのではないかと感じても当然でしょう。

そうなのです。仮に覚醒体験したとしても、具体的には何も変わらぬ毎日がそれ以降も淡々と繰り返されていくばかりなのです。

幼い頃に溜め込んで、抑圧したままになっている感情があれば、それが今現在の自分にチャンスと見れば襲い掛かってくるのです。

したがって、生きている不自由さやうまく行ってない感というのは、やはり感じるわけです。だから、心の癒しもそれなりに必要なのです。

そういうわけで、目に見えるような変化はないのです。けれども、自分が何かを知ると、やはり何かが変わるのです。

それはどんな状況になったとしても、比較的短い時間で深刻さから抜け出すことができるようになるのです。

自分の惨めさを感じたとしても、どんな感情がやってきたとしても、心の底から落ちていくことがなくなるのです。

なぜなら、人生や宇宙もすべてが精巧にできた物語に過ぎないということに常に意識を向けていることができるからですね。

これこそが、本当の救いなのですね。

エゴをピカピカに磨いてもエゴなのです

セッションを思い切り低料金にしてみたら、今まであまりいらっしゃらなかったようなクライアントさんが来て下さるようになったと感じています。

学生さんや、わけがあって金銭的な余裕がない状態の方々も含めて、来て下さっています。少しは、受け口を広げることができているのかなと。

あまりに低料金過ぎて、かえって疑われるので止めたほうがいいと言われたこともあるのですが、そんなことはものともせずに多くの方々に来てくださっています。

そんな中で、私自身はいつ、どのタイミングで「真の自己」について口に出してみようかと、虎視眈々とねらっているのです。

実は、それがなければもうこの仕事からは足を洗おうと思っていたのです。従来どおりの心の癒しをどれだけ積み重ねたところで、根本的な変化はしないと分かったからです。

それは何を隠そう、この自分の癒し体験を通して判明したことなので、こればかりはもうどうしようもありません。

だから、セッション中いつも思っているのは、本当はこれは物語なので、癒しの作業も物語の一環でしかないわけなんですよと。

無駄なことではないにせよ、早くこのことに気づいてもらいたいと思うのです。勿論、その人なりの時期というものがあるのでしょう。

だから、それを待っていればいいのかもしれませんし、神の恩寵はいつか必ず向こうからやってくるものなのでしょうね。

それでもいつもお伝えしたいのは、人物としての自分を磨き上げてピカピカにしようとするのは、エゴそのものだということなのです。

痛みから逃げないこと

心の鎧をまとったその内側に、守るべき弱い自分、見たくない惨めな自分がいることを思い出すことです。

どんな人であっても、必ず情けない弱々しい自分を隠し持っているものです。その部分を、他人からも自分自身からも見えないようにしているのです。

けれども、そのことをもっと正確に捉えておく必要があるのです。つまり、自分のことを弱いと思っている自分がいるということです。

惨めだという思い、情けないという思い、ただそれを隠し持っているということです。実際に惨めだったり情けないということではないということです。

私たちは、つい思考の中でめぐらしていることを真実だと思ってしまう癖があるようです。実際には、どんな自分もいません。

ただあるがままのことが起きているだけだからです。それを思考が勝手な解釈を作って、自分のことを否定しているだけなのです。

思考はあたかもそれが事実であるかのようにして、そこに様々な感情を生み出すのです。そして本当は、その感情から遠ざかろうとしているに過ぎません。

なぜなら、その感情は心に痛みを感じさせるものだからです。ですが、それは単なる痛みでしかないのです。それ以上でもそれ以下でもありません。

ただの痛みから逃げようとするからこそ、苦しみを背負うことになるということに、もうそろそろはっきりと気づく時が来ているように思います。

コースの勉強会がひとまず終了です

今日をもって、丸4年の間続けてきた奇跡のコースの勉強会が終わりを迎えることになりました。月に一度のペースですから、都合48回やったことになります。

途中ですぐに投げ出してしまいがちな自分が、こんなに続けることができたのは、参加して下さったみなさんがいて下さったからに違いありません。

勿論一人では、何もできないですからね。それにしても、よくここまでやってこれたなあと感慨ひとしおなのです。

初めのうちは、コース自体何も分からずに、勉強会も手探り状態でした。今思えば、4年前は少し緊張さえしていた感じがします。

勉強会は、自分にとってはどれだけ理解することができたのかを、試される場のように捉えていたかもしれません。

それが、一生懸命テキストを読み、ワークを続ける原動力になったようにも思います。その感覚は、一年かけてワークを終了してからも継続していました。

それが、昨年の2月にダグラス・ハーディングさんの本との出会いによって、根底から変わってしまったのです。

つまり、コースを読む態度というのか、読む姿勢そのものが変化したのです。コースはいつか到達するための道ではなくなったのです。

それからは、ある意味余裕を持ってコースと触れ合うことができるようになりました。人というのは、やっぱり続けていくうちに自然になるようになっていくのですね。

勉強会の常連の方々が、来年の勉強会の会場の予約をして下さったようです。1月20日(日)9時半から、今までと同じ武蔵野公会堂の会議室です。

ご興味がある方は、是非気軽に参加されてみてはいかがでしょうか?