自分の正しさ

自分と意見や主張の違う人を受け入れることは、なかなか難しいことですね。それは、自分が感じていることや思っていることが正しいはずだという思い込みがあるからです。

つまり、自分の正しさというものを軸として、他人の言動を判断してしまうために、自分の「正しさ」と違うものは「正しくない」からこそ受け入れられないということになるのです。

「正しさ」というのは、常に「正しくない」ということと対比して論じられることであって、単独では「正しさ」というものが存在することはできないのです。

例えば、人との約束を守るということを考えてみると、約束を守らないという状況が想定できるからこそ、守ることは正しくて、守らないことは正しくないということになるのです。

もしも、約束を守らないということが不可能であるとなったら、約束を守ることが「正しい」とは言えなくなるはずです。

目の前の人に向かって、あなたは人間であるから「正しい」とは言わないのは、元々人間でしかあり得ないからです。もしも、他の動物に変わることが可能であるなら、人間である方が正しいと言う人が出てきてもいいわけです。

話しを元に戻すと、自分と違う意見を受け入れがたいのは、自分の正しさを大切だと思っているからだということが分かりました。

だとすると、もしも自分の正しさというものに執着がなければ、異なる意見や主張に対しても、それを受け入れることができるようになるということです。

このことは、生きるうえでとても大切なことです。自分と違う考えや感じ方、思いや信念などをどうも受け入れ難いと感じるときには、自分の正しさによって相手を裁いているということに気づくことです。

そして、執着してしまっている自分の正しさの価値とは一体何なのだろうということをしっかり見つめて見るといいと思います。

梅雨を快適に

まだ5月だというのに、もうつゆ入りしたということを聞いてびっくりしてしまいました。毎年、梅雨の頃は何となく気分がスカッとしないので、できるだけ梅雨は短く終わって欲しいと思っていたからです。

天候が身体や気持ちに大きく影響するという自覚のある人は意外に多いのではないでしょうか。私は低気圧と湿度がとても苦手です。

会社員の頃、いやいやながらアメリカに出張しなければならないことが多々あったのですが、実際に渡米してみると、あまりにもカラッとした気候のために健康になってしまうということがよくありました。

そのくらい、気候が心身の具合に影響を与えるということを知っていました。でもそんなことは自分だけなのかなと思っていたのですが、この仕事をするようになって沢山のクライアントさんとお話しするようになったときに、同じような自覚のある方がいっぱいいるということを知りました。

しかし、最近では気候のせいであろうと何のせいであろうと、自分の身体がそのために不快な状態になるというのは、実は間違いだったと分かったのです。

つまり、それまではずっと外側に不快になる原因があって、結果として自分の心身の具合が悪くなると思い込んでいたのですが、そうではなかったと分かったということです。

それは全く逆だったのですね。元々、自分の心の中に自分を不快な状態にさせようとする意識下の意志があり、それが外側に起きていることを利用して、あるいはそれを原因であるかのようにして、結果として不快な思いをするということだったのです。

このことに気づいたときには、笑ってしまいました。いかにも外に加害者がいて、自分は被害に遭っていると思い込んでいたのですから。

このことは、気候のことだけではなくて、あらゆることに当てはまることなんですね。こうしたことを受け止めることができると、何があっても自分の意志で自分の状態を元に戻せるということに気づくことができます。

人は、文句を言える状態に留まっていたい、誰か悪者を責めていたい、というように決して穏やかな平安な心の状態だけを望んでいるわけではないのです。

今年のつゆは長いかもしれませんが、このことをよくよく思い出して、心の快適さは自分でいつでも作り出すことができるということを実践してみようと思っています。

国としての自立心

昨日、少しだけ戦争に関連したことを書きましたが、それについてもう少し追加したいことがあります。日本はすでに65年間というもの、戦争をせずに平和な日々が続いています。

ということは、65歳以下の人はみな、戦争を知らないわけで、だから日本人は平和ボケしているのではないかとよく言われます。

しかし、世界の中にはもっと長い間一度も戦争をしないできた国もあります。たとえば、スウェーデンなどはそうですね。

ところが、あの国は決して平和ボケなどしていません。というのも、いざとなったら国民の全員が避難できるようなシェルターがちゃんと作られているからです。

それを維持管理するのには相当なお金がかかっているはずですが、それにも関わらず国民の意思として税金をそうした防衛に使うことに同意しているわけです。

なぜそのような違いがあるのかというと、日本は敗戦後自分たちの危機管理をアメリカに任せてしまったからなのだと思います。

つまり、国民自ら自分たちを危険から守ろうとするのではなくて、アメリカの傘下に入ることで大丈夫だろうという安直な考えでずっと時が流れてしまったということです。

これは言ってみれば、いい悪いは別として人間にしてみれば依存体質になってしまったということです。アメリカが作った日本の憲法には、「国の交戦権はこれを認めない」とあります。

人が幼いころの依存状態から成長して次第に自立への道を歩むように、日本も自立への道を歩む必要があるのかもしれません。

私の超個人的な考えなのですが、その自立の必要性に気づくために、目に見えない敵を作り出したのかもしれません。つまり、それが放射能被曝です。

これからは、国民の一人ひとりが自分の累積被曝量をある程度知った上で、どの程度の線量の土地に暮らしていけるのか、どの程度汚染された食物を食べてもいいのか、自分で判断していく時代に入りつつあると思うのです。

これは悲しいことですが、日本人の危機管理を中心とした自立心を育てるために、必要なこととして起こったことなのではないかと感じています。

勿論、自立は最終目的地ではありません。その先には、自分を委ねるという最もすばらしい境地が待っています。他のどの国の人たちよりも我々日本人にはそれができるように感じていますが、それは身勝手な偏った見方なのでしょうか。

生死を見据える

このブログを読んで下さっている方々の多くは私よりも年齢が若いと思うので、日本の最後の戦争である第二次世界大戦のことについて、学校で勉強したことを除いては、それほど身近に感じている人は少ないと思います。

1954年(昭和29年)生まれの私でさえ、親などから戦争のことについて聞いてもリアルな感覚というものを持ったことはありませんでした。

終戦が1945年だということは知ってはいたのですが、その年から数えてたった9年後に自分が生まれたんだなと改めて思い返してみると、戦争を身近に感じないで来てしまったことが、逆に変なのではないかと思ったのです。

今までそんなことは一度も考えたこともなくて、親たちのする戦争の話にはまったく興味もないし、戦争映画などにも関心を持ったことはありませんでした。

自分と戦争とは縁もゆかりもないという感覚でずっと生きてきたんです。それはみなさんと同じだと思います。

子供のころ、毎年8月15日の終戦記念日になると、戦争のことを忘れないようにというメッセージをテレビや何かで見聞きはしていましたが、何となく遠い話しのような感じがしていました。

ところが、9年というのは今になるとものすごく短い間でしかないという感覚になっているからなのか、自分は終戦後すぐに生まれたのだという不思議な思いがやってきています。

とはいうものの、歴史が苦手な自分ですから、戦争のことについてはほとんど知識がなくて、終戦の時に広島と長崎に原爆を落とされたということくらいしか知りませんでした。

それがひょんなことから、その年にあった二つの激烈な戦いについて知るようになったのですが、それは硫黄島での戦いと沖縄での戦いです。

日本が敗戦を認めることになった、その少し前にその二つの場所で本当に悲惨な戦いにまつわる出来事があったことを知りました。

どちらも映画化されているので、ご存知かもしれません。一つは、「硫黄島からの手紙」で、もう一つは「ひめゆりの塔」です。

勿論どちらも究極まで追い詰められた人間の生死に関する出来事ですから、普段の自分の生活とはかけ離れているわけです。

明日死ぬかもしれないと思って生きている人は少ないこの日本の現状ですが、でも最近は原発事故などもあって、それほどかけ離れた話しでもないという思いが出てきました。

生きることと死ぬことのどちらもきちっと逃げずに見据えて生きていくということが、とても大切なことなのだろうと思うのです。

信頼する気持ち

自分が今までに出会ってきた学校の先生や職場の先輩、上司のことを考えてみたら、この人は本当にいい事を言うなあという人に巡り合ったことがないかもしれないと思いました。

特に、小、中、高、大というように社会人になるまでの間の、もっとも吸収力のあるときのことを思い出してみても、やはり残念なことに印象に残る先生に出会ってないと思うのです。

小学5,6年の時の先生は今でも好きなのですが、それでもあの時のあの言葉を忘れられないというようなものがない気がするのです。

他の先生の場合には、好きでもなければ、ひどくなると見下していたりもしていましたので、一体何を教わったのだろうと疑わずにはいられません。

それでも敢えて言えば、幼稚園の時の先生が一番心の触れ合いが出来ていたなと思い返されますが、あまりにも自分が幼かったので心に残る言葉というものがあるわけでもありません。

そうやって考えてみると、こうしたことは偶然ではなくて、きっと自分に原因があるんだろうなと思えるのです。

それは、誰のことも信頼に足らない、もっとはっきり言えば信頼したくないという思いがあったのではないかと感じます。

であれば、当然のごとく真剣に先生の言葉を聞こうとはしなかったわけですから、結果としてはこうなっても仕方がないなと思うのです。誰かを尊敬するということは、自分には縁がないとまで思っていました。

今思い返すと、本当に残念なことだと思わずにいられません。自分を防衛したいという思いが強いと、誰かを信頼するということができなくなってしまうのでしょうね。

信頼できるかどうは、相手の問題ではなくて、自分の心の問題でしかないということです。そして、このことは今でも残っていると感じます。

ただ、今は根本的なところでは、誰のこともある種の信頼を持てるようになってきました。また、この人はいいなと感じる人も増えてきています。

この人は決して自分を裏切らないだろうという人もいます。すばらしい内容の本にも出合えるようになりました。そういう意味では、今が一番有難いと感じますね。

信頼する気持ちというものが、どれだけ自分を豊かにしてくれるのかということに、ようやく気づきつつあるということだと思います。

自分と違う生き方

自分と全く考え方や生き方などが正反対だなと思えるような人のことをじっくり観察させてもらうことは、もしかしたらとても役に立つことかもしれません。

それはなぜかというと、人は自分と同じものを好み、そうした好ましいと感じるものを正しさと混同してしまう傾向があるからです。

だからこそ、全く違う信念や信条を持っている人や、異なる生き方をしている人のことをよく見るということは、偏った見方を正してもらえる可能性があるのです。

自分とは違う物の見方を認めること、異なる考え方や意見をしっかりと尊重するということによって、自分自身の中のものがより深まるのです。

自分のワールド以外のものは、とても馬鹿馬鹿しくて受け入れる気もしないと言う状態では、自分を深めることはとても難しくなってしまいます。

それこそ、独りよがりに陥ってしまうことになってしまいます。意見の合う人たちとばかり一緒にいるのではなくて、異なる意見の人とも意見を交換することはとても大切です。

私たち人間は、他人が自分と全く同じ意見を持っているということは決してありません。同じだと思っても、深く見ていくと必ずどこかで違いを発見してしまいます。

でもその違うということを認めるということが大事なのですね。同じである必要はありません。互いの違いをしっかりと受け止めあうことによって、より深めていけるのですから。

それは結局、正しさというものへの考え方を変えていくことにも繋がります。正しさというものに価値があるのではなくて、互いの正しさをぶつけ合って切磋琢磨していくということ。

スポーツの世界でも、トップクラスの選手ともなると、それぞれの流儀や方法が異なろうと、互いにライバルを尊敬しているはずです。

最終的には、正しさよりも愛を優先することができたら、人はきっと満たされることになるのだと思います。

あきらめきれない

私は時々、次のような夢を見ることがあります。それは、何かをやろうと思っているのに、それがなかなか思うように進めることができずにいる、という夢です。

何をやろうとしているのかは、今思い出そうとしても全く記憶がないのですが、とにかくまだ終わってないからやらなければという気持ちのまま目が覚めるのです。

目が覚めた後も、夢だったんだと分かってもしばらくの間は中途半端なままにしてしまったなあという後悔のような何ともいやな気持ちが続くのです。

自分でも、夢なんだからもういいじゃないと自分に言い聞かせるのですが、確かにそうだなと分かるまでにある程度の時間を要します。

つまり、簡単にはあきらめきれないと言う心の状態になっているということですね。何をあきらめきれないのか、それについては全く思い出せないということは、内容よりもそうした心残りの感覚そのものの夢ということですね。

後味が悪いですが、勿論しばらくするとそうした夢を見たことすら忘れてしまうくらい、日常生活への影響はありません。

でも、またしばらくすると、そうした夢を見るということは、何か執着のような割り切れない思いというものが、心の奥底に引っかかっているのかもしれないです。

現実の生活では、比較的諦めが早くて、淡々としているように自覚しているのですが、本心はそうではないということなのかもしれません。

あきらめるということは、実はなかなか難しいことだと思うのです。人は、自分にとって大切なものであればあるほど、あきらめきれない状態に陥りがちです。

そこから、苦悩が起きるのは周知の事実ですね。本当にきれいさっぱりあきらめることができると、すがすがしい気持ちになれるはずです。

最も苦悩するのは、自分ではあきらめたと思っていて、本当はあきらめられずにいるという時です。そういう場合には、わけも分からずに怒りや悔しさなどが表出するかもしれません。

人生の中で、自分があきらめたと思っていることを思い出して、もう一度本当にあきらめがついているのか自分に問うてみることは必要なことです。

心底あきらめるということは、確かに難しいことではあるのですが、それができたときには本当に心が晴れやかになって新たなエンルギーが涌いて来るのでしょうね。

幼い男の子の暴言

夕べ、とあるテレビ番組において、日本原子力技術協会最高顧問の石川迪夫という人物が発言した内容を聞いて、思わずのけぞってしまいました。

私のこのブログなど、何を書いてもどこからも圧力などかかってはこないし、万万が一にも圧力が来ても大丈夫なので、名指しで書きます。

心底びっくりしてしまいました。彼がうそを言っているという感じは全くなかったので、自分が信じていることをただ訴えていたんだろうと思います。

だからこそ、余計に驚いてしまったのは、原子炉が大切なのですね、彼にとっては。それは、幼い男の子が自分のおもちゃが大事で、それが誰かに迷惑をかけてもそこを理解できないでいるのと同じです。

あまりにもひどい人的被害を出しているのに、自分の立場を考えもせずに言った一言、それは補助電源が稼動している間に外部からの電源がこなかったために、原子炉が破壊されたのだという言い逃れ。

そして、地震の揺れでは原子炉は大丈夫だったと胸を張って言っていました。私は日本人の幼稚な側面を凝縮して見せ付けられた気がしました。

しかも、彼は福島第一原発から数キロ以上離れた場所であれば、今すぐにでも避難所から戻ってきても大丈夫と言明していました。

本人は正しいことを訴えているつもりなのでしょうけれど、これは犯罪に等しいことですね。それが日本の原子力技術の最高顧問なのです。

こうしたことも含めて、私が見聞きしたことはすべて私の心の投影であることは分かっているのですが、すぐには認めることができません。

驚いてしまって、ものも言えませんね。でもこれが日本という国の現実ということです。心の闇をこれでもかと見せ付けられる時期なのでしょう。

それが後どのくらい続くんでしょうか。もうすでに辟易してしまっているというのが正直なところですが、もう少し見てみることにします。

そして、やはり真の自己はそれも含めてすべてを受容するということを知るチャンスでもあるということだと思っています。

本来の癒し

昨日のブログでは、心の癒しの基本とは、本人が無自覚のうちに抑圧してきた都合の悪い闇の部分を、セッションによって表面に浮上して見えるようにするということをお話ししました。

隠蔽してきてしまった闇に対峙して、そこに光を当てることで心を開放していくということですね。それがごく一般的な癒しの方法です。

ところで、今日はそれとは全く方向が違うように感じるお話しをします。心の闇に光を当てていく作業というのは、それを繰り返していくことでどんどん癒しが進んでいきます。

ところが、この作業には終わりというものがなく、どこまで行っても必ず闇は残るものなのです。心の中を100%きれいにして、すべての闇を消滅させることは不可能なのです。

このことは癒しを開始するときには特に知らなくてもいいことかもしれないですが、どこかでこの作業がエンドレスだということは理解する必要があります。

ここまでの作業というのは、人としての自分の努力や意欲を使って進めていくのですが、そのやり方そのものが実は癒しを止めてしまう結果になるということに気づくことです。

つまり、自分を癒していきたいという思いそのものが、エゴの範疇であるわけですから、その領域では所詮エゴのままにとどまることになるのです。

この先の癒しとは、エゴである自分のことをあきらめてしまうという方向に持っていくのです。自分を自分の力でよりよくしようという思いそのものを手放すということです。

その上で、自分の本当の姿についての認識を全く違った視点から見つめなおすことをするのです。人としての自分はそのままにして、本当の自分とは何かということを見る作業をするのです。

この作業は、今までの心の癒しとは全く異なる方法なわけですね。言ってみれば、自分自身の能力や努力をできるだけ使わないようにするということ。

その逆に本当の自分というものに、人としての自分を明け渡すということです。これには、練習が必要となるのですが、それを楽しみながら進めていくことです。

これこそが、本来の癒しと言えるのだと思っています。

光が闇を消す

光が入り込まない闇の部分に、外から光を当てれば当然闇というものはなくなってしまいますね。つまり、元々闇という場所があるわけではなく、ただ光が届かない場所というだけのことです。

実は、私たちのありとあらゆる苦悩の大元は、光を遮ることで闇を作り出すことができるという信念であると言えるのです。

それは隠蔽することができるということ、なんらかの情報なりを隠して伝わらないようにすることができるという思い込みです。

闇を作ることができるということは、都合の悪いことを隠しておけるということにつながり、それは目を背けたいものを一時的に見なくてすむようにする方法だと言えます。

そうやって、直視したくないものを闇に葬ることを繰り返してしまうと、結果としてはその闇が肥大化してしまい、巨大なエネルギーを溜め込むことになります。

そして溜め込みすぎてしまった闇の中身は、いずれはなんらかの方法、例えば爆発などによって表面化することになるのです。

私たちはこうしたことを心のメカニズムとして持っていて、ほとんど誰もが心の闇を抱えながら生きているとも言えるのです。

闇が表面化することで、本人はびっくりしてそれにどう対処すればいいのか分からずに困ってしまうということも起きます。例えば、急に涙が止まらなくなったり、怒りが爆発するなど。

また、そうした表面化することとは別に、抑圧された闇の部分というのは、必ず外の世界へと投影されて、本人がそのことに遭遇するという結果を作り出すのです。

どちらの場合でも、本人は苦悩したり困ったりして、セラピストのところに来ることになります。したがって、心の癒しの基本とは、本人が無自覚のうちに抑圧してきた都合の悪い闇の部分をセッションによって表面に浮上して見えるようにすることです。

場合によっては、それは楽しい作業ではないかもしれませんね。元々都合の悪いものを隠蔽していたものですから。それでも、その闇と無理のない程度に対峙することで、少しずつ光が当たるようになるのです。

そして、それができた分だけ、心は安らかな状態へと移行していくことができるようになるのです。地道な作業ですが、こうしたことをある程度続けていくことが必要です。