死への衝動

人間には、自覚しないままに生への衝動と、死への衝動の二つを内包する心の部分があるのです。一般的には、前者の方ばかりが取り沙汰されるようですが。

戦国時代や戦時中には、この死への衝動というものが満たされていたわけです。常に、自分や家族の死というものと隣り合わせで生活していたからですね。

このときには、生への衝動というものはあまり満たされることがありませんでした。安全な環境で安心しての暮らしというものはほとんど不可能だったわけですから。

こうしたこととまったく逆のことが、現代の日本で起きていると言えます。つまり、明日自分は殺されるかもしれないと思って生きている人はほとんどいない環境になった分だけ、生への衝動が満たされるようになりました。

ところが、それは一方では死への衝動を満たすことができなくなったともいえるわけです。飢えで死ぬようなこともほとんどない、今の日本では死というものが遠く感じられるのです。

そうなると、無意識とはいえ必死になって、そうした死を意識せざるを得ないような現実を作り出すことになるのです。

それは肉体的なものや精神的なものも含めて、個人的な健康の問題によって死を身近に感じるようにするかもしれません。

あるいは、社会問題として起きてくるかもしれません。私は原発の事故というのは、そうした背景があって起きてしまったことではないかと思うのです。

人間は表面的には、死というものから目を背けようとするものです。したがって、戦争が終わって表面的には死が遠ざかってしまうと、余計に死を毎日の生活から排除しようとしてしまうのです。

これは、危険だと言われるよりも、安全だと言われるほうを無意識的に信じようとすることに繋がるのです。

こうしたことが表面で起きると同時に、それを利用するようにして、死への衝動を満たすための現実が起きてきてしまうということです。

月並みですが、明日死ぬかもしれないと思って、今日この瞬間を生きることができたら、きっと人生はもっとキラキラしてくるはずですね。