正当防衛

先ほどミクシーのニュースを見ていたら、アルカイダの指導者で2001年の同時多発テロの首謀者とされるビンラディン容疑者が、アメリカ軍に殺害されたという記事が出ていました。

アメリカとしては、彼をとことん追い詰めて殺害することが国としての意地であったとも思うのですが、そういう意味では約10年かけて目的を果たしたということですね。

しかし、あの惨たらしいテロの仇を討つことができてよかったと、喜んでばかりはいられません。なぜなら、これから先のアルカイダによる報復があるかもしれないからです。

9.11の時のようなテロが再び起きることを想定しておいた方がいいかもしれません。日本でも、単なる他人の喧嘩では済まされないかもしれません。

争いというのは、まさにこうしてどちらかの息の根が止まるまで、やってやられて、やり返してということがずっと続くのです。

憎しみ合うことには、一つとして意味を見出すことができません。それは、国と国、あるいは民族同士のような大きな争いに限らず、私たちの日常的なところでも言えることです。

子供の喧嘩でも、やられたらやり返せというように教える親もいるくらいです。泣き寝入りするような情けない人間になるなという気持ちがそう言わせるのでしょう。

争いをやめられない大きな理由の一つは、自分(たち)は正しくて相手側が間違っているという身勝手な思い込みです。

そしてもう一つの理由は、相手側によって自分(たち)は被害を被ったという思い込みです。そして、この二つは残念ながら双方ともに同じように持ってしまうのです。

その二つの理由が憎しみを生み出す原動力となっています。そして、どちらか一方が争う力を奪われない限りは、戦いは続くことになってしまいます。

また、自分(たち)からは手を出すことはないが、相手側から攻撃されたら、大切な人を守るためには正当防衛として攻撃し返すという論理には、なかなか根深いものがあります。

なぜなら、それは愛するものを守るという「愛」の一つの形であると感じてしまうからです。そうしたことは、場合によっては人の心に感動さえ与えることができるかもしれません。

でも冷静に考えて、いかなる場合でも攻撃することは決して「愛」の行為ではないということを忘れないことですね。正義の味方というのは、この偽物の愛といつも関連しているのですから。