感謝ができない

自分は幼いころからずっと感謝の気持ちを感じることができないままに人生を送ってきました。それは人並みではないなという自覚があったのです。

ですが、それで何か特別困るわけではないため、それはそれで仕方ないと適当に思うようにしていました。

ところが、あるときに感謝を感じられないでいる理由がはっきりと分かったのです。それは自分は本質的には誰にも助けられていないという思い込みでした。

何か困ったことがあったとしても自分独りで解決できるし、たとえ少々困ったとしてもそんなちょっとしたことを助けてもらったとしても、それを助けられたとは認めないとしていたのです。

人は一人では生きられないということも頭では分かっていましたが、自分の中に根強くある自立心というものが、「誰の助けもいらない!」として頑張っていたということです。

誰にも助けてはもらってないと思い込んでいるわけですから、それは感謝の念が生じることがなくても不思議なことではありませんね。

スポーツ選手とか、他の著名人などが何かの賞を受賞したときなどに、「これも応援してくださったみなさんのおかげです。」のようなことを言いますね。

そういった言葉を聞くたびに、何だかうそ臭い言葉だなという思いがしていました。本当に頑張ったのは本人なのにという気持ちが強かったのです。

そういう感謝の言葉を聞くとどうも居心地が悪いというか、偽善の言葉のように思えてしまうということがずっとありました。

それが自分は助けてもらってもいいんだという気持ちになれたときに、とても大きな感謝の気持ちというものを感じることができたのです。

その助けを求める素直な気持ちは、戦闘態勢を解除して無防備になるような心の状態と言うこともできます。無防備は愛を発動させるのです。

そのために、愛の一つの形である感謝という感覚になることができるというわけです。もしも、感謝の体験が少ないなと自覚している場合には、そうした助けを求める純粋な気持ちを見つけ出して下さい。きっと、今まで感じたことのないような感謝がやってくるはずです。

自分を監視する意識

私達の心の中には、意識しているかどうかは別として、自分を行動させる意識とその自分を監視している意識とがあります。

カラオケに行って、大好きな歌を歌わせている意識と、上手に歌えているかなと監視している意識があるということです。

自分の意識を大きく分けるとこのように二つの意識に大別することができます。この二つの意識が二人三脚のようにバランスを取りながら生活しているわけです。

この自分を監視する意識というのは、きっと三歳くらいから生まれて年齢と共に次第に成長していくのですが、その教師となるのが親などの周りにいる大人なのです。

幼い子供にとって親に叱られたり注意されたりした経験、あるいはちょっとした親の心の変化などを敏感に感じ取ったりして、そういった一つひとつの経験が自分への評価だと見るのです。

そしてそういった積み重ねをもとにして、自分を監視する意識というものが出来上がるのです。親の自分への態度がいいにつけ、悪いにつけそうした意識のもとを作るわけです。

従って、親からの干渉がとても大きかった場合や、いつも口うるさく注意されていたような場合には、それに比例して自分を監視する意識も大きくなる傾向にあります。

そうしていつも自分の言動を厳しい目で監視して、作り上げてきたルールを守らそうとするのです。ですから、自由を感じづらい、束縛感の強い人生になりがちです。

大人になって親から離れて、精神的にも独立していると思っても、すでに自分の心の中にそういった親二世とも言える監視役ができてしまっているため、いつも何となく居心地が悪いのです。

こういった場合の解決策は、まず自分を監視する意識の存在をはっきりと自覚することです。そうしておいて、その意識の気持ち、思いを充分に受け止めて認めてあげることです。

そうすると、なぜそんな監視役が必要になってしまったかということが分かってきます。それを感情と共に洗い流してしまいましょう。

そうやって少しずつ、監視する意識から解き放たれていくことができます。この監視役はいなくなることはありません。

その代わり上手に付き合っていくことで利用価値のある大切な意識として共に生きていくことができるようになります。

自分の人生に自由を感じられない、何となく縛られている感じがする、どうも無邪気に何かをすることができない、と言う場合には監視役との関係を見直すことが大切なのです。

泣いたカラスがもう笑う

さっきまで駄々をこねて大泣きしていた幼子が、気づいたらもうケラケラ笑い声をあげていることがよくありますが、大人がそれを面白がって泣いたカラスがもう笑ってるなどと茶化すのです。

少し状況は違いますが、泣く子も黙る、という表現をする場合もありますね。これは、泣いている幼子も泣くのをやめて黙ってしまうくらいに怖いとか、泣いている場合ではないと知って泣き止むことをいいます。

いずれにしても、泣いていた状態からすぐに泣き止むような場合を指しています。本当に身体のどこかが痛かったり、苦しんでいるなら急に泣きやむことなどできないはずですね。

つまり幼子が泣いている場合には、周りの親や大人に何かを訴えている場合が多いということです。だからこそその訴えが受け入れられれば、すぐにでもニコニコ顔になることができるのです。

あれが欲しいと訴えているときに、とても怖い状況がやってきたら訴えてる場合ではないということが分かるために、泣く子も黙ってしまうということですね。

依存心からくる子供のこうした変幻自在ともいえる態度というのは、ある意味微笑ましい姿としてみることができます。

ところが、そうした依存心をそのままにして大人になってしまったような人の場合には、同じように微笑ましいとしてみることは難しくなってしまいます。

周りにどうにかして欲しいという依存心は、大人になると幼子みたいにただ泣くというだけではなく、いろいろな形態をとるようになります。

例えば突然怒って怒鳴りつけるという場合もあるでしょうし、単に感情の浮き沈みが激しいという形となって現われることもあります。

勿論子供の頃と同じように、泣いて叫んで文句をいい続けるような人もいるかもしれません。どれも幼い頃の依存心を強く持ち続けていることが原因なのです。

そしてその依存心というには、求める心であり、自分から進んで解決するのではなく誰かに解決して欲しいと望む心なのです。

したがって、そこから脱却するためには与える心になっていくことだけが唯一の解決法なのです。 与える心は人生の苦悩のすべてを解決してくれるのです。

どっちもイヤ

私達は毎日さまざまな場面で選択をしていますね。お昼ご飯は何にしようかとか、コーヒーと紅茶でどちらを飲もうかなどです。

コーヒーも紅茶も好きで、どちらも飲みたい場合には嬉しい選択になりますね。そう言う場合はいいのですが、どちらもイヤだなという場合もあります。

例えば、適齢期の人が人並みに結婚したいのでいつまでも一人でいるのはイヤだし、だからといって結婚して自由がなくなってしまうのもイヤだなというようなことです。

このようにどっちもイヤだという場合には本当に選択に困ってしまいますね。みなさんはいかがですか?こんな具合にどっちもイヤという状況によく出くわすでしょうか?

目の前にあるおいしそうなケーキを食べずに我慢するのはイヤ、でも食べて体重が増えるのもイヤなどはよく見かけることですね。

せっかく入会したスポーツクラブだけど、今日は雨が降っているから行くのがイヤ、でも行かないで家でゴロゴロしているのもイヤ。

ご近所の嫌いな人に出くわしてしまって、挨拶するのもイヤ、でも挨拶せずに無視するような大人気ない自分もイヤ。

こうして考えてみると、どっちもイヤというシチュエーションはいくらでもあるように思いますね。しかし、これは自分の解釈を少し変えるだけで解決することができるのです。

月並みですが、コップの水が半分入っているのを、まだ半分も残っているとみるか、あと半分しか残ってないとみるかの違いです。

物事を否定的に捉える癖がついている人の場合は、どっちもイヤを経験するケースが多いはずです。そしてその逆も言えるのです。

上記の結婚についての選択の場合には、肯定的に捉えれば一人でいれば自由な人生を楽しめるし、結婚したら新しい家族との楽しい生活がある、という具合です。

状況は何も変わっていなくとも、自分の解釈の仕方を肯定的にすることでこのように変わってしまうということです。

もしも、自分はどっちもイヤということが多いかもしれないと思い当たる場合には、自分の解釈の仕方に注意して、なるべく肯定的な解釈ができるように練習することです。

それだけで、面倒くさい、何となくうまくいかないという印象であった人生が、全く違った楽しめる人生に変わってしまうはずです。

印象的な昔の映画 その3

この映画は幼い頃ではなくて、高校生くらいの時に見たものだったかもしれませんが、大好きな俳優である今は亡きスティーブ・マックィーンが主役でした。

確かテレビで途中から見たのでほとんどあらすじは覚えていませんが、彼が戦闘機のパイロットでその部隊の隊長だったかもしれません。

とにかく、とても厳しい人で本人が有能なため誰も逆らうことができないでいるのですが、この人人格的にどうなの?と思うくらいに激しいのです。

部下たちも表面的には付いていってはいるものの、心の中ではかなり彼を否定的に見ているのです。周りの人たちに疎まがれ、嫌われているのがありありと分かるのです。

映画を見ている自分もこんないやな奴にはあまり出くわしたくないなと思いながら見ていました。そして、映画の最後のほうで、彼は山の中腹に激突して飛行機ごと木っ端微塵になってしまうのです。

なぜそうなったのか理由は忘れましたが、その瞬間に自分の心の中で急激な変化がやってきました。それは、今までずっといやな奴だという思いばかりだったのが、そうではなくなったのです。

そして急にあの人はいい人だった、善良な人だったという思いがこみ上げてきました。きっと好きだったんだと分かったときに本当にこの自分の心の変化に驚いてしまいました。

映画の中でも、残された部下はみんな一様に泣いてるし、生きていたときのように憎んだままの人は誰もいなかったのです。

本当はみんなに愛されていた人だったのです。しかし、なぜこのような心の変化が起こったのかその時には分かりませんでした。

今ではその理由が分かります。彼が生きていたときには自分は彼に傷つけられたくないという思いを抱いて彼を見ていたために、防衛つまり攻撃的な知覚で解釈していたのです。

それが亡くなった途端に、もう彼に傷つけられる恐れはないと知った心が彼に対して無防備になったおかげで、それまで隠されていた愛の目が出てきたのです。

きっと自分は自覚のないままに、彼の愛の部分を自分の愛の知覚でずっと見ていたのだろうということです。亡くなって無防備になった瞬間に、その部分が現われて彼を好きだと思えたのです。

我々の知覚というものがどのくらいいい加減なものか、本当によく分かりますね。その時々の自分が見たいと思うものだけを選りすぐって見て、その上で都合のいい解釈をするということです。

自分の周りの名優さんたち

私は最近テレビ番組そのものを見なくなってしまったのですが、若いときにはよくドラマを見ていました。そのドラマに関することで思い出したことがあります。

みなさんは、松下由樹という女優さんをご存知ですか?彼女がある番組でドラマ出演している時の逸話を話していることがありました。

随分昔のそのトレンディドラマでは、彼女は姉の恋人を横取りする悪女の役柄でした。ものすごく憎たらしい役だったのを覚えています。

彼女曰く、そのドラマに出演している間、世間から散々な悪口を言われたそうですし、本人もびっくりしたのは彼女のマネージャーさんから、あんたってひどいよね、と言われたのだそうです。

ドラマの中であまりにもひどい役を演じていたために、最も身近なマネージャーさんにまでツンツンされるようになってしまったということでした。

苦笑いしながら女優冥利に尽きるみたいなことを言っていたのを覚えていますが、それだけ迫真の演技だったということですね。

あなたの周りにいる人たちの中で憎たらしい人、一体あの人は何なの?と思えるような人はいませんか?

そう言う人たちは松下由樹さんと同じように、かなりの名優さんたちだということです。あなたの人生と言うドラマの原作、監督、主役、脚本、キャスティングまであなたがすべてをやっていると思って下さい。

そして、周りの人たちはあなたがキャスティングした名脇役さんたちなのです。もしも、あなたが作ったドラマの内容を変えたければ今すぐにでも書き換えることができます。

悪い奴らが出てこないような脚本に作り変えてしまえばいいわけですから。そして勿論ドラマの中の役柄を演じてないときの名優さんたちは、みんないい人たちばかりです。

役を演じてもらっている監督の自分がいることを忘れて、本気になって周りの人に怒りを感じることのないようにしたいものですね。

時間の使い道

奇跡のコースと出会った二年くらい前から急激にセッションの予約が減ってしまいました。そのおかげで収入は激減してしまいましたが、代わりに自由な時間が増えました。

自分の身に起こることは自分が起こしているというのがそれまでの自分の信条だったので、きっと自分は勉強したいんだなというくらいに思っていました。

奇跡のコースを勉強し始めても、やはりそこには自分の現実は自分の内面の投影に過ぎないということが書いてあって、自分が思っていた通りだと分かったし自分がそうしたいからセッションの予約が減ったのだと分かりました。

収入が激減すればそれは困ることも多々あるのですが、まあなるようにしかならないという生まれ持った楽観主義で乗り切るつもりでいました。

ところが、コースを学ぶうちに単なる楽観主義というのとは少し異なる思いが生まれてきました。それは、簡単に言うと、現実は内面の投影ということに対する確信です。

そして今自分にはものすごく自由な時間が与えられています。そのため、2年前と比べて時間の使い道が大きく変わってしまいました。

今後数年間もきっと、毎日3回セッションをするような事態にはならないだろうということが何となく分かるのです。

自分の中で時間の使い道が変わったということです。個人セッションによるたくさんの気づきを通して学べたことは今でも勿論自分の宝物になっています。

その上で、今後は違う形の学びも継続して進めていくことになるということです。その中心となるのが、奇跡のコースであることは間違いありません。

でもそれをどのようにして具体的に学んでいくのかは今のところ分かりません。きっと楽しい時間の使い道が待っていてくれるものと期待しています。

追い詰められると愛が発動する

以前、コラムにも書いたことがあったと思うのですが、もう何年も前にいらした女性のクライアントさんが教えてくれた話しです。当時お付き合いしていた彼との関係がうまく行っていませんでした。

二人の関係というよりは、彼に対して様々な不満があって、それを相手にぶつけても何も解決しないという苛立ちをずっともっていたのです。

ある日、夕食を一緒にとの約束をしていた彼がいつになっても姿を見せず、結局夜遅くなって彼のご家族も巻き込んで警察に捜索願を出すというところまでいきました。

結局、彼は次の日にひょっこり現われて、喧嘩沙汰に巻き込まれて一晩留置所にいたらしいのです。ケータイも没収されて、連絡がつかなかったということです。

クライアントさんは彼が見つかるまでの間、必死に彼の無事を祈ったのは言うまでもありません。その時に、普段抱えていた彼に対する不満や愚痴は一切がどこかへ吹っ飛んでいたということです。

自分がどれだけ彼のことを愛しているかを思い知ったし、どれだけ大切な存在だと思っているのか、その気持ちにも気づくことが出来たそうなのです。

その気持ちはあまり長続きしなかったそうですが、人の気持ちというのは追い詰められると隠していた部分が表出したりするということです。

いつもは相手に求める気持ちばかりが優先してしまっていたのでしょう。そうすると、あれもしてくれない、これも分かってくれないという不満ばかりが出てきます。

しかし、相手を心配することで、本来の与えるという愛の気持ちが飛び出してきたわけです。人は自分のことより、大切な人のためには比較的簡単に愛を発動できるということです。

どちらの心の状態が自分にとっていい気持ちでいられるのか、それは考えるまでもなく明らかなことですね。与えるとはそういうことなのです。

何も分かってはいない

右も左も分からないような幼子と、成長した私達とで、一番の違いはどこでしょうか?それは幼子は自分が見ているものが分からないということに気づいているということです。

その分からないものばかりの中で、自分に対していやな感覚をさせるものについて恐怖を抱くようになるということです。

私は幼いころに、テレビでボクシングの試合を放送しているのを見ると、「喧嘩じゃないよ、ボクチング」とよく言っていたそうです。

きっと、初めて殴り合っている姿をみて何事が起こったのかと怖くなって、親に聞いたのでしょうね。その時の親の台詞を聞いて安心したため、見るたびにその言葉を唱えていたのだと思います。

このように幼子は自分が理解できないということに気づいているために、素直に教えを請うわけです。そして上の例のように本当のことが分かって恐れなくなるのです。

一方私達は、通常自分が見ているものを理解できているという認識で生活しています。それは幼い頃から何度も体験し教えられることによって学習してきた成果ですね。

それだけでなく、自分は正しく理解していると思い込んでもいます。そんなに自分を過信してはいないと思っている人であっても、これは同じなのです。

地球が太陽の周りを回っているのか、その逆なのかはよく分からないという人であっても、人とはこういうものに違いないという独自の確信を持っているのです。

ところが学んで来たその学習の内容が歪んでいたとしたらどうでしょうか?認めたくないですが、その場合は自分が当たり前だと思っていることを訂正せざるを得ません。

私達が学習してきた事象というのは、自分自身の内面を外に向けて投影したものばかりです。ですから、自分に都合のいいものばかりを題材として学習してきてしまったということに気づくことです。

全く公平とは言い難い学習過程ばかりを経験してきてしまったのです。もう一度、幼子の頃の素直な自分に戻って、自分の解釈を白紙に戻すことです。

本当は自分は何も分かってはいないという意識に戻るのです。そうして、自分の親の代わりにすべてを正しく見ることができる聖霊(自分の中の愛の心)に聞くことです。

本当のことを理解することができれば、幼い頃の私のように、作りこんで来た恐怖を手放すことができるようになるのです。

肉食

子供の頃はひどい偏食で、玉子焼きと乳製品以外は食べられなかったということは以前このブログで書いたことがありました。

少しずつ肉類や魚、果物、野菜などを食べられるようになっていったのですが、大人になると肉が主体の食事となり、たしか40歳くらいまでの間、自分の記憶では肉ばっかり食べていたと思います。

本当に毎晩のように肉を食べていましたし、その割には野菜などを豊富に採るということもなかったかもしれません。

今でも肉が嫌いというわけではありませんが、40歳を過ぎるころから少しずつ肉食に偏っていた食事が変わってきました。

身体に悪いからというような健康志向でそうなったわけではないですから、勿論気が向けばその後も沢山肉を食べる機会はありました。

今は一般的な日本人の食事と比べてどうなのかは分かりませんが、自分としては肉を食べない暮らしに大きく変わったように感じています。

その変化は会社を退職した10年位前から徐々にそうなってきたように思います。勿論そうはいっても菜食主義者になったわけではありません。

先日機会があって、本当に珍しく家族とステーキを食べに出かけてきました。普段の食生活からはあり得ないくらいの高価な肉ということもあってか、確かにおいしいのです。

ところがおいしいのは口のあたりでそう思っているというのか、心ではおいしいということに殊更の意味がないというのも感じていました。

いつごろからそういう意識が増えてきたのかはわかりませんが、豪華な食事というものに本当に魅力を感じなくなってしまったということですね。

食べ物がおいしいと感じることよりも、心が何かにおいしいと感じることのほうが遥かに嬉しいことだと分かったのかもしれません。

心がおいしいと喜ぶものとは、何なのでしょうか?それはきっと私達が心のそこから望んでいるものであり、それを思い出すことこそが本当の幸せへの道なのかもしれません。