人を恐れる意識 その2

昨日のつづきです。

昨日箇条書きで書いてみた、人に対する怖れる気持ちは、ムカデのような苦手な虫にもそのまま該当するということでした。

そのほかにも、例えばゴリラとか人食いサメなども、「見下されてる感じ」を除くとそのまま該当してしまいますね。

怖そうな宇宙人なんかは、丸ごと当てはまるかもしれません。こうして見ていくと、自分と同じ人間である周りの大人に対して、幼い自分は本当に得体の知れない恐ろしい生き物でも見るように感じていたのかもしれません。

そして更に気づいたのですが、どうもその箇条書きに挙げた言葉は自分自身に対する隠された思いなのかもしれません。

なぜなら、自分が外部に見るものはすべてが自分の内面の投影であるからです。そうすると、自分は幼いころからムカデやゴリラ、サメ、恐ろしい宇宙人のように自分のことを感じていたということになってしまいます。

そう考えてみると、自分に対して本当に愛のかけらも持っていないということが分かってしまいます。実際はどうなのでしょうか?

私達の心の中にあるエゴの部分は、確かに愛を知りません。だから、自分自身のことをそのように認識しているとしても不思議なことではないのです。

そしてそれが私達が心の奥深くに隠し持っていて決して見ることのない罪悪感の正体なのかもしれません。

そんな愛のない心で自分を見つめるエゴの部分を、同じ心の部分である愛の光によって明るく照らして溶かしてしまいたいものですね。

そうしたら、周りのすべての人を本当に愛の目で見つめることができるようになると思います。それこそが真実の幸せな心になる唯一の方法なのです。

人を恐れる意識

自分の心の奥底にずっと昔からある他人に対する恐れの気持ちをじ~っと見つめて言葉にしてみました。すると、次のようなものが浮かんできました。

・変な奴らばかり
・人相が怖いし、気持ち悪い
・何を考えてるのか分かったもんじゃない
・とにかく醜いし、怖い
・傷つけてきそう
・見下されている感じ
・危ない
・嫌いだし、必要ない
・何の役にも立たない

これはどう考えても、大人の自分ではないということがすぐに分かります。きっと、相当に幼い感じがしてきます。

この中で、他と異質なのが、「見下されてる感じ」というものですが、これだけほんの少し違う年齢の意識が言っている感じがします。

人に対してこんなことを感じているんだと少々びっくりすると同時に、確かに心のどこかにこういったものを抱えていると薄々知ってもいたと思うのです。

これでは、やさしい愛の気持ちなどあったものではありません。自分で書き出してみて、そして何度も眺めてみて気がついたことがあります。

それは、自分が苦手な気味の悪い虫、例えばムカデとかそういった類のものにもそのまま当てはまる言葉だということです。

「見下されている感じ」だけは例外ですが。ということは、かなり幼い自分は見ず知らずの大人たちのことをムカデと同じくらいいやがっているということです。

特に最後の、「何の役にも立たない」というのは、いる必要がないという、これ以上の否定はないというくらいの思いが見て取れます。

愛をもって周りの人を見つめるということをいくら実践していても、心の中にこういった気持ち悪い虫でも見るような意識がいるのなら、愛を使ううえで相当なブレーキになってしまうでしょうね。

しっかりこうした意識を受け止めて、それ自体を愛で包んで安心させてあげる必要があるということを改めて気づかされました。

癒されていない癒し手

「奇跡のコース」を読んでいると、「癒されていない癒し手」という言葉が出てきます。つまり、癒されてないセラピストのことです。

病んでいるセラピストがクライアントの癒しの作業をやっていると言っているのです。だから、癒しなど進むはずもないと…。

何のよどみもなくはっきりと言ってのけています。最初読んだ時に、随分と痛烈だなと思ったのですが、しかしこのことはかなり真面目に考えるべきことだと分かりました。

それは、心の癒しと称してやっていることが、本当の癒しになっていないとしたら、それは何もしないでいるよりもたちが悪いということになるからです。

高額なセッション費用を取って、大変な時間と労力をクライアントさんにも強いておきながら、癒しができないとなると、これこそ問題ですね。

私が今の仕事を始めた10年近く前には、ネットで「催眠療法」で検索してもそれほどの数があるわけではありませんでした。

それが今では、何百倍にも膨れ上がってしまって、自分のHPなどすぐには見つけられなくなってしまいました。

それくらい、急激に癒しということに対して世間の注目度が上がってきていると言っていいのかもしれません。

だからこそ、癒しができない癒しの場がもしもたくさんあるのでしたら、それは何とかしたいと思ってしまいます。

そして自分自身はどうなのだろうかと見つめてみました。はっきりとこうだとは言い難いのですが、一つ分かっていることはクライアントさんを見つめる目に愛があればいいのだということです。

それがセラピストとして必要なすべてだと思うからです。逆にそれができなければ、どんな洗練された手法を身につけていたとしても癒しにはならないからです。

恐怖を作り出す

ずっと以前にまだ会社員だったころ、その職場が高層ビルの中にオフィスがあったのですが、確か35階くらいだったと記憶していますが、そういう場所で仕事をしている時がありました。

とても見晴らしがよくて、入社して間もない頃にはこんなすばらしい景色のところで毎日仕事ができるなんて幸運だな、くらいに思っていました。

ただ、人間ていうのはすぐに慣れてしまうもので、職場の人の誰も外の景色のことなど言わないし、自分も全く興味がなくなってしまっていました。

そんなある日、仕事のことから頭が離れてふとこう思ったのです。自分は今、地上百数十メートルの高いところにいる。

このビルが全部透明なものでできていたら、さぞ怖いだろうなと。元々高いところはあまり得意なほうではないのですが、そうイメージした途端に何だか椅子に腰掛けていられないような、床に這いつくばってしまいたいくらい危険な感覚になってしまったのです。

自分でもそんな馬鹿なとは思うのですが、その恐怖の感覚からどうしても逃げることができなくなって、ある場所の一点をじっと見つめることで何とかその場をしのいだと思います。

気持ちが落ち着いてきてから、もう二度とさきほどのような感覚になりたくないと思って、夢中で仕事の方に意識を持って行ったのです。

そんなことになったのは、後にも先にもその時のたった一度だけだったのですが、自分としては全く意味もなく本当に唐突に恐怖を経験したわけです。

今思い返すと、その時は仕事のストレスで心が病んでいたのだろうと思うのです。理由はともかく、人間というものは、特別何もなくても恐怖体験をすることが可能だというのを思い知ったのです。

恐怖だけではなく、不安や喜び、実はありとあらゆる感情を自分次第で作り出すことができるということです。それなら、出来る限り気持ちのいい自分を作り出したいものですね。

自分に対する人の評価

私達は、自分の周りにいる人たちとの関係において、それぞれの相手が自分のことをどのように評価しているのかということについての自分なりの情報を持っています。

それは普段あまり表面化することはないのですが、それでもよく心のうちを見つめてみればある程度は分かるものです。

ところが、その時に出てくる情報というのは、大抵の場合自分に対するあまりいい評価ではないものばかりが出てくることになっています。

なぜなら、そういった情報が相手を否定的な存在であるとすることに繋がるからです。それはつまり、相手を否定的に見たいという欲求があるということです。

それが自分にとって都合のいい見方であるということです。一般的には、相手を肯定的に見ることができたほうが気分がいいと思えるのですが、実は否定的に見たいという強い心の力があるのです。

そのために、そうした情報はかなり偏ったものとして出てきてしまうのです。例えば、自分が嫌っている上司がいたとして、その上司が自分のことをどのように評価していると思うかと聞かれたら、それはやはり否定的な見方をされてしまっていると感じるわけです。

そのように感じることが自分にとって何かと都合がいいからです。しかし、本当のところはどうなのでしょうか?

セッションではそういったことを深く見ることによって、実はそんな否定的な見方ばかりを相手がしているというわけではないということが分かる場合がとても多いのです。

上の例で言えば、その上司は自分のことを信頼できる部下だと思っているとか、仕事のできる有能な部下だという評価をしているということが出てきたりするのです。

そうやって、相手は自分を否定的に見ているばかりではなく、肯定的に評価してくれてもいるのだということが分かったりします。

それが分かるだけで、相手への気持ちが暖かいものに変化したり、相手への攻撃的な気持ちが薄らいできたりということが起きてきます。

自分は相手にどのように見られているのか、そのことが気になる人はその相手になったつもりで自分のことを評価してみるのです。

今まで気づかなかった自分への評価がいろいろ出てくるはずです。それはとても意外な体験となるはずですので、是非一度試してみて下さい。

娯楽の必要性

私達は日頃、息抜きとか気晴らし、あるいは娯楽といったような力を抜いて気分をリフレッシュできるようなものを必要としています。

場合によっては趣味に興じるということもあるかもしれません。気の合う人たちとカラオケに行って楽しんだり、お酒やおいしい食事の時間もいい気持ちにさせてくれますね。

旅行が何よりも楽しみという人も沢山いるはずです。そうした時間というものが、毎日の生活の中に適度に散りばめられているとバランスがとれた生活のように感じます。

しかし、そういうものがある程度必要だと言う理由とは一体なんでしょうか?実はその理由はとてもシンプルなものです。

つまり、そうした娯楽の時間、余暇の時間がないと苦しくなってくるからです。それ以外の時間ばかりであると、人生がつまらない、味気ないものに思えるからです。

しかしどんな人であっても、そうした娯楽や余暇の時間が自分の人生のメインテーマであっていいとは思っていないはずです。

でも残念ながらそのメインテーマであるべきことが、自分を疲れさせてしまったり、喜びを感じることができなかったりすると、必要以上に娯楽や趣味などの比重が増えてくるわけです。

逆に言えば、人生のメインテーマであることに喜びや楽しみを見出すことができれば、あとはちょっとした息抜き程度のものがあればそれで事足りるはずなのです。

お休みの日が待ち遠しくて仕方ないとか、自分は趣味に生きるんだと決めてしまっている場合、あるいは年に一度の海外旅行が何よりのエンターテイメントだと言う場合には、大切なメインテーマがないがしろにされている可能性があります。

余暇を最大限楽しむために、日頃苦しさに歯を食いしばって生活するなどということは、まったくもって本末転倒と言えると思います。

娯楽や趣味が悪いのではありません。それがなくては人生がむなしいと感じることに問題があるということです。

その場合には、もう一度じっくり自分の人生のメインテーマであるものを見直してみる必要があるのではないでしょうか。なぜなら、人生の幸せは、娯楽よりもメインテーマの方に深く関連していると思うからです。

不食の奇跡

先日講座にいらっしゃっている方々から、飲まず食わずで長い間生きている人がいるというお話しをお聞きしました。

私は個人的にとても大きな興味を感じさせられました。それでネットで少し調べてみたのですが、確かにその人の記事が詳細に書かれたものがありました。

インドに住むその男性は、何と65年間に渡って一切の水も食べ物も口にせず、さらに全く排泄もせずに暮らしているということです。

インドの医師たちで結成された研究団が、その人を10日間に渡って詳細に検査した結果、全くの健康体であるし、実際にその間の監視により全く飲食と排泄をしないことが認められたそうです。

今後、その医師たちは、NASAに更なる調査を依頼することを希望しているとのことです。また、実際にNASAで研究対象になっている不食の男性もいるようです。

その男性は、毎朝1時間太陽を凝視するだけで、何も食べずに長い間暮らしている人で、水分だけは摂取しているようです。

こうした人物というのは、調べてみると世界各国に相当数いるらしいとの情報もあるようです。こうしたことをどう考えるのか、そこが大切なところだと思います。

現代医学で解明されていない全く未知の人体の神秘と捉えるのが一般的かもしれませんね。インドのその男性は検査の結果、膀胱に尿が溜まることは分かったのですが、膀胱壁で尿が吸収されることも判明したそうです。

しかし、そうしたことをいくら事細かに解明していったところで、きりがないような気がします。それは、私にとっては心の問題を脳内物質を解析することで説明しようとすることに似ているように思います。

なぜいつも身体ありきなのでしょうか?身体の現象として起こることは、心という内的な原因の結果でしかないというように思うのです。

心という目には見えないものを実在するものとすることに抵抗があるのかもしれませんし、この抵抗感は相当強力なものなのだと思います。

しかし、これから少しずつそうした物質中心の考え方に変化が出てくるように思います。そうした人類の内的変化の一つのきっかけとして、不食の人がみんなに知られるという事態になったのではないかと思います。

怒りの抑圧方法

私達はいつも自分の心が平安で穏やかでいられたらいいのにと思っています。しかし、怒りなどのマイナスな感情を感じた途端に、そんな安らかな気持ちは吹っ飛んでしまいます。

それを避けるために、本当は怒りを感じているはずなのにそれを否定することで、平安のままでいるかのようにしてしまうのです。

そうした作業を自覚を持って行う場合もあるでしょうし、全く自覚ないままにしてしまうこともあるのです。いずれにしても感じているはずの感情を感じないようにするのは心にとっては負担となるのです。

そして感じないままに心の奥にしまわれた感情は消えることなくいつまでも残っているため、それが溜まりすぎてくると何らかの形で表面化してきます。

その時に初めて、自分はきっと今まで感情を我慢し続けてきたのだろうということに気づくことになるのです。

私達はさまざまな方法を使って、怒りを抑圧してしまいます。その一つは、恐怖です。強い恐怖を感じると、怒りは簡単に影を潜めてしまいます。

どんなに怒っていようと、怖さがそれを抑え込んで攻撃的な気持ちをなくしてしまう効果があるのです。

また、自己嫌悪や罪悪感も怒りを抑えます。自分が悪いのだからという思いが強ければ、それだけ相手を攻めようとする気持ちがなくなってしまうのです。

相手のことをかわいそうと感じることも、かなりの力で怒りを抑え付けてしまいます。似た感情として哀れみや場合によっては見下し、蔑みなどの感情も怒りを鎮める力を持っています。

そして最後に、理性による理屈も怒りを抑える効果があります。それは大抵、~だから仕方ないというような考えによって、怒りを感じなくしてしまいます。

このような様々な方法によって怒りを沈静化することになるのですが、それは表面上静かにさせることができるだけで、怒りという感情を消滅させたことにはなりません。

怒りは出来るだけ貯めないように気をつけるべきです。怒りを抑圧する習慣がついてしまっている人の場合には、意識的に怒りを感じるように訓練することです。

上記したような方法を使ってないかどうか、いつも自分の心に注意を向けてあげてることが大切です。そうして怒りとしっかり向き合って味わってあげることで、それを溶かすことができるのです。

理不尽さを乗り越える その2

昨日のつづきです。

何があっても理不尽な思いをしなくなったら、どんなに生き易いか想像もできないくらいですね。ですから、理不尽さを克服することは、幸せになるための鍵でもあるわけです。

比較的小さな理不尽さは昨日のやり方である程度は処理することができると思います。ですが、とてもインパクトの大きい理不尽な思いはそう簡単ではありませんね。

元々、理不尽な思いをさせられる自分は悪くなくて、もっぱら相手の言動がひどすぎるだけなんだから、何で自分が何とかしなければならないのか、それが理不尽だと思われるかもしれません。

ですが、相手を責めている限りは、決して理不尽さを乗り越えることはできません。とにかく、理不尽さを乗り越えることだけに集中して考えるほうが得策です。

最近のブログで裁くことについて書いたときにその中で触れましたが、歪んだ知覚によって裁こうとするために、理不尽な思いを起こすのです。

この原理をいつもどこかに記憶しておく必要があります。そして、あいつの言動はどう考えてもおかしいよ、理不尽すぎるよと感じたときにこそ、自分の歪んだ知覚のことを思い出すのです。

そして更にいえば、外側で起きている理不尽な事象というのは、心の中にある自分の歪んだ知覚がそれを投影して起きているように見えるものに過ぎないということです。

したがって、毎日理不尽な目にばかり遭遇してしまうよと思っている人は、繰り返しこのからくりを思い出して、自分のものにしてしまうことです。

そうして理不尽さに遭遇した際には、この理不尽さには実体はないんだと理解することです。知覚を正していけば、本当にないということに気づくということです。

それには、元々正しい知覚を持っている聖霊の知覚の仕方をまねするということです。聖霊の正しい知覚では、裁くという概念がないので理不尽さを全く感じないのです。

理不尽さを感じたら、これをこれ以上感じていたくないので、もらって下さいと聖霊に差し出してしまいましょう。その上で、聖霊の知覚の仕方を練習することです。

漠然と聖霊だったらどんなふうに知覚するのだろうか、それを教えて下さいと頼むような気持ちになって心静かに待っていると、何となくニュアンスが伝わってくるかもしれません。

それが成功すると、きっとそれまで感じていたどうしようもない理不尽な思いは、スーッと影を潜めてくれるはずです。

それともう一つ、自分が相手に与える側の気持ちになっていると、理不尽さを感じないようです。何かを求めていると、あるいは期待していると理不尽な思いはそれだけ大きくなります。

予防線というわけではありませんが、日頃から与える側の立場に立つことを意識してみることは、とても大きな効果があるはずです。

理不尽さを乗り越える

今までにも理不尽なことについては、このブログでも触れてきました。理不尽さは自分が幸せになっていくために、欠くことのできない宝物なのです。

というと語弊があるかもしれませんが、実は理不尽さを自分がどう取り扱うかということが人生を大きく左右するということです。

理不尽さの感覚というものは、自分の感覚や判断などを正しいものとした上で、どうしても納得することができないような状況のことを指しますね。

特に、自分に直接利害が関わってくるような場合には、その思いが大きくなります。例えば、約束を破っても全く謝らない人の話を聞くと、そんな理不尽な人もいるんだというくらいの感覚になるかもしれません。

しかし、それが実際に自分が繰り返しそうした体験をさせられたとしたら、ものすごくやりきれないような怒りとともに、大きな理不尽さを感じるはずです。

つまり、理不尽さとは、自分の判断基準の正しさから逸脱した事象についての反応であると同時に、被害者の立場になればその思いが何倍にもなるということです。

理不尽さを感じて幸せな人は誰もいません。何とかして、その理不尽な思いを克服する方法を考えたいのです。

そのためには、まず自分が何らかの被害に遭ったかどうかということを抜きにして、正しさについてだけを見てみることにします。

そうすると、正しさというものは自分の判断は正しいというものが基準になっていると分かります。その正しさは実はかなりいい加減な作り物であると気づく必要があります。

私達はその正しさで周りの人を裁いているわけですから、その正しさを手放すことにすればいいのです。約束を破って謝罪しないという事象が正しくないという決め付けを手放すということです。

残りは、約束を破られて待ちぼうけさせられたとか、ドタキャンされて計画が壊されたなどの迷惑について考えてみます。

すると、過ぎ去った今となっては物理的な痛手が残っているというよりも、何か相手に文句を言いたい気持ち、つまりわだかまりだけが残っていると分かります。

このように冷静に分析することで、今まで感じていたほどの理不尽さのインパクトがなくなっていることに気づきます。

この手法により、小さな理不尽さは比較的簡単に解消することができます。しかし、大きな理不尽さの場合はどうしたらいいでしょうか?

つづく