「私」からすべてを剥ぎ取る

私たちが、これが自分だと思っているもののことを自己像といいます。私という人物像と言っても同じですね。どちらも像、つまりイメージだと言っているのです。

その「私」の正体を見破るためには、「私」が身に着けているものを身ぐるみ剥いでしまうしかありません。そして、裸になった「私」を見れば、それがまさしく「私」の正体であるわけです。

子供の頃に、「透明人間」というテレビの番組がありました。はっきりは覚えていないのですが、主人公の彼はいつも身体全体を包帯で巻いて、その上に帽子や服を身に着けて生活をしているのです。

ところが、何か事件が起きて、それを解決しなければならないとなった時に、包帯をすべて解いて彼からしたら全裸になって、つまり完全に透明な状態になって活躍するという物語だったのです。

「私」が所有しているもの、あるいは「私」が属性として持っているもの、そうしたものをすべて洗い出してそれら全部を脇に置いていくのです。

「私」からすべてを剥ぎ取って、身ぐるみ剥いで裸一貫にしてあげるのです。そのときに残ったものが「私」に違いないのですから。

そして一体何が残るのかと言えば、そこには何も残らないのです。それはまるで透明人間のようです。しかも、透明人間は単に見えないだけで触れることができます。

しかし、「私」はと言えば、見えないだけでなく、聞くことも触れることも全く知覚することができないばかりか、存在すらしていないのです。

「私」の正体とは、何も無いものだったということです。しかし、「私」というのは確かに在るわけで、そこには意識だけが残されています。

その意識も、私の意識と表現できるので、それも剥いでしまいましょう。そして残ったものは、表現できない純粋な意識、あるいは気づきであるとしか表現できないものです。

そこまでいくと、それは「私」というものではありません。ただ在る何か、それこそが本当の私たちの真実の姿であるということです。

想念と想念の隙間

私たちの想念の中には、思考や感情が散りばめられていますが、そうした想念はやってきては去っていくものです。ある想念が去る前にはすでに次の想念がやってきます。

そうやって、いつまでも鎖のように想念が続いていくのですが、心を静かにしてじっと待っていると、一つの想念と次の想念の間に隙間を見つけることができるようになります。

その隙間こそがチャンスなのです。あらゆる想念とは、過去に印象に残してきた記憶から立ち上ってきて、現在の自分を巻き込もうとするため、その隙間にいる間だけは今を意識していられるからです。

想念と想念の間、つまり深い谷の部分には、その谷の底と接触することが可能となります。そこには一体何があるのでしょうか。

そこにこそ、私たちの本質が隠されているのです。私が見たところでは、そこには何も見つけることができません。

地球上であれば、山と山の間の谷底には、土があったり草木が生えていたり、あるいは川が流れているかもしれません。しかし、想念と想念の間の谷底には何も見い出せないのです。

もしも、想念が自分の心から立ち上ってくると感じているなら、想念と想念の間には心の底が見えると予想するかもしれません。

しかし、本当には心という想念の入れ物、あるいは想念を生み出す装置などないということです。だからこそ、想念と想念の間には何も発見することができないのです。

その何もない隙間をしばらく体験していると、個人である自分は薄れていき、その代わりに全体としての自分を感じるようになります。

この全体というのは、「ただ在る」というものの名前みたいなものと考えればいいのです。それは、どこへも行くところはなく、さりとてどこか一点に留まっているというのでもありません。

全体の外側に出て行くこともできなければ、全体の一部になることもできないのです。ただただ不動であるとしか言いようのない純粋な気づきです。

それこそが、私たちの本当の本質であるモノです。全体であることは、何もないものであるので無とも言えるし、また空(くう)であるとも言えるのです。

いずれにしても、言葉を用いた瞬間に概念や観念になってしまうため、これはただ直接体験することでしか知ることはできないものです。

起きてくる想念が何も悪いわけではなく、それに捕まってしまうことにこそ問題があるのです。どんな瞬間でも、ただ在る全体としての意識に気づけているようになれるといいですね。

しがらみをぶっ飛ばせ

世の中には、不自由な思いの中で生きている人が沢山います。セラピストという仕事をするようになって、そのことに気づいてとても驚いたのです。

それはあまりにも重い荷物を背負ってしまっていたり、様々なしがらみの中でにっちもさっちも行かなくなってしまったりしているのです。

立派な大人にもなれば、それはある程度の責任やしがらみなどがあるのは仕方のないことかもしれませんが、実は子供であっても大人顔負けの状態で暮らしている場合もあるのです。

それは例えば、親や親戚などからの過度の期待を感じるあまり、その期待に応えようとして重圧に押しつぶされてしまっていたりするのです。

あるいは、お世話になった先生や先輩に恩義を感じるために、それを裏切らないようにと頑張って見たりするわけです。

無限の可能性を秘めている子供たちに、そんなしがらみを押し付けてしまうのは、一体何なのでしょうか?知らないでは済まされない問題です。

きっと大人たちはもっと子供たちに対して、敬意を払う必要があるのです。子供の心をもっと尊重することが大切なことなのでしょう。

子供はそうした環境で育つことができれば、もっと伸び伸びと自由に自分の人生を楽しむ余裕ができるはずです。

子供が育っていく過程において、常に何らかのしがらみの中でもがき苦しんで来てしまうと、その人は大人になっても間違いなく、そしてもっと多くのしがらみを背負うことになるはずです。

あなたが今現在抱えているしがらみにはどんなものがあるでしょうか?一度点検して見て下さい。しがらみから開放されないでいるのは、恐怖と罪悪感があるからです。

勇気を持って、あらゆるしがらみをぶっ飛ばして下さい。決意すればできるはずなのです。所詮、人生とは作り物のストーリーなのですから。

宝石のような質問

子供の頃というのは、日々沢山の質問を抱えて生きています。無邪気な子供ほど、ありとあらゆることを疑問に感じるままに大人に質問をし続けますね。

それは時として、大人、とくに身近な両親にとってはうっとうしいと思わずにはいられなくなることもあるかもしれません。

しかしそれも一定の期間だけのことで、無邪気であり続けることは誰にとっても難しいことであるために、そのうちには質問をしなくなっていくものです。

ある子供は、分からないことは自分で調べようとするようになるかもしれませんし、またある子供は何かに疑問を持つことはいけないことだと思い込むようになるかもしれません。

いずれにしても、子供から大人に成長していくに連れて、人生を進めていくことにエネルギーの大半を向けていくようになるのです。

そして、最も本質的で一度は誰もが疑問を持っていた、ある大切な質問を忘れてしまうようになるのです。

その質問とは、「自分とは一体何なのだろうか?」ということです。残念なことに、こんなことを疑問に感じている暇はないくらいに、人生という競争の中に埋め込まれてしまうのです。

ところが、人生のどの辺りでかは分かりませんが、またその宝物のような質問のことを思い出すときがやってくるものです。

そして、自分は昔その質問を持っていたということを思い出すのです。ここで、以前のようにその質問を無視してしまうのか、それともそこに意識を向けるようになるのかは、きっと神の恩寵によるのかもしれません。

もしも、「本当の私とは何だろう?」ということを問い続けることになるとしたら、それはとても恵まれた人生であると言えると思います。

なぜなら、この質問を無視したままで本当の幸福を知ることは不可能だからです。自分のことを、他人が見るような一個人であると思い込んだままの人生ほど、辛いことはありません。

もしも、あなたの中でこの質問のことが気になりだしたら、千年に一度のチャンスがやってきていると思って間違いありません。それを無駄にしないで欲しいと思うのです。

そして、どんな方法でもいいので自己探求を始める決意をしてください。最初のうちは、何をどうすれば探求できるのかも分からずにいることになるかもしれません。

それでも、まずそれを始めたことが途方もない幸運だということが今に分かるときが来ると信じることです。そして、必ず何らかの気づきがやってくるはずです。

「ノー」から「イエス」へ

先日、大型のホームセンターに買い物に行ったとき、ついでに一階の奥にあるペットショップを覗いて来た時の話しです。

ちょうど、一匹のかわいらしい子猫がガラス張りの小部屋から外に出してもらって、囲いのある小さなスペースで飼育係の女性と遊んでいるところでした。

私が近寄って行ったのを見たその女性は、商売熱心なのかその子猫をむんずと捕まえて、胸のところで羽交い絞めにして私に抱かせようとするのです。

子猫がすごくそれを嫌がって自由に遊びたがっているのを感じたので、その旨伝えたら、その女性は「全然いやがってないですよ~」と気楽に言ったのです。

しかし、子猫はすごく暴れて嫌がっているのは明白でした。毎日、動物と接しているから慣れてしまってるのは分かるのですが、ちょっと猫がかわいそうな気がしました。

そのことで一つ思い出したことがあるのですが、それはずっと以前にある女性のクライアントさんが退行催眠の中で、幼い頃にお婆ちゃんの家によく連れて行かれていたことを思い出したのです。

彼女は、お婆ちゃんにいつも抱きしめられてしまって、身動きができなくなってしまうのがとても苦痛だったということを、セッションの中でリアルに思い出していました。

お婆ちゃんからしたら、可愛い孫娘を抱っこしていたいだけなのでしょうけれど、彼女はさっきの子猫のように全身でイヤだということを表現できないでいたのですね。

お婆ちゃんに「やめて!」と、直接言うことができたら自由の身になれたかもしれません。このような子供は、大人になってもやはり「ノー」をはっきり表現することができない場合が多いのです。

「ノー」を表現することは、自己防衛の基本ですから、セッションでは出来る限り勇気を持って堂々と「ノー」を言えるようになる必要があるとお伝えします。

しかし、勿論これで癒しの作業が終わるわけではありません。充分に、「ノー」が言えるようになったら、その後は今度は逆に、自己犠牲なしに「イエス」を言えるようになることが理想なのです。

なぜなら、「ノー」は拒絶であり、「イエス」は受容だからです。拒絶の人生よりも、受容を選択することができれば、心はいつも穏やかでいられるはずだからです。

あなたは、日々の生活の中で、「ノー」を言う回数と、自己犠牲なしに「イエス」と応答する回数とどちらが多いでしょうか?

勿論、「イエス」が多ければ多いほど、不満の少ない人生であることは間違いありません。

方向を定めることの大切さ

みなさんもよくご存知の「般若心経」の中の一節に、「色即是空」という言葉がありますね。この色というのは、形あるもの、あらゆる物質のことです。

つまりこの世の森羅万象すべては空(くう)だと言っているのです。空(くう)とは、その言葉どおりに空っぽということです。

何から何まで空っぽであるということを一体どうやって理解することができるのかと疑問視する前に、この「色即是空」と唱えているのは誰かという命題があります。

森羅万象が空(くう)であるなら、そのことを知っているどんなものもいない、空(くう)なはずです。こうした矛盾は、かならず真理の周辺にはついてまわるものなのです。

私たちの誰もが寝ようとすればするほど、寝付けなくなってしまうという経験をしています。それは、寝ようとしている本人の思考が寝入ることを邪魔してしまうからです。

このような矛盾、あるいは逆説的なことはいくらでもあるのです。努力をしないように頑張ってしまったり、緊張しないようにしようと逆に力が入ってしまうなど。

しかし、それでも私たちは努力をしないようにという方向付けを必要としています。緊張しないようにという決意が大切なのです。

寝ようとすればするほど寝付けなくなるのですが、寝る決意をしてパジャマに着替えたり、部屋の電気を暗くして快適な睡眠の準備をすることは大切なことと同じです。

そのことを通して、気持ちを安らかにさせることができ、寝ようとする緊張を解きほぐすことができるわけです。そうやって、知らぬ間に寝なければという思考から開放されるのです。

思考を止めようとすることは、その思考が新たに作られるという矛盾が生じるのですが、それでも思考を止めようとする思考が初めに必要なことは間違いないということです。

そのようにして、いかに矛盾が生じようと、逆説的な事象に出会おうと、方向を定めることがまず必要であることは忘れてはなりません。

自己探求についても同じことが言えます。自己探求の結果は、その自己探求する個人が消滅することであり、これ以上の逆説はないかもしれません。

それでも、その方向性を確定させることがなくてはならないということです。明確な決意をし、その後でその決意した個人が消滅するように導いてもらうということです。

「何とかしなければ」をやめる

最近の私の中でのマイブームというか、しょっちゅう言ってしまう言葉があるのですが、それは「何とかしなければをやめる」というものです。

人によって自覚の差こそあれ、誰でもがこの「何とかしなければ」という原動力によって日々暮らしているといっても過言ではありません。

人生というストーリーのベースにあるものは、快楽への欲望と苦悩への恐れであると以前このブログで書いたことがありますが、これも全く同じことですね。

自分にとって都合のいいものを何とかして手に入れたいという思いが欲望であり、逆に都合の悪いものから何としても逃れたいというのが恐れです。

いずれにしても、何とかしたい、何とかしなければという思い、あるいは想念と常に暮らしているわけです。それを、直ちにやめる!ということです。

よりよいものを目指すこと、もっとましな自分になろうとすること、自己をより深く探求していくこと、目的地に向かって邁進していくこと。

何かにすがりついて安心しようとすること、嫌われないようにいい人でいようとすること、計画通りに物事を進めようとすること、問題を解決しようとすること等々。

こうしたことのすべての底流には、「何とかしなければ」があるのです。これを全部、そして今この瞬間にやめるのです。

なにもかも諦めることは難しいですが、一時的にでもやめることを選んでみるということです。これなら、練習次第ではできるようになるはずです。

「何とかしなければ」をやめることが出来たとき、そこには途方もない平和な心の状態があるはずです。なぜなら、そのときにこそ私たちの中心にある本質に出会うことができるからです。

それは昨日のブログで書いた、「今」に注意を向けるという実践をすることによって、意外に簡単に実現できるのです。

是非試してみて下さい。

一体全体これは何?

当たり前のことですが、私たちは誰も「今」から逃れることはできません。過去や未来に一秒たりとも生きることはできないのですから。

それほど近いところにあるものなのに、私たちは「今」のことをほとんど知らないと言ってもいいのかもしれません。

そもそも、「今」とは一体何なのでしょうか?このように、明確に「今」という言葉を使わないにしても、ずっと昔からここにあるのは何?という思いを持っていたように記憶しています。

ある時突然、これは一体何なんだ?と感じることもありました。それは実は苛立ちのようなものだったかもしれません。

なぜなら、「今」というものの正体が分からないままに、丸ごとどんなときでもそれに包囲されていて、それ以外どうしようもないという感覚があったからです。

「今」の音を聞こうと耳を澄ましてみると、そこにはありえないくらいの途方もない静寂があると分かります。「今」とは静寂であるとも言えるくらいに。

じっとして、耳を傾け続けていると、「今」が全く変化せずに提供されていることに気づくことができます。自分は時間の流れの中にいて、絶えず押し流されていながらも、全く微動だにしない「今」を感じてもいるわけです。

子供の頃にじっとして動かないでいることがよくあった、あのクセの正体は、きっと「今」を感じていたくて、その永遠性の神秘をどこかで思い出そうとしていたのかもしれません。

「今」に注意を向け続けていると、あらゆる精神活動が停止するようで、なんとも不思議な感覚がやってきます。その静寂の中で、自分自身も静寂と一体になれるような。

そして、ここから先は本当に最近気が付いたことなのですが、「今」こそが本当の本当の真実の自分の姿なのだということ。

そういうことだったんですね、一体全体これは何なんだ?という質問は、実は最も身近で最も分かっていたこと、つまり自らが自らに対してお前は誰だと問うていたわけです。

このままで終わりたくないですね。この先の気づきがあるはずだと誰かが言っているような気がします。

孤独よりも内側にあるもの

人は誰でも間違いなく孤独を持っています。それに充分に気づいている人もいれば、気が付かずに暮らしている人もいます。

寂しくて寂しくて仕方ないと感じてる人からしたら、孤独の辛さを知らずに生きている人のことが羨ましく感じてしまうかもしれません。

独りでいると寂しいからと、恋人や友人たちと一緒にいようとするのですが、でもずっと一緒だと今度はゆったりできなくて、独りになりたくなるのです。

そうすると、また寂しさがやってきてしまうので、無理をしてでも誰かと一緒にいようとする。こういうことが繰り返されるうちに、どんなに孤独でも誰にも会いたくなくなってしまうかもしれません。

こうしたことはよくあることです。なぜそれほどまでに孤独なのでしょうか?それは、物心がついたころから誰しも個人として生きるようになったからです。

個人であるということは、どんなことをしても他の人と一つになることができないばかりか、本当には分かりあえないという宿命をもっているからです。

個人として生きている私たちにできることは、何とか工夫をしてその根源的な孤独から目を背けて気づかないようにするだけです。

仕事や趣味に没頭したり、何か他にとても困った事態に巻き込まれたり、そうやって意識を孤独から背けるしか方法はありません。

ところが、孤独を持っているのは個人としての「私」だということに気づき、その「私」よりももっとずっと内側の最も中心に意識を向けることができると、不思議なことにそこには孤独がないと気づくことができるのです。

それは孤独ではなくて、唯一であるという意味での単独というものなのだと分かります。それは決して孤独のような恐怖とは違います。その反対の至福感といってもいいものです。

孤独を癒すために外側に何かを求めることを一旦やめることです。そして勇気をもって、その孤独よりももっと中心にある単独に意識を向け続けることです。

そのときには、孤独というのが「私」という想念のでっち上げたものに過ぎないということに気づくことができるのです。

これが分かれば、孤独を恐れることはなくなるはずです。孤独は過去から忍び寄ってくるものであり、中心まで戻ったところにある単独は今この瞬間にのみ在るのです。

個人と言う着ぐるみには孤独が張り付いているのですが、その着ぐるみの内側に在る本当の本当の自己は、単一のすべてであるということです。

この感覚を何としても取り戻すことです。そして内側だと思っていた本当の自己は、その着ぐるみも含めてこの宇宙のすべてを包含しているものだったと気づくのです。

注意を内側に向ける練習

今年に入ってひと月たった当たりから、自分の本質について意識を向けるようになったのですが、それでも本気でそれをやりだしたのは夏ごろだったと記憶しています。

なぜ、すぐに本気になることができないでいたのかというと、その理由は3.11が起きたことによって、意識がそちらにばかり向くことになったからです。

そこでいやというほど、社会や非常に現実的な部分にばかり目を向かせることになりました。それは、私にとっては必要なことだったのかもしれません。

というのも、自分の本質に意識を向けるということが、現実的に生きることとは真逆の生き方のように思えたからなのです。

2月ごろ、あまりにも衝撃的に自己の本質を見るということに出会ってしまい、意識が現実から乖離してしまいそうになったのです。

そのために、できるだけ現実方向へと一旦意識を向けざるを得ないような事態がやってきてくれて、半年近くも見かけ上の遠回りをしたということなのかもしれません。

でもそれを充分に経験できたおかげで、そのあとはしっかりと腰を据えて、本気になって自己の本質へと意識を向ける練習を始めることができたのです。

初めのうちは、どれだけ頑張って意識を内側に向け続けようとしても、あっという間に外側へと注意が戻されてしまいました。

そのために、いろいろな小道具を手に入れたり製作したりして、徐々に注意を内側に向け続ける生活に馴染んでいくことができたのです。

勿論今でも初心者の域を脱してはいないと感じていますので、これは今後もずっと続けて練習していくことがやはり大切なことだと思うのです。

ただ、それでも少しずつではあるのですが、それなりの効果というものも出だしてくれていて、それはとても嬉しいし、それがまた練習のための励みにもなるのです。

最近は、誰かと対面しているときが一番練習の効果を感じられるのです。いかに、自己の本当の意識がここにないかを感じながら会話をすることを心がけています。

なおかつ、相手の本当の意識もそこにはないということを感じつつ、そしてその場全体を包含するものとしての自己に注目し続けるという練習をやっています。

この練習では、常に意識を今に在りつづけることができるということです。過去や未来から開放されることで、余分な想念からも自由になるのです。

是非みなさんにもこの練習を実践していただきたいと思っています。