知覚は非対称

私たちは、通常知覚する側と知覚される側は対称を成していると信じています。AさんがBさんを見ている時、Aさんの姿とBさんの姿は基本的には人として同じ、対称を成しています。

それと同様にして、私がCさんを見るときにも、私とCさんとは対称的だと信じているわけです。しかし、よくよく考えてみれば分かることですが、非対称なのです。

私という一人称が何かの対象物を見るとき、私自身は消えてなくなります。見ている私自身が見えてしまったとしたら、対象物が正当には見えなくなってしまうからです。

私が何かの音を聞いているとき、私自身は静寂になっているということです。つまり私自身に音はないということです。そうでなければ、外の音を妨害してしまうからです。

また、何かを手で掴むとき、私たちはそのものの感触を感じることができますが、掴んでいる手そのものの感触はないのです。

つまり、何かの対象を知覚するとき、知覚する主体は消えてなくなるということなのです。これは、驚くべき発見だと思いませんか?

もしもこのことを、いつも忘れずにいることができたら、人生が大きく変わってしまうという予感がしてきます。

それはなぜかといえば、知覚する主体が消えるということは、決して自分は傷つくような存在ではないということを示しているからです。

私たちの毎日の生活の中で、何かを知覚しないことはないわけで、常に何らかの対象物を知覚し続けているのです。

そのときには、私は消えてなくなるのですから、これは真実の愛の前提であると言えますね。本当の愛とは無私と言われるように、自分がいなくなることを伴うことであるからです。

自分を一人称として見ないときにのみ、私は存在しているのです。それは鏡に映った姿を見たり、写真その他で、対象として客観的に自分を見るときに限って自分は存在するのです。

一人称としての私は、知覚するとともに消えうせてしまうということです。このことを認めることができたら、愛が育つことは疑いようがありません。