すべては与えられ続けている

言葉というものは、どれほどの明晰性があったとしても、それは所詮真理を指し示す程度であって、その言葉から得られるものは心の中の観念でしかありません。

そうしたことを念頭において読んでいただけたらいいなと思いながら、今日のブログを書こうと思います。

日頃、与えることが与え返されることになるということが、この宇宙の真実だと思って生活しているのですが、それを一旦脇に置いて、また違う表現をすることもできます。

それは、あらゆる瞬間に与えられている、与えられ続けているということ。自分が与えていると思う瞬間であっても、それは与えられているのだという認識をすることができます。

以前にもブログかミクシーの日記に書いたことなのですが、ある日クルマを運転してるときに、目の前に繰り広げられる景色やその他のあらゆる現象が自分へのプレゼントなのだという感覚になったことがありました。

その瞬間、自分がクルマを運転しているということすら、自分の独自の行為ではないという感覚になったんですね。

確かに運転するということが起きているというのは分かるのですが、私が主体者として何かをやっているのではなくて、そうした行為がプレゼントとして起きているという感覚です。

何から何まで与えられ続けているのです。それなのに、私たちは勝手にこれは与えられた、これは奪われたなどと自分の観念の中で判別しているのです。

どんな自分の行為であろうと、どんなことが自分の身に起きようと、それはすべて与えられているものだということです。

もしも、この感覚が続くなら、一分一秒ごとに感謝せずにはいられなくなりますね。それは何と言う至福であることかと思います。

そしてそのとき、与えられていると感じるこの私が希薄になっていきます。起きている事実をただ見守っている何かであるという感覚になるのかもしれません。

それを敢えて表現すれば、感謝している私がそこにいるというよりも、私が感謝自体としてあるというような感覚です。