自分はどこにもいない?

今この瞬間、自分はどこにいると感じるかということについて、今年1年は本当に多くの人たちにお聞きしてきました。

そして分かったことは、それぞれがバラバラな印象を持っているということです。ある人は、頭の中にいると言うし、またある人はハートの中だと言い、またはお腹の奥にいると言います。

肉体のあらゆる部分の隅々にまで自分は行き渡っていると答えた人もいましたが、多くの人は身体の中のある特定の部位を示しました。

また、身体の外に浮いていると言った人たちもいました。後頭部の近くだと言った人、顔のあたりとか、胸の前辺りなどが多かったですね。

身体の外側にいると答えた人には、形や大きさについてもお聞きしましたが、それもまちまちであって、野球ボールくらいと感じる人や、もっと大きくてフワフワしていると答えた人もいます。

つまり、どういうことかというと、誰にも明確にこれが自分だと答えることができないということなのです。誰もが、こんな感じだとかここにいるような気がするということなのです。

それは個人的な感覚であり、個人的な印象に過ぎないということです。なぜ、最も身近な、これ以上身近なものはない、自分自身のことなのにこうした曖昧なことになるのでしょうか?

その答えは簡単です。それは、私たちが2~3歳くらいのときに、あなたは身体だという教えを受けてしまったからなのです。

もっと丁寧に、詳細な説明を与えられていたら、例えばハートのこの位置にこんな形でこれくらいの大きさのものだと教えられていたら、誰もがそれを信じていたはずなのです。

しかし、事実はといえばただあなたは身体だと教えられただけであったため、私たちはそれぞれがそれはこういうことなのだとの印象を勝手に作って、大切に持ち続けているということです。

つまりはすべてが思い込みの産物に過ぎないのです。私はこの身体を所有しているというならいいのですが、私は身体だという思いが信念のようになってしまっているのです。

したがって、何となくこの身体の近くに自分はいるという感覚を誰もが持っているのです。しかしながら、そうした思い込みを一旦脇に置いて、今この瞬間に本当に分かることだけで答えてもらうと、自分はどこにもいないということがはっきりします。

ところがこの結論に異常なほど異議を申し立てる気持ちがあるのも事実です。その理由も明白です。それは、もしも私が身体ではなくてどこにもいないとなると、「私」の存在が怪しくなってしまうからです。

そして、もう少し正確に言えば、自分は身体だとの思い込みをさせられてしまう前までは、「私」という想念がありませんでした。動物や赤ちゃんの状態と同じです。

「私」とは、身体との同一化と共に生まれた想念だからです。だからこそ、私は身体ではないということが明確になると、「私」はただの想念であるということが赤裸々になってしまうのです。

「私」には何の実体もないということほど、不安に感じることはないのかもしれません。しかし、ここで止まる話ではないということを知る必要もあります。

身体ではなくて、どこにも自分を見つけることができないけれど、私たちは「在る」という感覚を誰も否定することができないはずです。

この「在る」に意識をじっと向け続けてみれば、偏在している感覚へと向かってくれます。これはきっと自分自身への直接体験なのだと思うのです。

昨日と一昨日のブログにも書きました通り、私たちは自分の肉体のことすら直接認識することはできません。それはすべて知覚に頼っている間接認識なのです。

でも上記のとおり、「ただ在る」というものへの注意は、本当の自己への直接認識を可能にするものであると言えるのです。

そして、そのことに対する信頼を深めていくことによって、人は本当の意味で人生という苦悩のストーリーから開放されるのです。