直接知るとは? その2

昨日の続きです。

私たちが何かを知っているというときには、すべてが知覚と思考によって間接的に知っているということに過ぎないのだというお話しを昨日しました。

自分以外のことについては仕方ないとしても、自分自身についてはどうなのかと言えば、残念ながら自分自身のことについても、客観的に見ることができるだけです。

主体がそれ自体を知るという直接的な意味での知るということはできないのではないかということです。これはとても不思議なことです。

一番知っているはずの自分のことも結局他人が自分を知っているようにしか、自分のことを分からないというのですから。

しかし、たった一つだけ私たちは自分自身についての直接体験をすることができるのです。それは、直接認識といってもいいかもしれません。

それは知覚も思考も何も使わずに、直接「見る」ということです。それを教えてくれたのは、ダグラス・ハーディングという人です。

彼のやり方を使うと、誰もが本当の自分自身を直接体験することが可能です。それは、他人から見て顔があると思われる場所を指で指し示して、そこに何があるかを見るのです。

外側を指さして、そこを見れば部屋の壁やカーテンや、そのほか何でも自分の外側にあるものを見ることができます。

それと同じようにして、自分の顔があると想定される場所を内側から見るのです。そうすると、そこには外側の世界(物質)とは異なるものが見えてきます。

それは、透明な何もないものであって、でもその透明さの中に外側にあると思っていたすべての物質もそこにあると分かります。

つまり、外側の世界と内側の世界とは同じだったということに気づくことになるのです。個人としての私が外側の世界を見てそれを認識することは、間接的に知ることです。

そして、内側からそれを見るのは知覚でもなければ思考でもない、ただ直接見ているのです。これが、自分自身を直接知る唯一の方法かもしれません。

それを見ているのは、もう一個人としての私でないことは明白です。なぜなら、そうやって直接認識する自己とは、とても個人とは思えない無限の広がりがあると分かるからです。

これを本当の意味で言葉で表現することは不可能なことです。言葉とは観念を意味するだけだからです。この直接体験は理解するようなことではありません。

誰にとっても同様に提示されている直接認識できる自己を無視するかどうかは、あなた次第なのです。そして、それはいついかなる時でも認識できるものでもあるのです。