あ~、間に合った

久しぶりにブログを書かずに今日を終えそうになっていたのですが、ぎりぎりセーフで間に合いそうです。

何があったというわけではないのですが、ミクシーの日記を書くのを辞めたせいなのか、気が抜けてしまったようで、夕べはブログも書かずに寝てしまいました。

こんな日があってもいいのかなという思いもあるものの、でも少数であっても読んで下さる方々がいると思うと、やっぱり何か書こうかなと言う気になりました。

最近、パソコンに向かうことが、自分にとってメリットとデメリットを考えたときに、もしかしたらデメリットの方が大きいのかもしれないと感じるようになって…。

以前は気づいたことを文字にしてみることで、自分の中でそれがより明確になるというとても大きなメリットがあったと思うのです。

ところが、ここのところは気づくことがとても多くて、それを全部ブログや日記にしておくことができなくなりつつあるのかもしれません。

それと、すべてを文字にすること自体がなかなか難しいような、言葉では伝えきれないような気づきもやってきたりしています。

昔から「沈黙は金」という言葉がありますが、つべこめ言い訳をしないと言った意味で捉えられているふしもありますが、本当の意味は違うと感じています。

沈黙は無と同じであって、真理は決して言葉で表現することはできないということ。どんなにすぐれた言葉を使ったとしてもです。

所詮、言葉は真理を指し示す程度なのです。いにしえから、賢者は黙して語らずということがそれを象徴していると思います。

私自身も、自分が気づいたことの真髄を表現することはできないのかもしれないと思うようになってきたのかもしれません。

とはいうものの、仕事では今でもいろいろな方々にお伝えすることが多いですし、こうしてブログを書き続けることもそれなりに意味があるのかなと。

ワークショップの感想

昨日は、髙木悠鼓さんを招いてのワークショップ、「私とは本当に何かを見る会」を開催しました。間際になって、キャンセルされた方もおられましたが、それでも30名を超える方々が参加して下さいました。

いつもは、自分がメインでセミナーなどを開催するのですが、脇役に徹するというのは初めての経験で、心から楽しむことができました。

トータルで3時間という短いワークショップでしたが、一風変わった実験をみんなで一緒にやるというスタイルで、とても興味深いものでした。

実験しては質問を受け、また実験をするという具合に、様々な実験をしながら私の本性を無理なく発見していく経験は、参加された誰にとってもとても印象に残るものとなったと確信しています。

私自身は、ダグラス・ハーディングさんの本を読んで、自分なりに実験を繰り返してきたわけですが、実践するたびにまた新たな気づきを得ることができるのです。

正直言って、参加されたすべての方が自分の本性を見ることができたとは実感できなかったかもしれませんが、それは見れないということではないのです。

人はその人の心の状態によって、体験したことをそのまま受け入れられなかったり、分からないふりをしたりを無意識でしてしまうのです。

また、あの感覚を分かったとしても、それをなかったことにしようとする意識が発動してしまう場合もあるのです。

大切なことは、どんな状態であっても、自分の経験を分析せず、裁かず、あるがままに受け止めることなのです。

そうして、それを興味と情熱をもって継続していくことです。それによって、真の自己に対する信頼が次第に深まっていくのですから。

チャンスがあれば、またこうしたワークショップを開催したいと思っていますので、ご興味があれば是非ご参加いただきたと思います。

何かが面倒をみている

日本語で、「昨日一人で浜辺を歩いていたら…」のような表現をして、通じないことはありません。しかし、勿論正しい日本語表現であれば、主語としての 「私が」というのが入らなければなりません。

英語で、主語である「私」が抜けることは100%ありえないことですね。それがどんなに簡略された口語であろうともです。

そこには、確固として「私」が存在すると共に、それを表現せずにはおかない文化があるのですね。その違いはどこからくるのでしょうか。

これは私の勝手な憶測なのですが、日本の文化では「私が」というのを連呼するのを嫌う国民性が根付いているのではないかと思うのです。

私がやった、私が考えた、私が愛している、のように何にでも「私」が強調されると、あまり好ましくないという感覚を持っているのです。

実際、「私」を沢山言うのは政治家だったり、その他押しの強い人たちなのではないでしょうか。場合によっては、「私は…」から初めて、その後に続く述語などの言葉がそぐわないことを言っている人が時々います。

最近ではあまり良しとされなくなった、控えめな人や謙虚な人ほど、「私」を強調することはないはずですね。

それで思ったのですが、日本人は単に謙虚なだけではなくて、実は「私」が不在であっても事は同じように起きるということを古来から知っていたのではないかと。

つまり、この「私」がそれを行っていると思っているのは思い込みに過ぎず、何かがその面倒をみているということをどこかで分かっているということです。

自分が行為者ではないということに気づけば、あらゆる束縛から解放されることになるのですが、そのことに一番気づいているのはもしかしたら日本人なのかもしれません。

主語を省略することがいいことだとは思いませんが、これはとても大切なことかもしれません。何かに没入すると、そのエネルギーが他のことの面倒を見てくれるのです。

そうしたことを体験した人は多いのではないでしょうか。

マヤ暦の終焉を迎える

自分の中で今奇跡的なことが起こっています。それというのも、生涯で初めて、まじめに勉強を

始めたからです。それは初めて、真剣に取り組むに値すると感じるものと出会えたからです。

学生の時から社会人になってもずっと一貫して勉強嫌いな自分がいて、仕方なく勉強をすることも
あったのですが、そこには今のように学習したいという強い意欲は全くありませんでした。

それが、A Course In Miracles(奇跡のコース)という不思議な本(以後 ACIM と略します)と
出会って、一変してしまったのです。元々本を読むことも好きではない自分が、一生繰り返して
読み続けたいとまで思うようになったのは、まさに奇跡といってもいいと思います。

丸8年に渡って心の癒しをやってきて、何となく手詰まりな感覚とでもいうものがここ数年出て
きていたのです。それを解消したくて、昨年外部のセミナー等に出て自分の癒しを兼ねて情報収集
をし出した矢先に、この ACIM と出会いました。

今まで自分なりに信じてやってきたセラピーの方法が間違っていたとは全く思わないのですが、
ACIM と出会ってから物事を見る世界観ともいうべきものが大きく変化し出したのです。今、
それを自分のセラピーにどう生かしていったらいいのかを模索中です。

そしてセッションにおけるクライアントさんとの関わりに限らず、人とのつながりや結びつき
にも、自分の中で少しずつ変化が起きつつあるようです。本当の癒しは、人との関係性の中に
見出せるものだということが分かってきました。

自分が今そうした過渡期にあるのを感じています。その変化の足跡を残すため、そしてそれを
是非分かち合っていただきたくて、このブログを始めることにしました。ずぼらなので、毎日
更新できないかもしれませんが、気長にお付き合い下さい。

2009年の3月5日にこのブログを開始した、ちょうどその日に書いた内容が上記(青色文字)のものでした。なんだか、とても真面目な雰囲気を感じてしまうのですが、あの時の気持ちをはっきりと覚えています。

奇跡のコースと出会ったことで、自分の未来(といっても内面的なことですが)が開けていくような感じがしたからです。

それが、今日の時点においては随分とまた変化してきてしまったことに自分のことながら、驚いているところです。というのも、コース以外の本はもう読む意味もないとまで一度は思ったのに、最近はまた少しずつ違う本を読み出したからです。

そして、コース以上に自分の本来の性分にまさにぴったりである、数名の賢者の本に出会うことができました。今後の自分の生き方が内面的には途方もなく変わってしまう予感さえしています。

今日は、記念すべきマヤ暦の終焉の日らしいですね。日本の日付では、どうも29日(土)のようですが、細かいことはどうであれ、世界はこれから大きな大きな変革の時代に突入するはずです。

この新たな門出の時に、より多くのみなさんともっとも大切なことを分かち合っていけたらいいなと思っています。

何かをせずにはいられない

私たちは、幼稚園や小学校へ行くようになって、団体行動を経験することで、ある程度じっと座っているといったことができるようになっていきます。

それまで幼児の頃には、その子が病気でもない限りは片時もじっとしてはいないものですね。何か身近な手が届くもので遊んでみたり、自分の身体を動かしてみたり。

そうやって外の世界へと自分の好奇心を向け続けて成長していきます。大人になっても、じっと座って瞑想することが苦手な人もいますね。

身体の具合が悪いとき以外は、人は何かをやろうとしてしまいます。出かけて人と会っておしゃべりしたり、クルマを運転してみたり。

家では食事をしたり、テレビをみたり。家族との会話を楽しんだりと、いつも何かしらの行動をしています。それが止まるのは、寝ているときだけです。

なぜ私たちは、本当に何もしないでいるということが苦手なのでしょうか?それは、心の性質がそうなっているからです。

心は外の世界の何かに対して、快楽か苦悩の元であると判断し、苦悩は避けようとするし、快楽を得ようとするのです。

苦悩を避けようとするのが恐怖であり、快楽を得ようとするのが欲望です。つまり、欲望から常に外側の何かに意識を向け続けるのです。

そのために外側を拒絶するか係わろうとするかのどちらかになるため、それが何かをせずにはいられないという結果となるということです。

その欲望そのものが想念であると言ってもいいのです。だからこそ、私たちの心には、常に何らかの想念が渦を巻いて起こっているのです。

それは、実は本当の私とは誰なのかという最も本質的なことから、目を背けさすための「私」の作戦でもあると言えるのです。

その策略に私たちはまんまと乗って、過去世からこの現世へ、そして未来世へと輪廻を続けることになるということです。

何もしないでいること、あるいは一つの想念も作らずに注意し続けることができたら、本当の本当の自己を思い出すことができるはずなのに…。

ヒーリング再考

かつてはセッションで毎日ヒーリングをしていました。来る日も来る日も何度も繰り返し、沢山のクライアントさんを相手にヒーリングをさせてもらっていました。

それが最近、ヒーリングのセッションが少なくなってきてしまいました。クライアントさんの数が減ったということもあるのですが、それにしても自分の方からヒーリングをしましょうか?ということをあまり言わなくなったことも原因しています。

理由ははっきりとは分からないのですが、一つには、自分が気づいた大切なことをクライアントさんにお伝えしたいと思うことが増えたからなのかもしれません。

それが、たまたま昨日今日と続けてヒーリングをして、自分が少し変化していることに気が付きました。ヒーリング中の自分の心がとても穏やかになったこと。

以前は、もう少しあれこれと考えてクライアントさんの様子を感じ取ろうとしていたのですが、それが何も考えなくてもそれをしているような感じになったのです。

そして、きっと自分の感覚では以前よりも深い瞑想状態に入っているような気がしました。これは、最近頻繁に瞑想をしていることが寄与しているのかもしれません。

深く静かで落ち着き払った意識にすぐになることができます。そうすると、目の前に身体を投げ出してくださるクライアントさんがとても愛しいのです。

ああ、やっぱりヒーリングはいいなあとあらためて思うことができました。そして、頭で分かっていたことがより身体でも気づけるようになりました。

それは、自分はヒーリングの行為者ではないということ。確かに肉体を使ってはいるのですが、ヒーリングに入ったとたんに、私の肉体は何かに使ってもらうことになるのです。

これも一つの明け渡しなのだなと、つくづく感じることができました。講座でみなさんにお伝えしていることが、とても明確になったようです。

個人ではないという確信

自分とは何ものなのかということについて、ある確信を持つことがとても大切なことだと思うようになりました。

それは自分の中で、少しずつ、そしてまた少しずつ変化してきた認識なのです。なぜこれほどまでにゆっくりとした変化なのかといえば、初めに持たされてしまった思い込みが非常に強かったからだと言えます。

私たちは、身体や心の発達によほどの障害でもない限りは、誰もが自然と自分と身体を同一視するようになってしまいます。

そして、そこから「私」という想念が立ち上がるのです。その後、その「私」という想念は、それを土台として様々な想念を作り続けます。

その一つは自分は心と身体を持った個人であるというものです。これは、日々の生活を積み重ねれば重ねるほど、確信となっていくのです。

そうやって、「私」とは一人の人間であり、一個人としてこの世界で生きていくことになるとの思いを強めていくことになります。

そして、そうしたことに誰もまったく疑いを挟むこともなくなってしまうのです。実は、幼いころには「私」がまだふわふわした状態なので、個人と誰でもない間を行ったり来たりするのです。

しかし、それも少しの間のことであって、小学校を卒業するずっと前までには大抵が立派な人間としての自覚を持つようになるのです。

自分が世界とは分離した個人であるとの想念は、必ず苦悩をもたらします。楽しいこともある反面、必ず苦悩もやってくるのです。それは部分としての存在だと認識することの宿命です。

そして、充分に苦しみを見出した後で、人によっては自分とは本当は何なのか?ということに目覚めようとしだすのです。

自分で自分を騙すことになってしまったいきさつを理解しようとしたり、今すぐにも本当の自分に目覚めたいと願って努力してみたりすることもあるはずです。

それは本当に人それぞれです。何が正しくて何が間違っているかということではありません。努力の果てに努力はいらないと気づくように、自分とは誰かを見る努力も今は必要なことだと思っています。

流れのままに

秋の夜長はとっても気持ちいいですね。普段あまり、夜窓を開けていることはないのですが、今の季節だけは開けっ放しで読書をしたり、瞑想をしてみたり。

それがとても心地いい感じです。外では秋の虫たちが控えめに鳴いていて、それを聞いているだけでも心が落ち着いてきます。

いい音色で泣いてくれる虫たちは、きっとこれからやってくる冬には耐えることができずに、その短い命を終わらせるのでしょうね。

その前に卵をせっせと産み落としておくのは言うまでもありませんが、自分たちの子供の顔を見ずして亡くなっていくのですから、少しさびしい感じがします。

そして来年卵からかえった幼虫たちは、自分たちの親の顔を見ることもなく、自然の脅威の中で逞しく育っていくわけです。

彼らはそれを無限とも言える世代に渡って延々と続けてきているのです。一体何の目的で、どのようにしてそれを維持し続けているのか。

彼ら自身もそれを知ることはありません。それは本当に不思議なことですが、何かの力が働いていると思わずにはいられません。

彼らには、「私」という想念がないにもかかわらず、すべきことを完璧に仕上げたうえで、何事もなかったかのように短い一生を終えるのです。

では、我々人間はどうなのかと考えて見ると、私たちには、「私」という自覚があって、その私の自由意志によって、何かを計画したり考えたりして自分の人生を生きているとの思いがあります。

でも本当は、秋の虫たちと同じように、その一生は大いなる力によって決められた通りに推移していくのだとも思えるのです。

それなら、この「私」の意志や意図、そして固有の選択などというものは表面的にあるように見えるだけで、本当は起きることが起きるだけであるとも言えます。

そこに「私」という行為者はいないということですね。「私」がいてもいなくても、結果は同じであるとも言えるのです。

であれば、あくせくしたり、深刻になったりする必要など全くないということに気づくでしょう。あるがままに、流れのままにそれを受け入れて、身を任すことができたら無駄な苦悩を背負い込むこともなく、平安な心でいられるのでしょうね。

嫌いは悪くない

たまに、誰とでも仲よくしなければいけないと思っている人がいます。そういう人に、私がそんな必要はないですよと言うと、目を丸くしてびっくりしてしまいます。

そういう人は、誰かのことを嫌ってはいけないとも思っているようです。選り好みをせずに、どんな人ともうまくやっていくことが大切なのだというわけです。

でも本当にそうでしょうか?それは、心の底からそうありたいと願っていて、そうできるのであればいいのですが、本心は違うところにあるかもしれません。

ある人やあるものに対して、好き嫌いの感覚を持つことは決して悪いことではありません。問題は、何かを嫌うことがいけないことだとの思い込みです。

嫌いというと角が立つというなら、好みではないと言い換えればいいだけです。もしも、それを否定してしまったら、それこそパートナーは誰でもいいということになってしまいます。

玉子焼きは好きだけれど、トマトは嫌いというのは自分の素直な気持ちです。出されたものの好き嫌いを言わずに何でもおいしいと思って食べられたら、それに越したことはありません。

しかし、それはただの理想であって、人として生きている限りは、どんなものに対しても好んだり嫌ったりすることはごく当たり前のことです。

そうした中に、その人の個性があるわけですから、それを否定する必要などまったくありません。逆に、嫌いという気持ちを抑えることなく、自分に対してはっきりさせることの方がどれだけ大切なことか。

極端なことを言えば、他人を騙しても(悪意がなければ)いいですが、自分自身を騙してしまうと、後で大変な心の痛手を負うことになってしまうのです。

なぜなら、騙された状態であっても、本心そのものがなくなるわけではないため、嫌いなものを好きに違いないなどとやっていれば、当然のことながら自己犠牲が溜まって行くわけです。

これは危険なことですね。好きも嫌いも同じように大切な本人の感性からくるものです。嫌いは決して否定ではないということを知ることですね。

誰かと仲良くしなければと思えば思うほど、人間関係はうまくいかなくなってしまうし、労力を沢山使うことになって面倒くさくなってしまうはずです。

自分の気持ちに素直でいることが、もっとも人間関係を円滑にするコツなのです。あるがままの自分をなるべく認めることですね。

再び 過去はない

私たちは常に誰が何と言おうが、過去はあると信じています。それは、今まで自分の人生をずっと生きてきたのですから、過去がないはずがありません。

ところが、その過去(あるいは未来についても)があるとの思いは、絶えず生まれ続けている想念によってその存在が確証されているに過ぎないのです。

もしも何らかの方法によって、自分の心の中に一つの想念も浮かんでこない状態になることができたとしたら、本当にそれでも過去があると言えるでしょうか?

いいえ、実は過去があるとかないとかという思いが浮かんでこなくなってしまうのです。なぜなら、想念のほとんどは過去がベースとなって出現するからです。

そして過去に関連したあらゆる想念のない心の状態において、一体過去にどんな意味づけをすることができるでしょうか?

それは勿論何もあるはずがありません。つまり、その時点において自分にとっては過去はないということと同等になるのです。

そうした経験は誰にでもあるはずです。何かに没頭しているとき、無我夢中で何かを続けているときなどは、まさにそのこと以外の想念の浮かんでくる余地がありませんね。

したがって、そのときには過去はないとも言えるのです。ただ、残念ながら元の状態に戻ってきたときに、またすぐにいつもの過去を伴った想念がやってくるので、やっぱり過去はあったということになってしまうのです。

過去とは自分という人物を作り上げているあらゆる体験や記憶のるつぼです。だから、過去がない状態の心では、自分がいなくなっています。

深い瞑想に入ってもそうした状態になることはできます。それは楽しさや苦悩といったエゴの体験はできなくなりますが、何もない無の状態、つまり平安を得ることができます。

そのときには、自分が本当は誰なのか、想念に惑わされることなく自覚することができるはずです。 そのことは、本来我々の本質は平安であり、至福であるということが言えるのです。