自分という自覚の必要性

私たち人間と他の動物との最大かつ決定的な違いとは、自我があるかないかという点です。自我とは、自分、あるいは自分がここにいるという自覚のことです。

人間は他の動物と違って言葉を話すこともできるし、多くの複雑な能力を身に着けることもできます。芸術面にしても、スポーツでも、科学やその他あらゆるジャンルにおいてもです。

ということは、単純に考えれば、自分という自覚を持つことによって、人間は能力を飛躍的に向上させていくことができるように思えます。

けれどもそれは本当でしょうか?本当に何かを学習していくために、自分という自覚が大きな役割を持っていると言えるのでしょうか?

たとえばピアノの演奏を習っている場合、もしもライバルに負けたくないという気持ちがあって、一生懸命に練習して上手になったとします。

この場合には、ライバルを意識しているのですから、自分がピアノを弾いているという自覚がそこにあるのは明白です。

したがって、自分が弾いているという自覚がピアノの習得に役に立っていると言えるでしょうね。しかし、そんなライバル心によって真に熟達したピアノ奏者になれるのでしょうか?

私たちは生まれてから数年もしないうちに、気が付いたら言葉を使って話をするようになっています。つまり、明確な自覚がないままに、言葉を学習しているわけです。

言語というとても複雑で難しいものを幼い私たちは無自覚のうちに体得してしまうのですから、本当にすごいことですね。

結局、自我は部分的には学習意欲に一役買うことはできますが、ただそれだけです。実は、学習する対象への興味があれば、自覚はなくても高度に能力を高めることはできるのです。

逆に自分という自覚が能力を制限してしまうケースをたくさん知っています。なぜなら、自覚は本来自己防衛において必要なだけだからです。

どんなジャンルであれ、頂点を極めた人の意識はきっとその瞬間、自分という自覚の外に在るのだと思います。