親への絶対視は危険

純粋な師と弟子の関係とは、弟子が師に帰依するということ。弟子は師と運命を共にするだけではなく、弟子の身も心もすべてを師に捧げ、丸ごと委ねるということです。

これは、師に対して無防備になっている状態とも言えるので、それは恐怖がなくなり愛そのものになるということでもあるのです。その信頼関係は防衛で生き延びるエゴを消滅することになるはずです。

一方で、これと類似はしているものの、似て非なるものもあるのです。それは、自分を守るために相手に仕えるというものです。

例えば、幼い子供にとって親は生き延びるためには、絶対的に必要な存在ですね。その親の関心が、どうやら自分に向いていないと察知したなら、それはとても危険な状態なわけです。

自分以外の別の誰か、あるいは別の何かに親の関心を奪われていると感じたなら、単に悲しい想いをするにとどまらずに、それは生きる上での最大の危機なのです。

そうなると、その子供は親の関心を自分に向けようとあらゆる努力をするようになるのです。その一つは、自分の本心を騙して親を絶対視するというものです。

一たび親を絶対視してしまえば、親の主張することに対して、それがどんなことであってもそれを信じ込むことができるようになるのです。

無理やり自分を抑圧しつつ、親のいいなりになる必要がなくなるのです。自覚の上では、親を愛して、親を敬い、親がすばらしい存在だと思い続けることもできるのです。

弟子が師を絶対視することとの唯一の違いは、その子供の絶対視の原動力が、自己防衛という恐怖であるということです。

したがって、親を絶対視していた子供は、成長するにつれてその親のことを否定的に見るようになるのです。絶対視という洗脳が溶けた分だけ、否定が強くなるはずなのです。

なぜなら、絶対視していた間に起きた自己犠牲が疼いてくるからです。自分を騙してきたツケがいつかはやってくることになるからです。

もしもあなたが、幼いころに親に対して不満や疑問などを抱いたことがないとしたら、絶対視していたことを疑ってもいいかもしれません。

そして勇気をもって、隠されてしまっている当時の本音を見てあげることです。そこには、きっと親への怒りや孤独感などがあなたに探してもらうことを期待して待っているはずです。

本当の救い

今の自分のことを、どうしても認めることができないという人が大勢います。どうやったって、このままでOKなどとは思うことができないということですね。

大嫌いな自分のことなど、到底愛することなどできないと感じているわけです。そんな時に、それでもなんとかして、自分を好きになってくださいと助言するセラピストがいたとしたら、それは明らかに間違いです。

誰かのことを許すことができなくて、苦しんでいるという方もいます。許せない頑なな自分のことも否定してしまうのです。そんなときに、何とか許せないものかと努力するのも、同じような間違いです。

こうした衝動が心の中にあるのは、当然のことだと思いますが、力を使って自分を矯正しようとすることは、かえって苦しさを増大することになるばかりで、そこからは何も得るものがないのです。

自分を認められないのなら、そのことをまずはしっかり認めることです。認められない自分というものを、まずは認めてあげることです。

自分自身が嫌いだということ自体を認めるのです。誰かを憎んでいて、許すことができない心の状態そのものをまずは認めてあげることです。

それができるなら、自分を矯正しようとするエネルギーが一歩退いていくはずです。自分を力でねじ伏せていいなりにさせようとすると、北風と太陽の話しのように、自分との関係が悪化してしまいます。

北風のようなやり方は、後々に怨恨を残すことにもなりかねません。こんな自分なんか、いなくなってしまえばいいのにと思うことを無理にやめようとする代わりに、そうやって苦しんでいる自分を抱きしめてあげるのです。

あなたの内面に、桁違いに広大で途方もなく愛に溢れた心の部分があると想定するのです。そして、その部分から今の自分を丸ごと受け止めてあげることです。

もうすでに、あなたは何度も何度も苦しみぬいてきたのですから。もう疲れ果ててどうすることもできなくなって、うずくまっている自分に、やさしい太陽の光を投げかけてあげることです。

そうしたイメージを少しずつ繰り返していくことで、何であれ受け止める心の部分が育っていくはずです。そして、いずれはそれはあなたの心の内にあるのではないと気づくことになります。

受け止めることは、無思考だからです。そうなったら、もう自分を改善するために矯正しなければという気持ちが消えてしまうでしょう。

人はそうやって救われるのですね。

垂直方向への進化

自然の中で生きているものには、文句というものがありません。不平、不満を感じる何ものもないからです。ただひたすら、自然の法則の中で生を営んでいるだけです。

その生の営みの中で、すべてが人間へと進化しようとしているのです。無生物はまず植物へと進化し、植物は動物へと進化の道をひたすら突き進んできたのです。

そして最終的には、自然界の進化の到達点は私たち人間だったのです。人間にも当初は自我がありませんでしたから、他のあらゆる動物と同様にして、自然の一部としてただあったのです。

ここまでの進化においては、まったくもって自由というものがありませんでした。すべてが自然の法則のもとにあるからです。自然のなすがままに生き、なすがままに進化を遂げただけで、完全なる奴隷状態だったのです。

自然は美しいですね、ただ在るがままに在るからです。けれども、これっぽっちの自由もそこにはありません。だから、恐怖というものがないのです。

人間の身体はもうすでに進化を終えてしまったと言えるかもしれません。あったとしても、微々たるものでしかないはずです。自然の力での肉体的進化は終了したのです。自然ができることは、もうなくなってしまったのです。

その後、人間は自我を持つように進化しました。つまり、自由意志があるという自覚を持つように進化したわけです。自由であるということは、一寸先に何が起きるか分からないという大いなる不安を作り出したのです。

自由とは恐怖なのですから。それまでの人間にはなかった、心理的恐怖、不安というものを持つようになってしまったのです。そこで、当然の結果として誰もが不安を安心に変えようと努力するようになったのです。

それが、自己防衛なのです。誰もが自由を求めていると言いながら、実は自由と引き換えに安心を得ようと奮闘しているのです。それが、現在の私たちの姿です。

自由とは責任も発生するのです。自由とは大変な重荷であることは間違いありません。自然が与えてくれた進化の道は、もう終わってしまっているのです。水平方向への進化は人間で打ち止めなのです。

これからは、私たちの自由さを徹底的に使って、つまり意識的に生きることで自然の進化の法則から垂直に飛び立つことが、私たちに与えられた自由の唯一の使い道なのです。

自然という無意識状態から、未熟ですが意識的な存在となったのですから、すべての無意識を意識的な状態へと変えていくことこそが、これからの本当の進化、まさに垂直方向への進化なのです。

全的な意識状態

以前にも何度かお話ししたことがあったと思うのですが、私は幼いころに三輪車で遊んでいるときに、家の脇を流れていたそれなりに大きい川(石神井川)に落ちたことがありました。

近所の友達と一緒に三輪車に跨っていたところ、突然正面に見える景色が遠ざかり出したのです。川に背を向けていたところ、そこが斜面だったせいで気づかぬうちに後ろ向きに川へ向かって滑り出したのです。

私は、景色が遠ざかるさまが面白かったので、少し笑っていたのを覚えています。その直後に、突然景色の角度が変わって、川の中へと真っ逆さまに落ちていったのです。

その時、すべてがスローモーションのような動きをしていたように感じたのをはっきりと覚えています。きっと、絶対的な危機的状況に瀕して、私の意識が全的に反応したのでしょうね。

どんな余分なことを考える暇もないくらいに、意識の全部を総動員してその危機に立ち向かおうとしていたのだろうと考えられます。そのために、知覚にまで変化が起きたのだと思うのです。

もしもあなたがライオンに近距離から襲われそうになったとしたら、きっと同じようなことが起きるはずです。あなたの意識は間違いなく全的になって、一丸となって事態をとらえようとするでしょう。

その時には、思考を使うことができなくなり、完全なる意識の統一が図られることになると思うのです。研ぎ澄まされた感覚においては、やはりスローモーションのように感じるのかもしれません。

そういった全的な意識であるときというのは、まさしくそれこそが無思考の状態であり、エゴが消え去って、意識下にある潜在意識や無意識なども総動員されることになるはずです。

それはある意味目覚めている状態、覚醒した状態に近いのかもしれません。葛藤や抑圧といったような意識の曖昧さなどは微塵もなくなり、統一された純粋な意識に近づくのでしょうね。

あの透明性のある意識状態を維持することこそが、光明を得るということなのも知れません。

珍しく怖い夢

私の心の中に、瞑想を楽しんでいる部分もあれば、うっすらですが瞑想を恐れている部分もあるのを感じています。そこに意識を向けてみると、何だかとても構えているような雰囲気がするのです。

今更何を怯えているのかなと思っていたのですが、夕べそれを現わす象徴的な夢を見ました。記憶のある限りですが、ほとんど怖い夢というものを見たことがないので、びっくりしたのです。

その夢は、自分がどこかを一人で歩いているのですが、ある時から急に完全なる闇の中を歩いているようになってしまうのです。周り中を見回しても、一切何も見えない漆黒の闇です。

この状態、夢でないとしたらまずい、夢であって欲しいと願うのですが、一向に目が覚める気配がないので、徐々に本当に恐ろしくなってくるのです。

自分がどこにいるのかも分からず、何も見えずにただそこを歩いている自分がいる。その時には、自分が何者かも分からない状態でした。

怖くて怖くてこのままだと本当にやばい精神状態になってしまうと思ったときに、ふと目が覚めて夢でよかったと思ったのです。その時、周りは実際闇の中でしたが…。

目覚めたベッドの闇の中で、その時分かったのです。ああ、自分が瞑想に対して持っている恐怖とはこれだったのだと。私たちは、誰でも自分の知覚が遮断されることを心底恐れているのです。

なぜなら、自我(エゴ)は知覚からの情報を餌にして、思考を働かせて生き延びようとしているからです。知覚が遮断されると、自分が何者かということすら分からなくなってしまい、自我はもっとも危険な状態になるからです。

私は、瞑想の中で前後不覚になるのを楽しんでいたつもりだったのですが、一方ではそれを死ぬほど怖がっている自我の部分があったということですね。

夢でそれを教えてもらえたのは、とてもよかったと思っています。恐怖は、あることは分かっていても、なかなか表面化してこないものだからです。

思考が静まっていくと、間違いなく心の中が空虚な感じになるのですが、それは本当に空虚なのではなくて、自我が活動していた残骸を感じているだけなのです。

その空虚さを恐れているのなら、まだまだ自我は健在ということです。真に空虚であれば、それを空虚だと感じる何者もなくなるのですから。

より意識的に生きる

動物というのは無意識です。生まれてから死ぬまでずっと無意識状態で生きているのです。だから、彼らは自分が幸せなのか不幸なのかという想いを持ったことがありません。

彼らにあるのは、快不快だけです。私たち人間が持つような精神的な苦しみというものはありません。だからある意味羨ましいことなのですが、彼らにはその自覚がないのです。

一方、人間には自覚というものがあるのです。それを一般的には表面意識とか顕在意識と呼んでいますが、残念なことにそれは全体の意識の10%以下とも言われています。

ということは、残りの90%の部分については意識することができないでいるのです。こうしたことは、今では多くの人が知識としては持っているのですが、それが原因で苦悩するのだということを理解はできてないかもしれません。

人間とは何と中途半端な状態、宙ぶらりんな状態に置かれているのでしょうか?幼い子供も、ちょうど動物のようにほとんどが無意識の状態です。

だから彼らもやはり動物のように無邪気でいられるのです。幼児にも快不快しかありません。お腹が空いたら泣き、満腹になって満足したら寝るだけです。

そして成長するにつれて、少しずつ表面意識が増えて行き、10歳くらいになってようやく大人と同じ意識構造へと発達するのです。

でも残念なことに、意識的な部分はたったの10%程度で抑えられてしまうのです。それ以外のすべてが意識することができないままなのです。

そのたった10%の自覚の中で、「自分」という中心を持っていると錯覚しているのです。それは決して中心ではなく、周辺と言った方が当たっているのです。このニセの中心こそが、自我(エゴ)なのです。

けれども、もしもあなたが自分に意識を向け続けることによって、もっともっと意識的になることができるなら、いずれは無意識の部分がなくなり、全体を意識することができるようになるはずです。

その時こそ、本当の自己の中心を見出すことになるのですね。その時こそ、本当のあなたの本質として、あなたは在ることができるのです。

それは、人間だけが抱えていた苦悩がなくなるだけではなく、幸不幸さえも消えてなくなってしまうでしょう。そして、自己の本質である永遠の至福そのものとなるのです。

無意識状態から目を覚ますために、外を見た分だけ、外を見ている自分を見ることです。美しいバラの花に見とれた分だけ、見とれている自分に意識を向ける練習をして下さい!

明日はない!

数か月前から、スマホでやるあるゲームに嵌っているのですが、そのゲームのいいところは勿論無料ということもありますが、ある回数分失敗すると一定の時間たたないとゲームができなくなるというシステムなのです。

これがとても自分にとって都合がいいのは、無制限にやれてしまうゲームであれば、自分の時間がたっぷるある私は、一日中やってしまうかもしれないので、うまい具合の制限がかかっていることになるのです。

簡単な面はすぐにクリアすることができるのですが、難しい面は何度挑戦してもダメなのです。そういう挑戦し甲斐のある面をクリアできたときには、とても爽快な気持ちになれるのです。

そして、次へ次へとどんどん進んでいくのですが、これってちょうど人生と同じような感じがするなあと思ったりもするのです。

なぜかというと、難しい面に挑戦して、やっとクリアできた喜びは大抵ものの3秒くらいで終わってしまい、またすぐに次の面へと気持ちが移ってしまうのです。

この面をクリアしたら、ここをクリアしたらどんなに嬉しいのに…。そう思って頑張ってやっとクリアできたと思ったそのすぐあとには、次の面へと進んで行くのです。

余韻も何もあったものではありません。結局人生も同じこと、これを達成できたらどれだけいいだろう、あれを手に入れられたらきっと幸せになるに違いない。

けれども、何をどう実現できたところで、結局はまた未来への期待が脈々と続くだけなのです。もうこうしたことをどれだけ繰り返してきたことでしょうか。

すべての面をクリアした途端に、手持無沙汰になってしまうのがオチなのです。それなら、一体未来に私たちは何を期待して生きているというのでしょう?

本当は、未来に何がやってこようがあなたの人生は何も変わらないのです。だから、今を大切に十分に生き切ることしかないのですね。

かつての坂本九の歌で、「明日がある♪」というのがありましたが、明日は決してありません!過去もありません。そうした錯覚を見抜いて、今しかないということに気づくことです。今がすべてです。

今をトータルに生きること、それこそが生の目的なのですから。

瞑想という実験

科学というのは、客観的なある対象に対して、様々な実験を何度も繰り返していきながら、期待する結果を得ることによって、打ち立てた理論を証明しようとする分野ですね。

あくまでも実験によって、理論を証明するということです。どんなに、すばらしい理論を打ち立てたとしても、それを誰もが実験によって確認することができなければ、何の価値もなくなってしまうからです。

真実を探求しようとすることは、そのことと似ているように思うのです。どれほどすばらしい経典を読んで理解しても、実験して検証していくことがなければ、1ミリも真実へは近づけないからです。

ただし、探求の場合は、科学とは根本的に違う点がいくつかあります。科学は、観察する主体と、観察される客体と、実験という三者が必要となるのです。

一方、自己探求の場合には、観察する主体と観察される客体が一つであり、心の内側における完全なる一人称での実験だからです。

そこには、どんな客観性も存在しないのですから、どうしたって手探りで進めていくしか方法がないのです。瞑想の専門家ではない私にとって、今瞑想とは一つの実験に違いないのです。

瞑想という実験を重ねながら、内面がどのように在るのかを観察しているのです。とても骨の折れるまどろっこしい実験のような面もあるし、これほど興味深い実験もありません。

先日、朝クルマを運転しているときに本当に久しぶりに腹痛がやってきて、ハンドルを握っている手が毒出しで痺れてどうしようもなくなったことがあったのです。

それがあまりにも苦しいので、自動的に自分を全面的にその苦痛へと向けるしか方法がありませんでした。ほかのことは、もう何も考えることもできないくらいになったからです。

すると、その日の夜から数日間というもの、あっという間に深い瞑想に入れるようになったのです。ベッドに横になっても、寝入る前にさえも深い意識状態へと入るようになったのです。

残念ながら、そのような状態は、数日で消えて行ってしまったのですが、もしかすると全面的に何かに意識が向かった状態を経験したことが原因なのかもしれないと思うのです。

苦しいのはいやですが、何であれ全面的にというところがミソなのかもしれません。これからも実験は続くはずです。

生を信頼する

私たちが深刻な気持ちになってしまうときは、必ず生に対する信頼を喪失しているはずなのです。何を信じればいいのか、途方に暮れてしまうことだってあるかもしれません。

その時には、この世には神も仏もあったもんじゃないという気持ちにもなるはずです。身に降りかかってきたことを、重く受け止めて、出口が見つからないところでグルグルしてしまうのです。

誰だって、そういうときには深刻になってしまうのも当然なのです。でも、そうした暗くどんよりした状態も、いずれは好転するはずです。生は流動し続けているからです。

もしもあなたが、どんな状態であろうと、そこから逃げずにいれば、必ず流転していくものなのです。そのことを、思い出して生を信頼し直すことです。

生を信頼するためには、生をしっかり見ることから始めなくてはなりません。私たちは、生きているようでいて、本当は半分くらい死んでいるのです。

なぜなら、生の中に流れてくる一切合財を引き受ける心構えができていないからです。都合のいいことばかりを期待して、いやなことからは逃げようとする限り、生はあなたから背を向けてしまうのです。

思考によって、常に自己防衛を続ければ続けるほど、生は逃げていきます。その時、あなたは十分に生を満喫することができなくなってしまうのです。

そうすると、その不十分な想いが、いつまでも未来のあなたに訴えてくるのです。自分を十分に生きてないぞ!と。生をもっと堪能させてくれと。

そうした過去からの叫び声にしっかりと気づいてあげることです。そのためには、防衛のためにやってくる思考をキャッチしないようにして、なるべく意識的な時間を増やすことです。

自分の本質に意識が向くようになると、生は決して敵ではないということが分かります。私たちの人生は、生という舞台の上で演じられている劇みたいなものです。

生を信頼すればするほど、それを十分に満喫する人生を送ることができるようになるはずです。苦しみは必ず来ますし、悦びも同じだけくるのです。

生がプレゼントしてくれるあらゆるものを、そのままに味わい尽くすことですね。

人を三つのタイプに分類する

私たちのマインド(思考)は、何かを分類するのが上手というか、大好きなのですね。たとえば、血液型で人の性格を判断するなどというのは、その典型かもしれません。

分類して違いを明確にするというのは、何かを詳細に把握するためにはとても大切な手法です。整理整頓するにしても、そうした分類は絶対必要なものです。

これはある本からの受け売りなのですが、人を次の三つのタイプに分類するということについて書いてみたいと思います。

一つ目は、「知る」ことを優先して生きている人。彼らは、物事を調査して知るに至ったときに初めて行動を起こすというタイプらしいのです。

したがって、対象が人であれば一目ぼれをするということがないのだそうです。慎重に相手を見て、十分すぎるくらいに観察して、知ることができたときに、好きになるということだそうです。

彼らは、研究者や哲学者などが適しているということで、数パーセントしかいないそうです。二つ目のタイプは、「感じる」ことを優先して生きているひと。

相手のことをよく知る前に、好きになってしまうタイプ。自分の感性によって、きっとこの人は正直者に違いないと決めてしまい、後づけでそれが正しかったと証明しようとするのです。

そして、三つ目のタイプは、「行動」を優先して生きている人。何よりも、真っ先に行動してしまうのです。知ろうとする前に、感じる前に、決断が先ばしるということです。

ここまでは、なるほどねという程度なのですが、ここから先が意外にも大切な気づきをもらったのですが、それぞれのタイプの人たちは、その真逆の状態にたやすくなれるということです。

「知る」の人は、簡単に思考を止めることができる人だし、「感じる」の人は、無感情になることができる人であり、「行動」の人はあっという間にリラックスすることができる人なのだそうです。

時計の振子のように、左右の両極の間を行ったり来たりするということなのでしょうね。勿論、誰もがこの三つのタイプのすべてを併せ持っているのであって、一つだけという極端な人はいないのです。

要するに、どのタイプが自分の中で一番優位なのかということであって、それを見極めることができると、無駄なエネルギーを使うことなく、人生がスムーズになるとのことです。