真実に「なぜ?」は通用しない

自我はどんなことにでも「なぜ?」という質問をすることができると思い込んでいるのです。

なぜ私たち人間には自我が備わっているのか?なぜ自我は防衛ばかりしてしまうのか?なぜ宇宙は膨張し続けているのか?

この「なぜ?」という問いに対して、答えが分かっていてもいなくても、確実にどこかに答えはあると言えるのです。

ところが、真実に対しては、この「なぜ?」という問いは意味を成しません。この問い自体が真実に対しては不適切なのです。

真実は、「なぜ?」という問いに対してどんな答えも持ってはいないのです。もっと言えば、「なぜ?」を包含してしまっているということ。

毎日の生活の中で、もしも「なぜ?」が全く通用しないようなことにあなたが出くわしたなら、それこそは真実の可能性があるということです。

理由があるようなことは、所詮は自我の範疇なのです。あなたが優しいから好きだというなら、それは自我の愛、偽物の愛ということです。

純粋な愛は真理そのものなので、そこにはどんな理由もありません。自我が消えると、なぜ穏やかさや至福がやってくるのか?

穏やかさや至福感は真理が持っている元々の特質であって、そこにはどんな理由もないのです。

正しさよりも自然でいること

先日、大阪で府知事と市長のダブル選挙があって、少しばかりその結果がどう出るのか気になっていたのです。

結果は維新が勝って、結論から言えば大阪の人々の多くがこれまで通りのやり方で今後もやって欲しいと望んだことになったわけです。

選挙に負けた側が、どんなコメントをするのかと思って聞いていたら、本当に驚くような言葉が聞こえてきてびっくりしました。

選挙に負けた理由は、真意が十分に伝わらなかったからだというのです。いやいや待って下さい、そういうところにこそ人々がそっぽを向く原因があったのではないのでしょうか?

その候補者の方を悪く言うつもりはないのですが、ただあまりにも自分を正当化することに躍起になっている姿が見て取れたのです。

政治家なら、もう少し潔く負けを認める方が好感が持てるというものです。世の中には、自分を正当化することで安心しようとする人がたくさんいます。

正しさという鎧を着込んで、誰からも否定されずにいられると信じているのです。そういう自己防衛のやり方は、子供っぽい幼稚なものです。

きっと幼い頃から、僕は悪くないもん、というのをやってきたのでしょう。防衛はやってることに気づかなければ、一生やり続けてしまうのです。

正しさにしがみつけば、本人は正しさと一緒にズブズブと海の底まで沈んでいってしまうのです。

そうなる前に、正しさから手を離して身軽になることです。ただそのままの自分でいられれば、正しさよりも自然であることがどれほど爽快かを実感できるでしょうね。

全体性を信頼する

長いこと様々なクライアントさんとのセッションを経験してくると、癒されにくい人のパターンというのが見えてきます。

そういう人は、大抵自分に都合のいいようにセッションをして欲しいと期待しているものです。

自分のこれまでの生き方、考え方、主義主張のようなものはそのまま温存しておいて、問題だけを治して欲しいと願っているのです。

けれども、今現在の自分を構成しているのはこれまでの生き方の積み重ねなのです。勝手に、あるいは偶然今の生きづらさがやってきたわけではありません。

自分を変えたくはない、辛いところを見る気はしない。それがあまりにも強すぎると、全身を硬い鎧で覆っているように感じてしまうのです。

それも無理ないのは承知の上で、セラピストは嫌われるのを覚悟の上で、少しずつ核心の部分へと導くことを試してみるのです。

子供の頃にどうやって生き抜いてこられたのか分からないような人でも、いつかは防衛が緩んで頑なさが和らいでくるときがやって来ます。

だから自分のペースで、ゆっくりじっくり時間をかけて無理せずにやってくるチャンスを待てばいいのです。

全体性を信頼するとは、そういうことなのですね。

欲望には未来が必要

私が「欲望を落とす」と言うとき、どうか誤解しないでほしい。それはあなたが欲望を落とすという意味じゃない。

そこに暗黙の了解があったら、それは落ちるのだ。不意に、あなたは問題点を見る。

生はここにあるが、欲望はあそこにある–。あなたはそれを見る。と、欲望は消えてしまう。

by osho

自我は欲望がなければ生きていけない。その欲望は、未来がなければ成立しない。だから死を恐れるのです。

自我は未来という空間に欲望という絵を描いて、それを原動力に生きているのです。まるで、鼻づらに人参をぶら下げられた馬のように。

ところが、生は今この瞬間にのみあると↑言っているのです。今ここだけが生きる場なのに、自我は欲望頼みなのですから生を楽しむことができないのです。

生を楽しむためには、無邪気な子供のような瞬間を思い出すことです。屈託無く笑い、大声で唄い、身体を使って踊ることです。

お母さんの自転車の後ろに乗って、自分で作ったデタラメな唄を歌っている子供に出くわすことがありますが、その子にとっては今その瞬間がすべてだと分かります。

歳を重ねてくると、遠くにしか見えなかった死がそれなりに身近かに感じるようになるのです。すると、未来という空間が次第に狭くなっていくのです。

そのおかげで、未来よりも今この瞬間を大切にしたいという思いが強くなっていくように感じます。これは若い人には無理かもしれませんね。

自我を成敗しようとしない

生は意味するべきではない。生は在るべきだ。それ自体でひとつの目的–。

どこに向かっているのでもない。いまここを楽しんでいる。祝っている。

そうしてはじめて、あなたはやわらかくなれる。

by osho

自我はまったくもって↑これの真逆です。自我にとっては、意味とか、価値とか、目的などがとても大切なのです。

というよりも、そういったものなしではとても生きていけないのです。だから柔らかくなれないでいるのです。

生自体が目的であるのに、自我はその生の中で個別の目的を持とうとするのです。その達成のために固くなってしまうのです。

自分の生を勝手な都合で、より意味のあるものにしようとするし、自分の存在をより価値あるものにしようとするのです。

それが戦いを生み、決してリラックスすることができなくなってしまうのです。硬直した生は生きているとは言い難いのです。

自我を成敗しようとすれば必ず失敗します。なぜならその発想そのものが自我のものだからです。

逆に、自我の生き方を愛を持って見守ってあげましょう。その一方で、今この瞬間をなるべく楽しみ、祝い、踊るのです。

そうなれば、自我はひとりでに退いていくしかなくなるのですから。

惨めさの伝播

光明を得ていない人々は、死のたびに、あらゆる種類の惨めさのパターンを放り出し続ける。

富がより多くの富を引き寄せるように、惨めさはさらなる惨めさを引き寄せる。もしあなたが惨めならば、何キロも先から、惨めさがあなたへと旅をしてくる。

by osho

光明を得ていない人々、つまりは私たちのことですが、肉体の死のたびごとに惨めさのエネルギーを次の人生へと伝播させるということ。

つまり、輪廻というのは惨めさの伝播だと捉えることができます。覚醒してしまったマインドは、惨めさという思考が消えてしまっているために、真実へと溶けていくのです。

↑上の「もしあなたが惨めならば…」というのを言葉通り受け取らないことです。正確には、「もしあなたが惨めだという思考を持っているなら」ということです。

惨めだという波動は、遠くからそれと同じような惨めだという波動のエネルギーを引き寄せるのです。これはこの世界の摂理なのでどうしようもありません。

自分のマインドを信じ、惨めだということを真実だとみなして、そこから脱出しようと努力するのが人生なのです。

惨めさとは実在するものではなく、単なる思考だということを理解すれば、惨めではなくなろうとする最悪の努力にも気づくはずなのです。

瞑想している間に消えてしまうもの、それはすべて思考によってでっち上げられた空想上のものなのです。

あなたの本質とは?

自我がいなくなったときこそ、実際には、はじめてあなたがいるのだ。はじめて、あなたは限界のある存在でなくなる。

あなたは無限だ。はじめて、あなたは肉体ではなくなる。形に現れたものではなくなる。

あなたは具現せざるもの、広大なるものだ。始まりも、終わりもなく、ひろがり続けていく。

by osho

↑上に書いてあることは、何となく分かるところと、分かりづらいと感じるところもあるかもしれません。

あなたが肉体ではないということは、薄々感じていることです。だって、自分が本当はどこにいるのか知っている人はいないのですから。

単にこの肉体のある場所に自分がいるに違いないと信じているのですが、それならこの意識である自分はどこにいるのか?

そこを見れば、肉体ではないのは明らかですね。だからあなたには形などないということになるのです。

自我にとっては、無限ということが掴めないのです。なぜなら、思考が理解するのは有限だけだからです。

だから思考を止めてしまうと、有限というのが概念に過ぎないと分かります。あらゆるものの本質が無限であるのは、どこにも境界などないからです。

自分の本質に気づいたなら、知りうるすべてを知ったことになるのは、あなたが全体性そのものだからですね。

無思考こそ非二元

この世界は二元性と言われますが、それはこの世界のすべてが上と下、明と暗、昼と夜、表と裏のように二元になっているからです。

創造主としての神様も、表だけがあって裏がないコインを作ることはできなかったということですね。

マインドの中でもこの二元性は働いているのです。信じるがあれば、信じないもあるし、好きがあれば嫌いもあると言う具合に一対になっているのがわかります。

とここまでは、あたかも本当に森羅万象のすべてが二元性の中にあるように書きましたが、真実はそうではありません。

その反対に、非二元(ノンデュアリティ)が真実なのです。この世界をどう見るかによって二元に見えたり、非二元になったりするのです。

つまりは、思考を通して見ることで、何であれ二元になってしまうのです。それは見る対象物に関わることではなく、思考がすべての原因なのです。

思考そのものが二元性だからなのですね。思考を通してコインを見れば、表と裏があると認識するのです。

けれども、思考なしでただ見るなら、そこには表も裏もどちらもありません。言っている意味分かりますか?

思考さえ介在しなければ、すべては非二元だということが分かりますね。

わだかまりを残さない生き方

幼い頃の記憶なので、どれだけ正確なものかは分からないのですが、母親とケンカをした日は、夜寝る前に仲直りをするという習慣がありました。

まだ無邪気だったからできたのでしょうけれど、そういうことが続くと、ケンカをしている最中でも、どうせ寝る前に仲直りするからいいや…、と思ったのを覚えています。

何が起きても、その日を終える時には気持ちの中にわだかまりが残らない状態にすることができていたということです。素直に「ごめんなさい」を言うことで。

今思い返してみると、随分と無防備で可愛らしい子供だったと感じるのですが、当然それも長くは続きません。

相手に伝わらなくても、とにかくそんなことはお構い無しに自己表現していたのが、次第に言っても無駄だという勝手な思い込みとともに、仲直りをしなくなったのです。

謝ることを躊躇する心が芽生えるのですね。きっとそれも自己防衛の1つなのですが。

人間というのはそうやって、心の中にいろいろなわだかまりを残していくのですね。それを日々重ねていくことで、いつかは何かの形となって表出するのです。

正直な自己表現と合わせて、「ごめんなさい」と「ありがとう」を表現することが、シンプルではあるのですが、わだかまりを残さない生き方のベースなのでしょうね。

他人の仕事を奪うな

人には人の持ち分というのがあります。本人が持っている課題、本人が気づかなければならないことを代わりにやろうとしてはいけないのです。

その人の人生は、他の誰のものでもないということです。たとえば、私は人の愚痴を聴くことはありません。

その愚痴の内容について、何らかの文句があるのなら本人がそこと向き合う必要があるからです。

もしも愚痴を聴いてあげてしまったなら、その人は薄っぺらな安心とちょっとした満足感を手にして、みるべき課題を見逃す羽目になるからです。

厳しい言い方に聞こえるかもしれませんが、私たちが他人のためにできることは、限られているのです。

ついつい助けてあげたくなってしまうとしても、安易に手を差し伸べることは控えた方が両者にとってもいいのです。

役に立ちたいという思いがあるなら、愛を持って見守るということに使うことですね。

人の領分を奪ってまで役に立ちたいと思うなら、それは防衛でしかありません。その代わりに、自分の課題にしっかりと目を向けることが大切なのです。