「ホー!」の勧め

自我というのは自分が作った物語の中でのみ活躍することができる存在なのです。だから物語の中へ中へと自分を巻き込んで行く達人なのです。

巻き込まれていくためには、起きていることを独自の解釈によって判断し、問題を見つけてはそれをなんとか解決しようと努めるのです。

その繰り返しによって、自我は継続的に物語の中深く潜っていき、そのことにも気づかなくなってしまうわけです。

これが無意識的に生きるということです。いつもこのブログでお伝えしている、意識的であれ!ということの真反対なのです。

だから私たちは放っておけば必ずや無意識になって、目の前で繰り広げられている物語にどっぷりと浸かることになってしまうのです。

そこから抜けるためにも意識的である必要があるのですが、そのためのメソッドとして簡単に実践できるものをご紹介します。

それは、何かが起こった時に、自我が反応する前に心の中でいいので、「ホーッ!」と呟くのです。

これはイエスでもノーでもない、どちらともつかない中間の応答なのです。とにかくまずは、「ホーッ!」と唱えることで物語と距離を置くのです。

それはまるで人ごとのように言えばいいのです。「へー!」でも構いません。事態を解決しようとするでもなく、逃げるでもなく、ただ「へー!」と言ってワンテンポおくのです。

それによって思考は止まり、起きていることとただ一緒に在るという感覚を身につけるのです。是非試してみてくださいね。

死ぬのは自我と身体

スピリチュアルなことに興味を持ったりして、本当は死というものはないのだということを学んだりするのです。

死がないという情報は、やや信じ難いとしてもいくばくかの安心感がそこにはあるのです。命が永遠だと思えば、安らぎを感じることができるからです。

けれども、とても残念なことを言いますが、確実に死はあります。それも、私たちの全員に公平に死が訪れることは明白です。

死ほど公平な事象はありません。どんな人であれ、まったく同じように死はやってきて、生で築き上げたあらゆるものを持ち去っていくのです。

スピリチュアルな教えなど、全く役に立ちません。誰が死ぬのか、それはあなたなのです。つまり、死は自我に訪れるのです。

自我は本当に死ぬのです。勿論身体にも死はやってきますが、あなたが自分だと思い込んでいる自我の死も当然やってきます。

その死は避けられません。永遠の命などというものはありません。あなたという自我は、身体の死とともに死んで行く運命にあるのです。

けれども、もしも自分の本質は自我ではないと見抜くことができるなら、その時は自我の死をあなたは見届けることができるでしょうね。

モチベーション不要論

何かしら、やらなければならないことがあったときに、どうもモチベーションが上がらないからできない…、ということがありますね。

試験勉強をしようとして、どうもやる気が出ない、無理にやろうとしても集中できずに困ってしまう。

このように、思うようにやる気が出ないときに、モチベーションが上がらないという表現をすることがあります。

その結果、モチベーションを上げるにはどうしたらいいのか?ということばかりに頭が向きがちですね。

けれども、そもそもモチベーションが必要なのはなぜなのか?これをまずは考える必要があるのではないかと思うのです。

モチベーションが上がらないとできない理由はたった一つ。それは、もともとやりたいという気持ちがないからなのです。

純粋にやりたいと思っていることをやるのに、モチベーションなどというものは全く必要ないのですから。

もしもあなたが戦略的に自分のモチベーションを上げることで、日々の生活を全うしているというなら、何一つ本当にやりたいことをしていないということです。

モチベーションはどれほど頑張ったところで、必ず上下動してしまうものです。モチベーションに頼らずに、生きることをじっくり考えてみる必要があると思いますね。

「全ては一つ」を思い出す

私たちは、誰かと一体になりたいと願っているのです。何かと一つになることができたら、至福を感じるからです。

その一方で、自分からすべてが離れたところにあると感じれば、不安と孤独でいっぱいになってしまうのです。

別の言葉で言えば、疎外感や分かり合えない状態、自分の気持ちがまったく通じないなら、これほど惨めなことはありません。

これが鍵なのです。つまり、自我として自立した一人の個人として生きていると思い込めば、必ずや不安と孤独、そして惨めさがつきまとうのです。

自我という個人が何かと一つになることは不可能なのですから、自我として生きている限り、ほかのどんな望みが叶ったとしても満たされることはありません。

所詮は独りぼっちなのです。けれども、ほんの一瞬であれば自我であることを忘れる瞬間はあるのです。

そのときには、個人という枠組みが消え失せて、すべてと一つであったことを思い出すのです。それが真実の愛という状態ですね。

生き方を見直す

私たちの心の奥に巣食っている不満というのは、自分は個人だという錯覚からやってくるのです。つまり自我として生きることと不満とは一つものなのです。

不満というのは、欠乏感なのです。自分という存在のままでは足りないという感覚があるということです。

それと同時に、不安と孤独も付属しています。だからそうしたものを払拭しようとして戦い続けるのが人生なのです。

その上、私たちが受けて来た教育というのは、自我を益々成長させて強大にさせるようにできているのです。

よりよい自分になりなさい、目標を持ちなさい、価値ある自分を目指しなさい、向上心を持て、計画的に生きなさい等々。

こうした教育という名の洗脳を幼い頃からずっと受けて来てしまったので、自我は衰えるどころかより活性化してしまったのです。

それでも救いはあって、やり過ぎてしまった人にはおのずと気づきがやってくるのです。何かがおかしい、いくら頑張っても満たされないぞ。

もうこれ以上自分を騙し続けられないと分かった人から、根本的な見直しのサイクルが始まるのです。

あらゆる不満、不安や孤独、戦いの連続の原因は自我との同化だったのだと理解すれば、そこから人生の見方が変わっていくのです。

防衛システムの命がけの逆襲

これはただの空想だったり、奇想天外な絵空事でもありません。あなたのマインドの防衛システムは時として、あり得ないくらいのことをしでかすのです。

心の癒しというのは、簡単に言ってしまえばい、成長期に作り上げた防衛システムを小さくしていくことなのです。

防衛が巨大化してしまうことは、それだけ自己犠牲が増大して生きにくくなってしまうのです。したがってその逆をやっていくことが癒しの本質なのです。

ということは、癒しが進んでいくということは、マインドの防衛システムにとっては生死に関わる重大事なのです。

このまま癒しが進んでしまうということは、危機的状態となっていくので何としてもそれを阻止しようとしだすわけです。

もしも人生で初めて出会った癒しの大チャンスだと感じたなら、それこそ防衛システムは徹底的にそれを妨害しなければならないのです。

それはもうなりふり構わずになってもいいのです。私自身、かつて1分おきに自分に意識を向ける練習をしていたときには、なんと4重苦になったのです。

勿論そのことに気づいて、その練習を一時的にやめた途端に症状はなくなったのです。

防衛システムが何をしてくるかはその時の状況やその人のマインドによってさまざまですが、現象が起きたなら一旦引き下がって防衛システムを安心させてあげること。

やり過ぎないこと。そうして様子を見ながら淡々と癒しを継続できるように工夫することも大事なことですね。

体験と体験者

体験と体験者というのは、明らかに両者に違いがありますね。ところが、私たちは日頃この二つをしっかり分けて考えているわけではないのです。

その理由とは、体験とは体験者がいなければ成立しないと勝手に思い込んでいるからなのです。

体験者なしに体験はあり得ないと信じ込んでいるということ。これはあまりにも自我の影響が大きいために起きることです。

特殊な事例でこのことを見てみたいと思います。かつて狼に育てられた少年が発見されて、人間に育てられるようになったことがありました。

少年には我々のような自我は全くありませんでした。それは当然のこと、彼を育んでくれた狼には自我がなかったからです。

自我に育てられなければ自我は育たないのです。彼の中に自我がなかったからといって、人間に発見されたという体験がなかったわけではありません。

人間以外の動物にも言えることですが、自我がなくても記憶というのはあるのです。その記憶の中には、人間に発見された事実も含まれていたはずです。

つまり体験というのは、体験者の存在とは全く異なる現象だということです。そして体験者というのは、自我という思考によって作られたものなのです。

この世界に存在できるのは、体験者ではなく、ただの体験なのです。今日から、これは自分の体験だと思わずに、この体験がただ在るだけだと見るようにできるといいですね。

周りのせいにしない

「人は見たいものを見、体験したいことを体験する。」これは、マインド(自我)にとって、最も承服し難い言葉ですね。

特に今とても疲弊していて、どうにも自分自身をコントロールできなくなっている人にとっては、全く意味のない言葉になってしまうでしょうね。

けれども、マインドのたとえほんの一部であっても、このことを受け入れることができれば、物事の見方が変わることで癒しは進みやすくなるのです。

たとえ承服できないとしても、一笑に付すのではなく、敢えてそれを理解しようと努めてみるのです。

すると、隠されていたマインドのカラクリというものが次第に見えてくるようになるはずなのです。

私たちは余裕がなくなると、それを外側のせいにしようとする傾向があるのです。実は自分を責めている人ほど、その裏返しとして人を責めようとしてしまうのです。

たとえば、誰かに裏切られたとしたら、その体験をすることで活力を得るマインドの部分があるということです。

人に不愉快で、理不尽な言動をされたとしたら、その体験によって何らかのご利益があると考える部分があるということです。

もしも怒りをたくさん抱えているなら、その体験によって怒りを感じることができるのです。怒りたくないというマインドとは分離したマインドが引き起こすこと。

このような見方ができるようになれば、自分のマインドがどれほど自分の認識とはずれているのかが分かるようになり、自分を責める必要がなくなるのです。

少しゆとりができた時で構わないので、こうしたことを理解してみようとすることは、決して無駄なことではないはずです。

改善なんて忘れること

私たちは、幼い頃からずっと身近な家族からも、学校の先生や職場の先輩などからも、より良い自分になれと言われ続けて来たのです。

幼い無力な時期には、できない自分が出来る自分に成長するたびに喜びを感じて、もっともっとできるようになりたいと望むようになるのです。

その時に、ある程度認めてもらえればそれで満足することもできて、もっともっとという気持ちに歯止めがかかるかもしれません。

けれども、認めてもらうどころか何だかんだと否定され続けてしまうと、改善病がその後の人生の習慣となってしまうのです。

はっきりと気付く必要があるのですが、自我が自我を改善するなどということは不可能なことなのです。

それは例えて言えば、金メッキのただの棒切れを磨き上げて、金の延べ棒にしようとするのに似ています。

実のところもっと悪いことに、自我を改善しようとすればするほど自我は活力が溢れてくるのですから。

逆にあなたがただ自然でいられる時間が増えれば、自我はひとりでに小さくなっていってくれるのですね。

孤独は妄想

本当はすべてが一つであるのに、それを分離させてしか見ることができなくなったのには理由があるのです。

それは思考のなせる技。思考が働くためには思考の対象が分離した断片である必要があるということです。

だから思考の塊であるマインドの根っこにあるものとは、分離(感)からやってくる不安と孤独なのです。

マインド(自我)と自己同化しているすべての人に共通していること、それは不安と孤独を持っているということです。

私たちは例外なく孤独の中で生きているのです。それを真正面から見ようとすると、絶望してしまうためあらゆる手段を使って孤独から遠ざかろうとするのです。

けれども、分離した個人だという思いがなくならない限り、つまり自我として生きている限りは孤独は付き物なのです。

今猛烈に孤独を感じているとしたら、それはただ正直なだけです。逆に孤独を感じないとしたら、そこには必ず抑圧があるのです。

孤独から救われる唯一の方法とは、自我との自己同化を見破り、この世界にはどんな分離もないということに気付くこと。

その結果、分離というのは不可能なことだと、ただの思考に過ぎないということが腑に落ちるのです。