マインドを信用するな

クライアントさんとのセッションを通して気づいたことは、この点に関しては私の方が楽だろうなという部分があるということです。

それは、人を信用するかどうかという点です。私は他人を信用することがないのです。正確には自分のマインドも他人のマインドもまったく信用していない。

なぜこれが楽かというと、心底裏切られるという可能性がゼロだからです。そもそも信用とは、言い換えると期待するということです。

信用するということを分解すると、まずは対象となる人を◯◯だと思い込むというフェーズがあるのです。

こうに違いないとか、こんなことは決してしないなどです。この思い込みを勝手にしておいて、それが裏切られることがないと期待するのです。

これが信用するということなので、当然裏切られて信用できない人にひっくり返ることになるわけです。

あまりにも私たちのマインドというものについて無知過ぎるということですね。マインドは環境さえ整えば、何でもありだということを知ることです。

一万年生きていれば、誰だって殺人の一度や二度はするかもしれません。そんなことで驚いていたらキリがありません。

信用するという観点では、もうすっかり諦めてしまってください。自分自身に対しても、それから大好きで大切な誰かのことも。

その代わり、信頼を探求するのです。信頼にはどんな期待も混ざってきませんし、信頼の対象は存在なのです。

すべては生まれて滅するという森羅万象を支えているルールを信頼するということでもいいかもしれませんね。

梯子のことは忘れること

仏教の教えによると、悟りというものには段階らしきものがあるそうで、全部で52段なのだそうです。

そして最上級である52段目の悟りを得たものは、お釈迦様しかいないのだそうで、それを「釈迦の前に仏なし、釈迦の後に仏なし」と表現するそうです。

ブッダが最上級の悟りを得たということに異論はありませんが、それ以外の人はそこまで到達したことがないというのはどうなのでしょう?

さらにいうと、物事には段階があるという概念は、自我のものだと思うのです。自我はレベルという考え方が大好物なので。

完全に自我が落ちるという意味での悟り、覚醒にレベルがあるというのは私にとっては不自然な気がしますね。

osho も次のように言っています。「エンライトメント(覚醒)は梯子の最終段ではない。

覚醒は梯子から降りること、永久に降りて、2度と梯子を求めないこと。自然になることだ…」と。

一つはっきりしていることは、覚醒してしまったら覚醒などというものはないというところにいくのでしょうね。

死を敬遠せずに生きる

人間だけなんですね、自分がいつかは死ぬということを知りつつ生きているのは。他の動物にはそんな自覚はありません。

それなのに、普段は死についてはほとんど考えようとせず、脇に置いたまま生活しているのです。死ぬのはいつも自分以外の誰かだからでもあります。

それに社会の通例として、死について口に出すことはあまり好ましいことではないので、何となくはばかれるという感覚を私たちは持っています。

墓地が街のはずれにありがちなのも、普段は忘れていたいからなのかもしれませんね。お墓が家の隣にあったら、本当は便利なはずですが。

実は死というのは不吉なことではなく、逆に死をどう受け止めるかによって、本人の生き方や在り方にとても大きな影響を与えるのです。

きっと死がなければ、この世界に宗教というものはなかったのだろうと思うのです。どう生きるかは、死がやってくることが前提としてあるから大切な問いとなるのです。

そうは言っても私自身も、もっと若い頃はほとんど死を考えることもありませんでしたが、歳を重ねることで死に近づくのでそちらに自然と意識が向くようになったのです。

もしも時間があって手持ち無沙汰だなと思う時があったら、自分が死にゆく状況を想定しつつ、瞑想してみるのもいいかもしれません。

死が身近にある人は、きっと意識的であるのがより容易になるのではないかと感じています。

瞑想は役に立つ

この年齢になって初めて、MRI の検査を受けてきました。そもそもどんな検査なのかは、それなりに色々聞いてはいたので、少々緊張気味で…。

何やら狭い空間に閉じ込められるだとか、やたらとうるさい騒音に悩まされるだとか、長い時間じっとしていないといけない等々。

あまりいいウワサを聞いてなかったものだから、しかも造影剤を血管に入れられての検査だったりするので、ネガティブな予想ばかり。

技師の人の話では、少しでも動くと映像がダメになってしまうとかで、えいやっ!という掛け声をかけてまで、腰の部分をキツく拘束されたのです。

その上、深呼吸するだけで微妙に動いてしまうので、深呼吸はやめて下さいとのこと。どうしろっていうの…。

じっとしていることと騒音は大丈夫だったのですが、呼吸が辛かったですね。それをなんとか耐えながらもしばらくした時のことです。

あれ、いつものあの瞑想の時にやってくる、セロトニンとβエンドルフィンの分泌ドバッがやってきてくれて、救われました。

突如としてゆったりした別世界気分。やっぱり普段の瞑想は役に立つのです。欲を言えば、もう少し早めに分泌して欲しかったけど。

でもかなり緊張していたので仕方ないのかもしれません。日頃から地道に瞑想に馴染んでおくことで、こんなご利益があるとは思っても見ませんでした。

もしかすると、死に直面するときでも瞑想は意識的でい続けるために役に立つのかもしれないですね。

ネズミちゃん捕物劇

2階の台所に置いておいた朝食用のバナナが、ネズミにかじられて悲惨な形状になっていたのが1ヶ月前くらいですか。

そのあと台所のあちこちにねずみ取りを仕掛けておいたのですが、それを嘲笑うかの如く全く無駄骨だったのです。

そして年をまたいだ今日になって、下の階にいる老いた母親から不気味な生物を発見したと、恐怖と不安の通報を受けたのです。

それで、ネズミちゃんが2階の台所から1階の台所へと場所を移したらしいことが判明。これはチャンス到来。

すかさず家人が、狭い1階の台所のいたる所に強力粘着のねずみ取りを設置して様子を伺っていました。

しばらくすると、再び母親の恐怖に怯えた声が聞こえたので、急いで階下に降りてみると、見事にネズミが粘着ベタベタにかかっていたのです。

よしよし良くやったと思って近づいてみると、それほど大きくもない身体のネズミが身をよじって悲鳴をあげているのです。

何だか可哀想になったのですが、家人から早くやってしまえと催促されつつ、一瞬つぶらな瞳と目が合ったような気がしたのですが…。

それを無視して、その粘着ベタベタ板をギューと二つに折りまげて、ネズミは潰されてもう鳴くことはありませんでした。

何一つ悪さをしていないネズミなのに、こちらの都合だけで殺されてしまうなんて、ホントにひどい話です。

できることなら、次は人間に潰されずに生きていけるような動物に生まれ変わって欲しいですね。

観照者としての練習

完全な観照者となって、ただ見ることを実践しようとするなら、きっと全ての記憶との断絶が必要となるのでしょう。

あるがままをただ見ることがどうしてそんなに難しいのかというと、私たちはこれまでに溜め込んだ記憶や作り上げた概念と照らし合わせる習慣があるからです。

目から入ってきた生の視覚情報を元に、自分なりの照らし合わせや判断などが自動的に付加されてしまい、その後にようやく見たと自覚するのです。

そのためにあるがままに見ているという自覚であっても、もうその時にはありとあらゆる認識回路(後処理)を通過した後なのですね。

そこをどうやって切り離すのかを考えてみたのですが、どうもその回路は一つではないようですね。

いくつかの回路が重ね合わさって機能している感じがするのです。最も原始的なものであれば、物体の形を認識する回路。

その次には、たとえば概念化する回路が働き、一番最後には個人的な記憶との連携をする回路があるでしょうね。

このほかにも色々とありそうですが、とにかく細かなことは置いておき、できるところから練習するしかなさそうです。

そしてもちろん見ているときには、同時に見ている自己にも意識を向け続けることを忘れてはなりません。

あなたの中にある信頼を見出す

もしもあなたが闘っているのなら、そこには信頼がないのです。信頼がないと、どうしてもそこに不安があるのです。

その不安から逃れようとして、安心したくて闘うことになるのです。ところが、闘っても闘っても安心は決して定着してくれません。

またすぐにいつもの不安の中へと戻されてしまうのです。だから、死ぬまでずっと闘い続けることになるわけです。

鍵となるのは、信頼なのです。その信頼が欲しくて、何かを信じてそれにすがりついてしまうと、人は盲目になります。

そうなると、そこには執着心が芽生えて、今度はそれを失う不安がやってくるのです。

そうやってまたしても元の不安の中へと投げ込まれることになるのです。信頼は外に求めるものではないと気づくこと。

信頼とは深い深い理解からやってくるのです。すべては束の間の真夏の夜の夢だということに気づくこと。

あらゆる快も不快も、痛みも苦しみも、喜びや感動もやってきては去っていく、一瞬の幻なのですね。

死につながるような深い瞑想の中で、思考から解放された静寂と一つになることで、信頼すらも消えていく中で、自己も何もかも溶けていくのですね。

この現象界は夢のようなもの

真の意味での全体というのは、個別のものの集まりではありません。これが分かると、いつもここで言っている全体性のことが分かると思います。

全体性とは個別性が消えた世界のことを指すのです。だから「無」と言ったり「空」と呼んだりします。

つまり、個別性が無いということです。無いのですが、そこからはいつでも個別性が現象として現れる可能性があるのです。

そういう意味では、全体性と個別性を非二元と二元と言い換えてもいいということが分かりますね。

ただしそれは本質的なことではなくて、私たちの思考によってそんなふうに思えるということです。

この現象界を二元性と捉えるのは、思考によるものだからです。そしてその思考自体も、個別にあるものです。

全体性や非二元の世界とともにあるのは、あなたの意識のみです。だから意識だけが「無」とか「空」と呼べるものでもあるのですね。

こんなことをぼんやり感じていると、いかにこの現象界が夢のようなものだということが分かります。

時間は限られている

私たちは価値あるものに惹かれる習性を持っていますね。いろいろな種類の価値があるのですが、最もわかりやすいのは希少価値です。

少ないものには価値を感じるし、逆に沢山あるものにはそれほど価値を感じないのです。実際ダイアモンドの価値は光沢の素晴らしさだけではないのです。

それが希少だからですね。道端に落ちている石ころのように、そこらじゅうにダイアモンドが転がっていたら、どれほど綺麗でも価値は極端に下がってしまいます。

時間もそうです。まだまだ死なないと思い込んでいる人は、いつかやってくる死までたくさん時間があると思うので、時間に価値を感じないのです。

けれども、残された時間は短いとなったら、急に一日一日が貴重に感じられて、無駄に時間を潰すなどできなくなるのです。

文字もそうですね。こうしてキーを打つことでいくらでも文字を使うことができると思うので、適当な文章でもアップしてしまうのです。

これが、あと1千文字しか打てないとなったら、1文字が貴重過ぎて雑な文章は書けなくなるでしょうね。

言葉もそうですね。誰かにかける言葉や態度も、後もう少しだとなったら怒ったり、相手を否定したりすることはできなくなるはずです。

残りはもうわずかだとなった時、全てがキラキラと輝いて見えるのは、何もかもが貴重で大切に感じられるからなのですね。

だったら時間は限られているということを、誰もが忘れずに今日を生きることができたらいいのになと思うのです。

自然と怒りは遠のく

いつもイライラしていたり、ちょっとしたことで腹を立てたり、何だか常に怒りモードの人がいますね。

それは決して怒りっぽい性格だからではありません。そんな性格など元々ないのですから。

それは性格ではなく、ただその人が闘いの中で生活しているからに違いありません。戦闘モードにいるということです。

戦い続けるためには、必ず敵が必要になるのです。だからその人の周りにはいつも敵がいるのです。

敵が敵であるためには、本人の意向に沿わないものでなければならないため、必ず怒りが出てくるわけです。

もしも戦闘モードが少しでも緩んできたら、本人もびっくりするくらい心が穏やかな状態になるはずです。

怒りの始末に困っている人は、このことに気づけばいいのです。まずは、闘っていることにしっかりと気づくこと。

少しずつ白旗を挙げることを覚えていけば、自ずと怒りモードも沈静化していくのです。そこに努力など不要なのです。

やってくる怒りを抑えようとすることをやめて、代わりに闘いをやめていくことができれば、自然と怒りは遠のいてくれるのです。