「見る」ことで思考から離れる

意識的であるということは、まさに今この瞬間に注意を向けているということです。それこそが、「見る」ということですね。

厳密に言ってしまえば、1秒前のことであってもそこに意識を向けるなら、それは「見る」ことにはならないのです。

「見る」ことの本質は、過去や未来といった時間的な広がりのないものだからです。時間は必ずそこに思考が介在するからです。

「見る」ことの真髄とは、思考から完全に離れていることなのです。だから「見る」ことは、瞑想と同じだとも言えますね。

瞑想というと、そのための時間を作って、その間は何もせずにただじっとして静かに目を閉じている、そんなイメージがありますね。

けれども、「見る」ことはそんな時間を作る必要すらありません。いつどんなときにでも、その瞬間を「見る」ことは可能だからです。

毎日数時間も瞑想ができる人であっても、「見る」ことはできないかもしれません。なぜなら、瞑想が終わった時に普段の状態に戻ってしまうからです。

瞑想の習慣をつけることも大切ですが、「見る」ことの方がお手軽で、普段の生活の中に組み入れることができるのですから、やらない手はありません。

できてもできなくても、「見る」ことを忘れないことです。時間はかかっても、少しずつなにかが変わってくるのを実感できるときがくるはずです。

情と愛情と愛

情に厚い人というのがいますね。基本的には、いい意味で使われることが多い気がしますが、誤解を恐れずにいうと少し危ない感じもするのです。

自らの情を優先するあまりに、とかく「良かれと思って」行動することが多いのではないかと思うのです。

反社会的な勢力の人たちは、「義理人情」をとても大切にすると聞きますが、そういうのも同じ類です。

情は愛ではありません。自分の情を最優先してしまうと、相手の気持ちを無視するようなことになりがちです。

だから、人と人との境界線が曖昧になってしまうことも多いのです。自分は決して悪くないという土俵を作って、結果として相手の領域を犯したりすることになるのです。

情に厚いのが好きな人に向かえば、愛情になるのです。自分が子供にしてあげたいことをせっせとするのは親の愛情であって、決して愛ではないのです。

された方も、相手に悪気がないことは分かっているのでむげに断れないという構図があるわけです。

愛は何かをするというよりも、相手を尊重して相手の気持ちを受け止めることが主なのです。だから自分と相手がいつも対等になるのです。

情を中心に生きている人は、こうしたことを何度言われても分からないかもしれないので、一緒にいる場合には注意が必要です。

なぜなら、情で動けば自己満足に陥ってしまい、場合によってはパワハラを起こすことにも繋がるからです。

信念から距離を置いて中立でいる

憶えておきなさい、これは生でもっとも重要なことのひとつだ。もし固定観念、固定した態度で探求を始めたら、あなたはかならずそれを見出す。そうなったら悪循環だ。それを見出すとあなたは考える、「私が発見したんだから、もちろんそれはある」と。そうなると、それはあなたの信念をさらに強化する。

by osho

もしもあなたが、何かを信じるタイプの人であるなら、↑上に書いてあることを十分に注意する必要がありますね。

信じるということは、信じないということと同じだけの執着がそこにあるのです。信者になれば、誰かの言葉を鵜呑みにするし、誰かの信念に盲目になるのです。

信じることで、信念が入り込めば、外の世界を見る時には必ずその信念を投影することになってしまうのです。

たとえば、あなたがイエスキリストを神の子として信じるなら、瞑想している時にイエスの言葉やマリア様の姿を目撃してしまうかもしれません。

そうなったら、悪循環が開始されます。自分が見たものを信じることで、初めの信念はさらに強固なものへと変化するのです。

そうなったら誰が何と言おうが、その信念から抜け出すことはとても難しくなってしまうでしょうね。

初めに戻って、信じたり信じなかったりすることから離れていることです。どちらでもないという態度でいられるようにすれば、信念からも解放されるはずだからです。

信念はマインドを硬直させて、正しさに依存する人生になってしまうのです。どんな信念からも距離を置いて、自由でいる練習をすることですね。

想像は思考ベース

「想像をはるかに超える」という言い方がありますが、思っていたのとは比べ物にならないくらいだということです。

私たちは、現実というのは自由にはならないものですが、想像であれば完全に自由だと思い込んでいます。

宝くじに当選する想像もできるし、憧れの人と結ばれる想像だってできるからですね。けれども、自分の本質についての想像はできません。

想像、イマジネーションをどれほど逞しく活用しても、それは不可能なことなのです。なぜなら、想像とは思考がベースにあるからです。

だから思考の届く範囲でしか想像することはできません。本質とは思考の外にあるものなので、決してそれを想像することはできないのです。

それよりも、心静かにしてマインドが緩んだ状態でやってくるものに耳を澄ましてみる方が、少しは本質に近づけるような気がします。

慣れてくると、それほど時間をかけなくても本質である無を感じることができるようになります。

このような練習を常日頃からやっていると、いざという時に非常に役に立ちます。何かに囚われたり、冷静ではいられない状態になったときに効果を発揮します。

そしていつでも自分の本質に近づくことができると分かれば、感情的な自分は外側だけだと気づいて、奥ではゆったりしていることができるのですね。

死は重荷を解放する

死は偉大な友人だ、それはあなたから重荷を取り除く。それは、あなたが蓄えてきたあらゆる重荷を取り除く。ひとたびこの重荷からの解放を自ら進んでゆるせば、死はサマーディとなる。もしあなたが自ら進んでゆるさなければ、死はサマーディではなく、痛みとなる。

by osho

人生の中で、誰もが何らかの重荷を抱えて生きています。それらの重荷というのは、誰あろう自分自身がこしらえたものです。

自分のマインドは負荷が必要なのです。それがなければ、ひとまとまりの存在であることを保てないからです。

それはちょうど、バラバラだった家族が災害などが起きて一致団結して、一つにまとまるようなものです。

だからそれなりの重荷はどうしても必要なのですが、それでも一方ではその重荷を肩から降ろしたいと思っているのも事実です。

生きている限り、つまりマインドがある限りは重荷がなくなることはありません。だとしたら、死こそが唯一の救いだということになります。

実際、死ぬことであらゆる重荷から解放されるのです。勿論一緒にマインドも消えていくのですが。

私自身、何があろうとも最終的には救われると感じるのは、死、あるいは無を連想するからです。

死は瞑想の時と非常に似ています。瞑想は一時的にであれ、自分の本性は無だということに気づかせてくれるのです。

生きている間に、死のフレーバーを感じられる人は幸運だと思いますね。

中道こそ非二元

行為者、自我という現象、これが自然を失い、自然から離れてゆく。やがてあなたは、息苦しさを覚えはじめるほど遠くへ行ってしまう。あなたの存在に分裂症が生じるほど遠くへ行ってしまう。あなたの周辺は中心から離れてばらばらになりはじめる。それが回心の地点、宗教が的を射たものとなる地点だ。

by osho

両極端という言葉がありますが、実は片側だけの極端にずっと居座ることは不可能なのです。

それはマインドがもちません。崩壊してしまうのです。やじろうべえの片一方の手だけが長ければ、均衡を保てずに倒れてしまうのに似ています。

言葉で表現してしまえば、どちらでもないというのが非二元ということで、それこそが完全なる真ん中を意味するのです。

少しでも中心からはずれれば、これまたやじろうべえのように、次の瞬間にはもう一方の方へと傾くのです。

そうやって両方の側へと繰り返し傾くことで、均衡を保つことになるのです。私たちのマインドも同じこと。

自己防衛によって、中心からずれてしまえば、いずれはその逆方向へと向かうことになるのです。

その揺れを繰り返すことで、いつまで経っても中心に戻ることができません。マインドが消えた時に初めて、ど真ん中に戻ることができるのです。

それをブッダは中道と呼んだし、別の言葉で表現すれば非二元ということになるのですね。

人生何が起きるか分からない

天気予報を観ていたら、全国各地の最高気温の中で一番低い温度だったのが那覇だったので、驚きました。

こんなことになるとは、まったく思いもよらないことですから。けれども、人生というのはそんなものかもしれません。

こうなるだろうとか、こんなことは起きるはずがないと勝手に思い込んでいるからこそ、びっくりするようなことが実際に起きるのです。

ごくごく平凡な会社員のままで終わるのだろうと思っていた自分の人生が、気がつくと今のようなことになっているのも、ある種驚きなのです。

自分の人生をきっとこんなものだろうと決めつけるのは、あまり得策とは言えないのです。そもそも予想したところで、明日のことは分からないのですから。

だからといって、明日何か物凄いことが起きるかもしれないと言っているのでもありません。それはそれで、余計な期待が生まれるからです。

毎日淡々と、というのが生きる極意なのです。そして、起きたことは何であれそのままに受け入れることができれば、いいも悪いもないと気づけるのですから。

そうすると、自然と今日が愛おしく感じられるようになるかもしれません。何が起きても、何が起きなくても、どちらもOKということですね。

熱中すると無意識になる

最近では滅多にやらなくなったのですが、たまたまフェイスブックの宣伝で見かけたゲームが面白そうだったので iPad でやり出したら止まらない。

暇に任せて何時間でもやり続けることができるのです。気がつくとすぐに3時間くらい経過していて、びっっくりしてしまうのです。

そのゲームをやっていると、何かを食べたいという衝動も消えてしまうので、身体には悪くないですね。

自分ではすごく集中してやっているという自覚はないものの、時間感覚が変化するのでそれなりには集中してるのかなと思うのです。

それではっきり分かったのですが、何かに没頭するとか集中しているときというのは、雑念は消えてしまうものの、一方では無意識的になるということです。

思考に悩まされているなら、集中することは非常に良い解決策ではあるのですが、集中している自分に意識を向け続けるのはなかなか難しい。

以前好きなテレビ番組を観ながら、意識的であるということをやっていたときにも、かなり難しいということは体験していたのです。

ゲームに集中しているときには、テレビを観ているときよりも更に集中度が高いからなのか、すぐに無意識になってしまうようなのです。

ゲームに熱中している自分に気づいている練習、今日はこれをしばらく続けてみようと思います。

結果は大体予想できるのですが、きっとゲームがつまらなく感じてやめてしまうのだろうと思いますね。

だからゲームをやめられない人にもおススメです。

幸不幸からの脱脚

人生には浮き沈みがつきものですね。上昇しているときにはバラ色に見えるし、下降しているときには灰色に見えるのです。

私自身も経験があるのですが、嬉しくて心が軽やかなときには本当に周りが明るく見えるのです。瞳孔が開いてより多くの光を取り込むのでしょうね。

だから明るくバラ色っぽく見えるのですが、一方で落ち込んでいるときには逆に瞳孔が閉じて光が入ってこないため、いつもより暗く灰色に見えるのです。

内面の状態が肉眼に直接影響するために、見え方が変わってしまうというわけです。このようにして知覚を変化させてしまうのは、思考なのです。

自分の身に起きたことをどのように思考で捉えるのか、それによって世界が違って見えてしまうのです。

ということは、もしも思考に飲み込まれずにいられるとしたら、人生がバラ色になったり灰色になったりすることもなくなるということです。

私たちは「身に起きることが幸不幸を作る」と決めつけているのですが、それを決めているのは単に思考だということです。

自分は惨めで不幸だという思考を使わずに要られるなら、この世界から不幸な人はいなくなるはずです。

あるいは、自分は願いが叶って幸福だという思考も使わずにいるなら、自分は幸福だと思う人もいなくなるのです。

幸不幸からの脱脚は誰にとっても原理的には可能なことなのです。これが最大の救いだと思いますね。

「私がいる」という思考

心のなかに何かがあるということは、光明を得ていないということだ。心のなかになにもないことが<光明>を得ることだ。心のなかに光明があるなら、あなたはまだ光明を得ていない。心のなかになにもないことが<光明>を得ていることだ。それを憶えておきなさい。

by osho

つまり、<光明>を得るという言葉は方便に過ぎないということです。心のなかに何もないときに、何かを得るなどということはできないのですから。

<光明>を得たい、つまり覚醒したいというのがれっきとした一つの欲望であることは間違いないことです。

内面にどんな種類の欲望もなくなってしまったとき、初めて<光明>を得た状態になるということですね。

欲望がないということは、欲望なしには存続できないマインドが消えてしまったということなので、一般的には想像もつきません。

もう少し正確に言えば、マインドの奥底にしっかりと根付いている「私」という思考、その思考をつかわなくなることです。

たったそれだけで、欲望は消えてしまうはずなのです。なぜなら、欲望は分離した「私という自己」という思考から派生して作られる思考だから。

思考が別の思考を作り出すという無限の連鎖によって、マインドは営まれているのです。だからマインドという実態はないのです。

自分はどんな欲望を持っているのか、深く探ってみることは無駄ではないと思います。その要望の真下に「私がいる」という思考が隠されているのですから。