マインド主導からハート主導に

もうひとつ別な次元のエネルギーがある

それは動機づけされざるお祝いという次元だ

その目的地は<いま>と<ここ>だ

どこかほかのある場所じゃない

実際には、あなたが目的地なのだ

実際には、この瞬間よりほかにどんな完成もない

by osho

私たちは、過去の自分、過去の出来事、過去の感情等々、つまりあらゆる過去に対してそれを認めていないと、その分だけ未来への期待が強まるのです。

過去に納得していなければ、過去に沢山の我慢を強いてしまえば、それだけ未来でその埋め合わせをしようとするのです。

簡単に言えば、過去のマイナスの分だけ未来がプラスになるようにと願うと言うことです。

こうなれば、もう人生はマインドが主導権を握ることになるのです。なぜなら、過去と未来は思考の産物だから。

思考の塊であるマインドが、活躍する舞台が出来上がるというわけです。けれども、私たちは常にこの瞬間にのみ存在しているのです。

存在できない世界に生きようとすれば、妄想の世界をさまようことになってしまいます。目的というのは必ず未来のもの。

今この瞬間というのは、まさに動機づけされざるお祝いなのです。自分が今いる場所で生きるには、マインド主導からハート主導に代わる必要があるのですね。

自然が作った黄金色

少しだけ足を延ばして、普段通らない道をクルマで走っている時に、ふと見かけた脇道に不思議な違和感を感じたのです。

それは、その脇道の地面が黄金色に染まっていたからです。そこには、目を見張るほどきれいなイチョウ並木があったのです。

イチョウの葉っぱがたくさん散って、道路を埋め尽くしていたので、それが目に留まったのですね。長さにして100mくらいあるのでしょうか?

思わずクルマから降りて、しばらくそのイチョウ並木の中をゆっくりと鑑賞しながら歩いてみたのです。

それは大きな団地の中にあって、小さな女の子の姉妹とお母さんがそこで戯れていただけで、それ以外の誰にも見つからない風情でひっそりしていました。

とても静かで、人影のない黄金色の中を歩いていると、別世界に迷い込んだようになりますね。

色というのは、ハートに大きなインパクトを与えることができるのです。そして自動的にマインドの働きを最低レベルに落としてくれるのです。

オートマチックに瞑想へと誘ってもらったようなお得感がありますね。やっぱりマインドは自然の力に圧倒されてしまうようです。

常に在るもの、それがあなただ

あなたは自分の起きている世界を忘れ

自分の夢の世界をも忘れる

朝、ふたたび起きている世界がその存在を現わす

あなたは、あなたの夢と眠りを忘れ去る

だがひとつだけ

絶えることなくそこにい続けるものがある

あなただ

by osho

これが自分だと思っているものを一つずつ剥ぎ取って行くと最後はどうなるのかを試してみたことはあるでしょうか?

自分の身体、自分の考え、自分の体験、自分のマインド、このような自分の◯◯と言うことのできるあらゆるものを脇に置いて行くのです。

そうして残ったもの、それが自分の本質だとしたらそれは一体何でしょうか?もうそれ以上自分の〇〇と言えなくなるところ。

それは生まれたり消えたりすることのないもの、つまり絶えることなくそこにい続けるもの。

あえて表現すれば意識とか、気づきということになるのでしょうね。意識というのは覚醒している状態のことです。

ここで一つ気をつけなければいけないことがあるのですが、「自分の意識」と言うこともできるのでは?と思うかもしれません。

ここが思考の限界なのです。意識は自分に従属するものではないということへの気づき自体が意識なのです。

意識が広大無辺の大空のようなものだとすれば、思考はその中を流れる雲だと思えばいいのですね。

 

カルマは思考の中にのみある

カルマを満たすそんな必要はどこにもない

あなたがただ醒めるということだけで

突然すべてのカルマははがれ落ちてゆく

ただ一瞬の強烈な覚醒のもとに

すべての過去は消え失せ、ごみくずと化す!

by osho

カルマというのは実在するものではなく、思考によって創り出された物語の中にのみ存在するものなのです。

完全に目醒めるということは、思考から100%離れる状態を指すのですから、当然のごとくカルマは消えてしまうのです。

ただ思考の中にどっぷり浸かってしまっている私たちにとっては、思考が生み出した感情のエネルギーの力に負けてしまうのです。

恨みつらみ、憎しみ、嫉妬、憎悪といったやっかいなエネルギーは、それを癒さなければなくなることはないと感じてしまうのです。

その感覚がカルマという面倒な仕組みを考案するのです。そうなってしまえば、カルマは絶対的な力を持っていると感じてしまうでしょうね。

凝縮した思考が緩んでほどけてくると、あらゆる過去と未来も同時に希薄になって行き、時間の流れがなくなるのですからカルマも消えて当然なのです。

もしもカルマありきでさまざまな教えを説くような宗教があるなら、そこには近寄らないことですね。

自分の単純な存在を楽しむ

瞑想が成就されないかぎり、愛は惨めなままでありつづける。ひとたびあなたが独りで生きるすべを学んだら、ひとたびあなたが、いっさい何の理由もなく、自分の単純な存在を楽しむすべを学んだら、そのときには、二人が共に在るという、もっと複雑な問題を解く可能性がある。

by osho

私たちが日頃よく知っている愛というのは、誰かと一緒にいたいとか、誰かのことを思うと心がキュンとするといった類のものです。

そのような愛というのは、エゴの愛であって、与えるのではなく貰おうとする特徴を持っています。

一緒にいて欲しいとか、◯◯してちょうだい、つまり自分の外側にいる誰かによって足りないものを補ってもらおうとしているのです。

その愛はいずれは虚しい結末を迎えることになります。瞑想というのは、外側のもので満たそうとする代わりに、ただ今ある自分のままで満ちていることに気付くこと。

つまりは、自分の単純な存在を楽しむことができるなら、エゴの愛は次第に本物の愛へと変化して行くということです。

簡単に言ってしまえば、独りでいてそれを楽しめるようになれば、二人が共にいる時の状況が変わるということです。

互いに相手を必要とするのではなく、生を分かち合うというようになるのです。そうなったら、独りでいるよりもさらに互いの愛が溢れてくるようになるのでしょうね。

すべては消えゆくもの

死ぬ前に自分の人生を振り返った時に、どのような思いで死にゆくのが理想でしょうか?

いろいろあったけど、全般的には満足のゆく人生だったと思いたいのか、それともうまくいかない惨めで虚しい人生だったと後悔したいのか?

それは勿論前者の方でしょうね。人生の最期に悔やみながら死んでゆくのだけは避けたいですから。

けれども、実は前者の方にしても、何かと比較してまあまあいい人生だったと言っているだけなのです。

そうやって都合のいい面ばかりに着目しているだけであって、より幸福そうな人の人生とは比較しないでいるだけだとも言えるのです。

本当に大切なことは、人生がどうだったかと振り返るのではなく、人生とは思考が作った作り物でしかなかったと気付くこと。

この気づきが死ぬ前に得られるなら、人生を振り返ることはなくなるのです。それはちょうど、目覚めた後に夢の内容がどうであれ気にならなくなるのに似ています。

今この瞬間、あなたの人生がどんなものであれ、すべては完全に消えゆくものでしかないのですからね。

あくる朝旅立つ前に

私たちの真の家は心ではない。心は旅の宿にすぎない–夜の宿、一夜の宿にはふさわしい。が、朝になれば私たちは行かねばならない。心が創りだすのは夢だけだ–どうして夢があなたの真の家でありえよう?心が創りだすのは欲望だけだ–欲望のなかで、どうして生きることができよう?

by osho

この人生が一夜の宿だとしたら、その一泊を終えた次に来る旅は一体どんなものなのでしょうか?

それは残念ながら、宿に泊まっている晩のうちに知ることはできないのでしょうね。なぜなら、あくる朝目覚めるまでは夢の中だからです。

たった一泊の宿だとは言え、不快な宿よりは快適な宿で過ごしたいものです。それを決めるのは、あなたのマインドの状態なのです。

マインドが欲望の塊であるなら、その欲望が惨めさを表現した夢を創り出すからです。欲望と惨めさとは、互いに増幅し合うように作用するのです。

そういった連鎖を止めるためには、まさしくこの人生が一夜の宿だということを見抜くしかないのかもしれません。

旅の途中に一夜の宿に泊まっているのは誰なのか?私たちが一生と感じるこの人生を一泊として見る存在とは?

それを思考で捕まえようとするのは無理なのです。その反対に、思考で出来たこの宿、この人生を包含する何かを体感することです。

沈黙してそこに意識を向けつつ…。

過去のエネルギーを解放する

もしもあなたが思い出したくない過去を持っているとしたら、その過去を引きずっていると認識することです。

過去はもう過ぎ去ってしまったものであり、実在しないものだからわざわざ思い出す必要もないという理屈は、的を射たものではありません。

なぜなら、過去はもうない、過去はどうでもいいと思っているのなら、思い出すことも苦にならないはずだからです。

どうでもいいと思っていないから、まだわだかまりが残っているからこそ思い出すたびに傷が痛むのです。

そこに何らかのわだかまりがあれば、ネガティブな感情のエネルギーの蓄積があるということを示しています。

それを放っておいて、現在の自分だけが新しい未来へ向かって生きていこうとしても、必ず足を引っ張られることになるのです。

あなたにとって、過去がまったく意味のないものになるためには、過去を見直すことが必要なのです。

マインドのことですから、完全にクリーンになることはないのですが、それでもそこそこ過去のどの場面であれ見ることによって、過去に囚われることが少なくなっていくのです。

これまで培ってきた生き方を変えて行く練習をするのと同時に、過去に残してきたネガティブな思いも少しずつ解放してあげることは大切なことなのですね。

信念も正しさも固定観念もいらない

ほんとうに生きている人は、ただ生き、流れ、呼応できて、敏感で、臨機応変だ。彼は、あるがままに生きる。彼は鏡に似ている–固定観念を持っていない。出会うものが何であれ、そのすべてを、その真実を、その真の姿を映しだす。

by osho

↑こういう人は、信念、信条、正しさ、固定観念などをほとんど持っていないのです。だから側から見ればいい加減な人と映るでしょうね。

明らかに気楽で、未来への不安を抱え込んでいたりしないのです。もしかすると、言うことやることに一貫性がないこともあるかもしれません。

けれどもそれは、その時々に正直に呼応しているだけのこと。それこそが流れの中であるがままに生きている証拠。

一般的には適当で我儘に見えるかもしれないという特徴があるのです。それが反感を買う結果になったりもして。

しっかりしなければとか、ちゃんと生きないとと思って頑張っている人からは、眉をひそめられるかもしれません。

そして非常に敏感な感性を持っているのも、こういう人の特徴なのです。また偏りのないバランスの取れた人。

ちょうどど真ん中の生き方、それを中道とか中庸というのですね。もしも自分が自由に生きていないという自覚があるなら、その原因は防衛からくることに気付くこと。

自分の生き方を点検してみて、どんな防衛を続けてきたのかをしっかり見つめてみることです。

そして少しでも、上のような自由で柔軟な生き方になるように練習していくことですね。

精神状態に見合った現実がやってくる

もしもあなたがある目的地に向かって歩いている時に、次のどちらかの道を選択するとしたら、一体どちらを選ぶでしょうか?

一つは、近道ではあるけれど狭くて人通りが多くて歩きずらい道、そしてもう一つは少し遠回りではあるけれど人が少なくてゆったりとした景色のいい道。

それは勿論、あなたの精神状態に左右されるでしょうね。もしも忙しくてイライラしているときだったら、きっと前者の道を選ぶでしょう。

そして、気持ちにゆとりがあって落ち着いている時なら、後者の道を選ぶ可能性が高いのではないかと思います。

どちらを選択しようと、そこには当然正解はないわけですから、臨機応変に選べばいいだけです。

けれどもここで気づくべきことは、あなたの精神状態に見合った現実を選んでしまう、あるいは見合った現実がやってくるということ。

イライラしていれば、イライラするような環境を選び、穏やかな状態であれば穏やかな気持ちにさせてくれる環境を選ぶ(やってくる)ということです。

それなら、今日一日気持ちいい環境にやってきて欲しいのであれば、前もってそれに見合った精神状態にしておく必要があるということ。

自分に強いる必要はありませんが、無理のない程度に意識的に自分の気持ちをいい方向に持っていくようにすることは、とても重要なことなのです。

是非試してみてください。