知らないモノへの反応に注意する

私たちのマインドというのは、内部分裂することでその均衡を保っているとも言えるのです。

たとえば、この人と結婚したいという思いがあれば、同時に結婚したくないという真逆の思いも持っているのです。

ただしそのことに気づくことができるかどうかは別の話しです。この人を好きだと思えば嫌いもついてくるのですが、気づけないことがほとんどです。

知らない事柄に触れると、それに好奇心を刺激されることもあるし、反対にそれを毛嫌いすることもあるのです。

知らないモノや人に接して好奇心や冒険心が起きるのであれば、マインドの中の防衛は小さい状態だと言えます。

一方で、知らないモノや人に触れて、それを毛嫌いするのであれば、防衛が大きい状態なのです。

食べたことがない食べ物が出された時に、興味を持って一口食べてみるのは無防備であり、得体の知れないものは食べたくないと思うなら、それは防衛です。

食わず嫌いなどと言われるのがそれですが、私は大抵食べ物に関してはそちらの部類になります。

知らないモノや人に触れてどちらの反応をするのか、よく自分のマインドを観察してみるといいと思います。自分の防衛の特色に気づくはずですね。

マインドこそ唯一不自然なもの

この世界はすべてが自然の法則で成り立っているのです。天体であろうと、生物であろうと違いはありません。

ところが、唯一不自然なものがあるとしたら、それは私たちのマインドなのです。マインドは不自然極まりないのです。

それはマインドが大変な勘違いをしているからです。ちなみに、生物全般が持っている防衛本能というのは自然の一部です。

種を保存するために機能するのですから。けれども、マインドだけが行う心理的自己防衛というのは、自然の法則から逸脱しているのです。

なぜなら自然界には存在しない個人というものを防衛しようとするからです。人類の戦争の歴史は、すべてそれが原因だと言っていいと思います。

マインドが個人というものを考えだし、それを個別に守ろうとすることで争いが起こるのです。

個々のマインドはそれぞれが別の世界を見て、その中で暮らしているのですから、それらが重なったところで軋轢が起こるのは当然のことです。

どれほどの人格者がどれほどの知恵を出し合って、人類から争いを無くそうとしたところで、本質的には難しいのではないかと感じます。

根本的には不自然なことを信じてしまったマインドから離れることでしか、人類を救う道はないのかもしれないですね。

対等な関係性は気持ちいい

私たちみんなが自我と自己同化しているのですが、その自我の存在は人との関わりの中にのみあるのです。

つまり自我は、個人としての中心に居座っていると思いがちですが、実は人との関係性、コミュニケーションによって生きているのです。

だからコミュニケーションを楽しく感じられるのか、それとも不快なもの苦手なものとして感じられるのかは重大な問題なのです。

もしも、幼い頃に怖くて喋りづらい親がそばにいたら、あるいは話が噛み合わない親がいたら、その子供はきっとコミュニケーションを嫌なものと感じるようになるはずです。

子供の頃というのは、一家団欒が好きなのです。それは家族みんなが揃って何かしら楽しくお話をし合うからです。

子供はそうしたことを繰り返すことで、コミュニケーションは楽しいものだと身体で覚えていくのです。

人との会話は楽しいものだと思って育つのと、会話は苦手で不快なものだと思って育つのとでは、全く違う人生がやってくるはずです。

大人になってもコミュニケーションが苦手だと感じるなら、それは子供の時の体験にまだ支配されているということです。

それは能力の問題ではなく、過去の体験を握りしめて防衛し続けているからだと理解することです。

そして癒しを進めていく中で、人との対等な関わり方を覚えていくことで、コミュニケーションは楽しいものだということに気づくはずですね。

本質に目覚める

OSHO の言葉で次のようなものがあります。『最初で最後のステップは、自分が誰であるかを知ること、目覚めることだ。』

最初で最後のステップとはどういう意味でしょうか?人は、跳躍する時が来ると言っているのです。

その大切な跳躍はたった一回だけだと。何度もするようなものではないということですね。

なぜならその一度の跳躍で、唯一の目的が達成されてしまうからです。目的という言葉を使えばのことですが。

段階を踏むものではなく、一度の跳躍によって完全に目覚めてしまうと言っているのですね。

自分の本性に何となく気がつくなんてことはないのです。人間として生きるか、あるいは目覚めてしまうかのどちらかしかないのです。

これも方便ですが、私たちの本質はこの現象界のものではないということ。あなたの本質はどこにもいない。

目覚めるとは、あなたの本質に目覚めるということですが、その時にはこの世のあらゆる物語は消えてしまうのでしょうね。

内側に敵を作れば自我は安泰

人類の歴史を見れば明らかですが、世の中には敵か味方かのどちらかしかいないのです。敵とは戦い、味方とは協力してやはり敵と戦うという具合に。

そしてもちろん味方とだけ一緒にいたいと願うのです。だから敵を排除するために戦いがやめられないのです。

ところが自我にとっては、隠された部分では敵がどうしても必要なのです。戦うことが自我の生きる原動力となっているからです。

この場合の敵というのは、何も人間だけではありません。困った事態や病気、あるいは逆境なども敵としてみなされます。

こうした敵というものは自分の外側にあるのが常ですが、たまに自分の内側に敵を作り出してしまう人もいます。

当然自我にとっては最も都合の良い状態なのです。なぜなら外部にわざわざ敵を見つけに出ていく必要がないからです。

お目当ての敵はいつも自分と一緒に一番近い自分の内側にいるのですから。こうなると、自我はその力が衰えてくる心配をしなくて済むのです。

内側の敵が目立った動きをしようものなら、あっという間にそれを叩きのめして深いマインドの奥に放り込んでしまえばいいのですから。

ただし一時的にやっつけられたはずの敵は、マインドの奥に潜伏しているだけで決して死んだりはしないのです。

逆に、またチャンスを狙っては復活して戦いを挑んでくるのです。だから自我はまた戦うことができ、これがエンドレスに繰り返されるというわけです。

もしも自我の勢力から解放されて、穏やかで清々しい人生を生きたいと願うなら、あなたが敵対視しているマインドの部分を受け止めることですね。

それ以外に方法はないと気づくことです。

自己想起リベンジ?

日常の快不快や人生の幸不幸を全て忘れて、ひたすら自己留意、自己想起に専念することを継続したらどうなるのか?

そう思うことはよくあるのですが、そこはどっこいなかなか実際には実践が伴わずに、ぐうたらした毎日が続いています。

きっとそれほど強い自覚はないのですが、本当は強烈にブレーキがかかっているに違いありません。

時間もお金も労力も何一つ必要ないのですから、今この瞬間からもできることなのに、なかなか本気になることができないのは恐怖があるからなのでしょうね。

以前似たようなことを実践し出してしばらくした頃に、まれに見る身体の不調がやってきてびっくりしたことがありました。

それからというもの、そこそこ無理のない程度にしかやらないようになったのも大きいかも知れないですね。

自分という実体はないのだと気づいてしまったらどうしようという、思考が作り上げた自分の恐怖なのでしょう。何だそれ?って感じですよね。

この人生にもっと絶望して、もううんざりだという気持ちがやってきたら本気になれるのかなあとぼんやり思っています。

ただ在ることで充分

若い頃というのは、自分の可能性をできる限り伸ばして何者かになろうと頑張るのです。それは社会的にはとても素晴らしいことだと言えます。

少しでも努力して、今の自分よりもより高いところへと向上しようとするのですから。それを向上心と呼びますね。

そうした日々の活動の中に、防衛の要素が入り込まなければ理想的ですが、それがなかなか難しいのです。

残念ながら多くの人にとっての向上心というのは、防衛の要素が多分に含まれてしまうので、何者かになろうとする毎日に自己犠牲が混ざってしまうのです。

自我の観点からではなく、真実の観点から見るなら、「成る」あるいは「成ろうとする」ことは真実から遠のくことなのです。

「成る」ことよりも「在る」ことに意識を向けることができるなら、向上心よりも本質的な何かに気づくことができるのです。

自我にとっての人生とは「何か」になることですが、十分に意識的であるならそんな必要はないと気づくのです。

在るがままの自己に意識を向け続けることで、ただ在ることで充分だということがわかるようになるのですね。

死はマインドにのみ訪れる

年齢を重ねてくると、若い頃には感じることのできなかった感覚がやってくることがあります。

それはややぼんやりとしたものではあるのですが、もう自分の視野の中に死というものが入り込んでくるということです。

死の影がちらついてくるおかげで、自分を見ることがより自然なこととして受け入れられるようになるのです。

まだ若い頃というのは、実現していない夢や希望がたくさんあるので、人生の主役、当事者として生きている必要があるのです。

そうなると、自分を見る、観照するというのは難易度が高いのです。瞑想するのも、より良い自分になって目標を達成するためなのです。

これ自体は決して悪いことではないのですが、本来瞑想というのは自分のマインドから離れるための練習なのです。

見ること、観照することも同様にマインドから離れるためなのです。こうしたことが、今日一日生きることのど真ん中に据えられるのも、年齢が関係しているかもしれません。

マインドを観照し続けることで、ちらついている死が実際にやってくるのはマインドに対してだと気づくのです。

観照者としての自己には、死が訪れることはないのでしょうね。

原因と結果をひっくり返す手法

この世界の法則と言ってもいいのですが、原因があってその結果が出るのです。因果応報と言ってもいいかもしれません。

そしてこの原因と結果の関係というのは、常に原因が先にあってその後に結果が続くという形を取るのです。

当たり前ですが、原因がなければそもそも結果は発生し得ないのですから。たとえば面白いことや愉快なことを体験すると、笑いがやってきます。

何事もないのに、ただ笑うことはできません。笑うためには、それなりの原因が必要なわけです。

ところで、結果を模倣するということはできますね。つまり、原因があって笑うのではなく、笑うということを肉体を使って形だけ真似るのです。

実はこれ、会社員の頃に帰宅途中のクルマの中でやったことがあるのです。何となく気分がすぐれないまま家に帰りたくなかったので、試しに大笑いするフリをしてみたのです。

最初のうちはぎこちない笑いだったのが、次第に本当に笑っているかのように大笑いできるようになったのです。

そうしたら何と、気分が少し爽快になってくれたのです。これはどうしたことか?要するに、原因と結果がひっくり返ったわけです。

笑うということが原因となって、気分が良くなるという結果がやってきてくれたのですね。

これはどうも他にも色々と使い道がありそうです。たとえば、欲望を減らそうと思ったところでそう簡単なことではありません。

であれば欲望が大きいという原因から起こる結果を見つけて、それを反対にして利用すればいいとわかります。

思いついたことは、欲望が大きいと人は緊張するのです。だから緊張するという結果を逆手に取って、リラックスを心がけるようにするのです。

リラックスすることが簡単にできるようになり、より深いリラックスを得るコツを掴んだならば、結果として欲望は小さくなるということになるのです。

なのできっと普段から瞑想などを生活の一部に取り入れている人などは、自然と欲望が小さくなっている可能性が高いですね。是非試してみてください。

ハートとマインドのバランス

胎児が母体から生まれ出てくると、まず初めに生物(個体)として生きていくために必要な感覚器官を発達させていくのです。

その感覚を司るのがハートです。肉体の発達とともにハートも開いていくわけです。ハートはただ感じるというピュアなものです。

幼いうちは、ハートと感覚器官をフル活用して見るもの触るものに感動しつつ、少しずつ外側の世界の情報に馴染んでいくのです。

そしてそれと並行して次にはマインドの発達が始まるのです。マインドは、人間クラブの立派な会員となって社会で生きていくために必要な仕組みです。

したがってマインドの主な機能は、人とのコミュニケーションをベースとした調和だったり、ルールの中で生きるために必要となるものです。

それは思考によって育まれていくのですが、マインドとハートというのは仲良くバランスをとって機能することが難しいのです。

ハートはいつも正直ですが、マインドは防衛するためには偽善者になることも少なくありません。

複雑な現代に生きる私たちの多くは、ハートよりもマインド優位で生活していることが常態化していると言えるかもしれません。

また子供の時に、ハートからマインドへと発達していく段階で、いつまでもハート優位のままであると、成長する過程において今度は無理にマインド優位になるように仕向けるのです。

マインドを無理やり優位にしようとすることが仇となって、逆にマインドの機能の発達が遅れてしまうことにもつながるのです。

私が思うに、一人で生きているわけではないので最低レベルのマインドの機能は必要ですが、なるべくハートに寄り添って生きる方が気持ちのいい毎日となるでしょうね。