ひねくれ頭

人類の文化的躍進のきっかけは、7万年前に起きた「脳の突然変異」だったという研究があるそうです。

ネット上で見つけた記事なので、読んだ方もいらっしゃるかもしれませんね。一応その記事の内容を信じるとすると、私としては物凄く興味深い内容なのです。

脳の前頭前野の発達を遅らせる突然変異が起きたおかげで、複雑な言語(再帰言語というらしい)を理解するようになったということです。

そのおかげで、実在しない「想像の産物」をほかの誰かに伝えることができるようになり、それが人類の文化的歴史の幕を開けることになったらしいのです。

イメージを相手に伝えるためには、前頭前野が十分に発達してしまう前に複雑な言語を沢山聴いておかなければならないのです。

もしも仮に3年間のうちに前頭前野が発達し終わってしまうと、イメージの伝搬をすることができなくなってしまうのです。

興味深いことに、ブラジルのアマゾン川のほとりには、ピダハン族と呼ばれる「再帰言語を話さない」狩猟採集民族が暮らしているのだそう。

ピダハン語には数や左右、色彩、それに性差の概念がない。彼らは実際に見聞きしたことしか話さず、架空の話はしないのだそう。

文法には過去や未来の概念もなく、“いま”を生きている。そのためか宗教をもたず、未来への不安もなく過去からの後悔もないのだそう。

ちなみにピダハン族は自らを「真っ直ぐな民」と呼び、外部の人間を「ひねくれ頭」と呼ぶのだそう。我々はみんな多分、ひねくれ頭ですね。

「選ぶ」を再考する

私たち人間の毎日の生活というのは、ずっと何かを選び続けることで成り立っているとも言えます。

朝目が覚めて起きようか、それとももう少し寝ようかを選択します。朝食は目玉焼きにパンか、それとも納豆にご飯にするか。

自粛規制が緩和されたらどこへ行こうか、それともまだまだ自宅待機をし続けるのか。あらゆることが選ぶことによって進行していくのです。

どうせ選ぶのなら、悪よりも善、不快よりも快、つまらないものよりも素晴らしいもの、無価値のものよりも価値あるものを選択したいものです。

ところで何を選ぶにしても、選ぶ主体であるあなたは自我だということを忘れてはなりません。

より良いものを選ぶ方がいいに決まってるのですが、選ぶ主体であるあなたが自我であるなら、何を選んだところで変わりはないということです。

セラピストである私は、クライアントさんに防衛(自己犠牲)よりも無邪気さを選んで下さいと言うかもしれません。

それは間違いではないのですが、いつかは理解しなければならないこと、それは選ぶことで自我は力を維持できるという事実です。

このことに気付くことができたら、何を選ぶかということよりも選ぶことそれ自体が少なくなっていくかどうかを見守ることですね。

真実と自我の混在

セラピストが行ういわゆる心理療法というのは、心の癒しが目的なのですが、そのターゲットとなるのは当然あなたです。

あなたがいて、これこれしかじかの過去を生きてきたということが前提となって、内面のキズだとか溜め込んだネガティブな感情などをみていくのです。

気づかずに抑圧してきてしまった様々なモノに気づいて、それを解放することで少しでも生きやすくなるようにしていくのが癒しなのです。

ですので私のホームページにあるコラムなどは、そのような目的のために書き下ろしたもので埋まっています。

ところが一方でこのブログでは、癒しの前提であるあなた(自我)が存在すること自体を否定するような内容も沢山混在しています。

ですので場合によっては、一体何のことを言っているのか皆目分からないということも起きるかもしれません。

あなたの本質は自我なんかじゃない、と言われてもピンとこないのは当然です。癒しの大前提がなくなってしまうからですね。

これは分かりづらいことを書いて、読者を煙に巻きたい訳ではなくて、物事の見方を変えてみることで意外な癒しが起きたりすることを期待しているのです。

私自身、自分(個人)という存在は単なるイメージなんだということを知ったとき、物凄く心穏やかになれたことを覚えています。

真実というのは、私たち人間がどれほどの高度な知恵を使っても、まったく到達することのできない領域なのです。

それは私たちは思考で真理を理解しようとするからです。こうしたことに気付くことは、自我の癒しにもいい影響を与え得ると思っています。

というわけで、わかりにくい内容になっている可能性があるのは承知の上で、このブログを書いていますので、読んでいて意味不明だなと思ったら自我のレベルの話しではないと思ってください。

自我のない動物は凄い

先日テレビの番組で観たのですが、あの可愛いニホンミツバチが、その10倍以上も身体の大きいオオスズメバチをやっつける方法が凄いのです。

天敵であるオオスズメバチが巣内に侵入すると、数百匹の働き蜂がオオスズメバチを取り囲んで「蜂球」を形成するのです。

そして彼らは一斉に身体の一部を振動させて発熱して、自分たちが死なずに済む温度でかつオオスズメバチが死ぬちょうどのところまで温度を上げていって、オオスズメバチを蒸し殺しにするのです。

これだけでも凄いなと思うのですが、ここには二つほど感心させられたことがあったのです。

その一つは、オオスズメバチが巣内に入ってきても、ニホンミツバチたちは最初ただ逃げるだけなのです。

ところが不幸にもその中の一匹がオオスズメバチにやられたと思った瞬間に、突如として蜂球を作る作業に取り掛かるのです。

つまり悪者が侵入してきても、自分たちからは攻撃しようとしないということ。この様子を観ていて、ちょっと歯痒い感じになったくらいです。

もう一つの感心したことは、オオスズメバチに向かっていって蜂球を作る蜂は若者の蜂ではないとのこと。

ある程度年齢のいった蜂だけが蜂球を作るために、誰から指示されたわけでもないのに突進していくらしいのです。

なぜなら、オオスズメバチを蒸し殺しにするためには、自分たちにとってもギリギリまで温度を上げる必要があり、その結果寿命が3分の1縮んでしまうのだとか。

年寄りの鏡ですね。こんな完璧とも言えるチームワークを見せられてしまうと、蜂よりも賢いと自負している人間が愚かしく見えてしまいます。

けれどもこれは当然のことなのです。蜂には愚かしい自我がなく、人間には自我があるからですね。とほほ…。

期待と受容は正反対

突然ですが、あなたは期待されるような人と期待されない人がいるとしたら、どちらの人になりたいと思っていますか?

きっと社会的には期待される人物であることの方が良いことだとされていると思います。期待されるということがそのまま価値になると考えられるからです。

オリンピックの金メダル候補の選手は、期待されて当然なので万が一期待されていなかったら落ち込むでしょうね。

子供の立場としても、親から自分の将来を期待されていないとしたら、何だか寂しい感じがするかもしれません。

けれども期待というのはそもそも愛ではありません。期待というのは自我の独りよがり、自分にとって都合のいいことを望んでいるに過ぎません。

実際、子犬や子猫ちゃんたちがあれほど可愛いと感じるのは、彼らは私たちに対して何ら期待をしていないからなのです。

もちろん餌がほしいとか、もっと撫でて欲しいといったシンプルなものはあるでしょうけれど、人間が相手にするような期待は持ち合わせていないのです。

それこそが愛なのです。だから私たちは彼らの存在を愛おしく感じるのです。期待ばかりしてくる相手を愛しいとは感じないのです。

期待と受容は正反対だということを理解しておくといいと思いますね。

受容が自我の息の根を止める

自我の仕事というのは、問題を見つけてはそれに対処し、それを解決するということの繰り返しによって成り立っています。

つまり自我は問題がなければ、息の根を止められてしまうのです。問題というのは、困った事態、病気、苦しみ、悩み、不安などのあらゆるネガティブな事柄。

問題を問題たらしめているのは他でもない自我それ自体なのですが、自我はそのことに気付くことは滅多にありません。

では自我はどうやって問題を問題たらしめているのかというと、それをそのままにして置いてはいけないという思い込みなのです。

つまりはあるがままにしておくことができないがために、問題は自我の餌となり得るわけです。

もしも問題をあるがままに受容してしまうなら、それはもう問題としての価値がなくなってしまうのです。

だからこそ自我は受容をとても苦手としているのです。自我は受容から遠ざかることで生き延びることができるというわけです。

私たち人間が物事を受け容れることが難しいと感じるのは、こうしたカラクリがあったということですね。

一日に一つでも試しに受容してみてください。その度にあなたの自我は力を失っていくはずです。

それにつれて、その代わりにあなたの本質が今まで以上に顔を出す機会が増えてくることになるでしょうね。自我は嫌がるかもしれませんが…。

人の仕事を取らない

自我として生きている私たちにとって、一つハッキリしていることはあなたはあなたの人生しか生きることができないということです。

自分以外の誰かの人生を生きることは不可能なのです。どれほどその人を愛しいと思っても、このことに違いはありません。

それがはっきりしているはずなのに、人の人生を生きようとしてしまう場合があるのです。それは他人との間の分離に納得できていないマインドがあるからです。

たとえば、子供に好きなおもちゃを選んでいいよと言っておきながら、いざ子供がどれかを選ぶと、それよりもこっちにしなさいと言ってしまう親。

相手の気持ちを先読みして、頼まれてもいないのに相手のためを思って勝手に手出ししてしまう人。

自分の人生を幸せにする努力をする前に、不幸そうな人を見つけてはちょっかいを出してしまう人。

こうしたことはすべて、人の人生の一部をまるで自分の人生かのように生きようとしているということです。

このような場合、もっと自分の内面に意識を向けるように心がけることができれば、自然と自分の仕事に精を出すことができるようになるのです。

そうなれば人を見守るという余裕ができてくるはずですね。

生の残酷さを見る

憲法には、「すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する」と記されています。

つまり私たちの生活は、大自然の中でシンプルに生きる野生動物のようなものから最も離れているように感じますね。

自然というのは厳しいものです。弱いものは強いものの餌食にされるし、寒さや飢えをしのげなければ、息絶えるしかありません。

足の骨を一本骨折しただけでも死を覚悟しなければなりません。人間のように病院に行けば、治してもらえるなどということもありません。

そういう意味からすると、私たち人間は特別に恵まれていると考えることができます。けれども少し深く見てみると、大切なことには野生性がそのまま残っているのです。

他の誰かに依存したまま、自分の人生を満たされたものにすることはできません。どんな泣き言もここには通用しない厳しさがあります。

逆に考えれば、誰かの人生を救いたいと強く願ったところで、自分以外の誰の人生も救うことなどできません。この事実も過酷ですね。

あるいは誰もがいつかは死ぬ運命にあり、そのことを知っていながらどれほど拒否しようともそこから逃れる術はないのです。

そういった野生性の部分から目を逸らさずに生きることができれば、ある種の覚悟が据わるのです。

そして健康で文化的な生活のベースにある生の残酷さが、愛の残酷さにも通ずるものがあると分かりますね。

悪夢でも醒めれば消える

人生に目的があるとしたら、何かになることではないと感じます。できないことができるようになったり、自我が成長するといったことではないのです。

それは成し遂げる系ではなく、単に気づくということです。あなたが理想とする誰かになることではないということ。

あなたは元々、あなたが究極に目指しているところの何かであったということに気付くだけでいいということです。

だから私たちは最初の最初から完全に救われているのです。残念ながら自我を救うことはできません。

実在しないものを救うことは不可能だからです。あなたの本質が、思考で作られた自我などではないと気付くこと。

あらゆる一切合切が幻のように感じられたことが、誰でも一度くらいはあるのではないかと思います。

量子力学における量子の絡み合いなどは、時間と空間が幻想であるということを示唆しているように感じます。

夢から醒めたら、自我として生きていた人生が悪夢であったとしても何の問題もないはずです。これが信頼に繋がるのですね。

信頼がすべてを救う

自分が年齢を重ねて来て、何が一番変化したのかなと思っていろいろ見つめてみたのですが、一言で言えば信頼が増えたということです。

何かが上達したとか、知識が増えたなどというのは自分の中でまったくもって変化とは呼べない感じがするのです。

寛容になったかというとそんなこともないし、穏やかになってもいないし、人格者になったわけでも決してないのです。

そういう諸々のことは本当にどうでも良くて、というのもそうしたものが自分を助けてくれるようになったかというとそんなことがないからです。

子供の頃というのは、一大事というのがありました。10代のころも相変わらず一大事はたまに起きていました。

そのころは今ほどの信頼がなかったせいで、起きる事象のインパクトがとても大きく感じたのでしょうね。

会社員のころも今ほどの信頼はありませんでしたので、大病した時も深刻さがあったし、何より人生を疑い続けていたと思うのです。

それがこの仕事をするようになった頃から、少しずつですが信頼が増えていったように感じています。

信頼は一大事を一大事とは感じずに済むようにしてくれます。信頼というのはターゲットがないのです。敢えて言えば、生を信頼するということ。

あなたがすごく惨めだったり、ひどく心がすさんでいるなら、解決策はありません。ただ信頼をマスターすることです。