期待せずに待つ

それを握りしめようとするのはやめなさい。握りしめようとするその努力そのものを落とすのだ。それがあなたのなかに入ってくるのを許しなさい。それに心を開き、傷つきやすくなりなさい。<彼>にあなたを捉えさせなさい。<彼>にあなたを乗っ取らせなさい–。彼を所有しようとしてはならない。

by osho

自我の特徴は、能動的であることです。自分の活動を通して、目的地へと到達しようとするのです。

ただ時として受動的に見える場合もありますが、それは単に恐怖から逃れようとするからなのです。

恐怖が小さければ、自分の手柄が欲しいので能動的になります。だから待つことが苦手なのです。私の自我もご多分に漏れず、待つのがすごく苦手です。

↑握り締めようとする努力というのは、能動的なことを指すのですが、それを落としなさいと言っているのですね。

ただ待つというのは、心を開き、期待せずにいて、傷つきやすい状態であることを指すのです。

受動的になるということです。自我である自分にできるのは、準備をすること。その後はただ待つのです。

自分の努力で寝入ることができないように、自分の力で覚醒することもできません。瞑想するのは、彼がノックしたことに気づくための準備なのです。

期待せずに待つのは自我にとっては本当に難しいですね。

自我も自然の一部

自然に生きなさい、可能な限り自然に。不自然なものに魅せられるのは避けなさい。特別で、とりわけひとかどの者でありたいという欲望は病的だ。特別でありたかったら、あなたは自然に逆らわなければならない。そして自然に逆らうことは神に逆らうことだ。なぜなら、神とは自然そのものだからだ。

by osho

自然が創造したものの中で唯一不自然なもの、それが自我なのです。勿論それが実在すればの話しですが…。

自我自体が自我は存在すると思い込んでいるので、そのレベルでみれば自我だけが不自然なものだと言えるのです。

自我は自然に逆らって生きています。だから自然が創造したものと自我が創造したもの、つまり人工物との間には明確な違いが見て取れます。

自我はこの自然の中で、自分の存在だけは特別であろうとするのでおのずと不自然なものになってしまうのです。

その結果、自然に逆らうことになってしまうわけです。けれどもよくよく見てみれば分かるのですが、自我も自然の一部なのです。

自我が特別で不自然だと感じるのは、それが存在するという錯覚をしているからなのです。そうでなければ、それは自然界に存在するただの思考です。

思考が寄り集まったもの、それ自体がそれは特別だという思考を作り上げただけで、その思考から離れてしまうと当たり前のことですが、それも自然の一部なのですね。

あるがままでいるは難しい

食べ物を楽しむがいい。風呂を楽しむがいい。太陽を楽しむがいい。雨や風を楽しむがいい。あなたの手に入るすべてのものを楽しむのだ。そして、あなたが誰であろうと、あなたのままでいるがいい–偽善をなさず、ふりをせず、見せかけや体裁をつくろわず、自分自身に対して誠実でありなさい。

by osho

もしも生まれた時からずっと、↑上のようなことを言われ続けて育っていくとしたら、どうでしょうか?

なかなか想像するのが難しいかもしれないですね。なぜなら、私たちは大抵が真逆のことを言われて成長するからです。

このままではいけない、もっとこうでなければならない、それではダメだ、より良くなりなさい、こうしたことを繰り返し教え込まれるのです。

そんな周囲の期待に応えようと頑張るのですが、それができないとなれば今度は自己嫌悪に苛まれるのです。

これが闘いの原動力なのです。人生は闘いだと思っている人、実際闘ってしまっていると感じている人が多いのも仕方のないこと。

幼い頃から、自分のあるがままではいけないのだという強い脅迫観念を植え付けられてしまったら、人生が生きづらいものになるのも当然のことです。

最後に、多くの人が気づいていないことがあるのですが、それはマインド(自我)にとっては↑このような osho の言葉は都合が悪いのです。

一度でも闘う自我が出来てしまったら、今度はそれを維持しようとする習性があるからです。その習性が「あるがままでいる」という癒しを邪魔するのです。

そのことを自覚しつつ、何度も繰り返し osho の言葉を実践していくことですね。

自分の思考を信じるな

人は束縛されてはいない、そう思っているだけだ。そう思うから現に束縛されているのだ。ブッダとふつうの人のあいだに違いはない。しかし人は違いがあると思っている。そうなったら違いがある。

あなたがたは自らの監獄、自らの錠をつくりだす。そうしておいてそこから抜けだす方法を見出そうとする。

by osho

人は、そう思うから束縛されるし、そう思うから違いがあることになる。つまり、思う(思考する)からそれが現実となるということ。

自ら監獄、錠を作り出す、つまりそれがあると思うのです。だからそれが現実となり、そこから抜け出す方法を見つけようとするのです。

思うこと、思考することが人生を作っているのです。このことを深く深く理解することがとても大切なのです。

私たちは思うことと事実とは別ものだと感じていますが、そうではないということに気づくことです。

あなたが自分は人より劣っていると思えば、そのような人生がやってくるのです。自分には価値がないと思えば、そうした扱いを受けることになります。

そこから抜け出すには、頑張って価値ある自分になろうとする代わりに、そう思うことがいかにくだらないことかを腑に落とすこと。

思考しなければ、自己イメージは思考がでっち上げたものだと気づけば、あらゆる不自由から解放されるのです。

まずは何一つ信じないこと。マインドが持っているあらゆるでっち上げを信じないでいること。そして何が残るのか、それを見てあげるのです。

残ったものが本当のあなたです。何も残らなければ、それでもそれこそがあなたの本質なのです。

誰かになろうとしない

自我というのは、思考によってでっち上げられたものなので、実在するものではないのです。

だから心のうちは常に暗澹としているのです。自我の努力というのは、何とかしてしっかりとした誰かになろうとすることなのです。

社会で認められる人、心のやさしい人、何かの能力に抜きん出ている人、誰からも好かれる人、人格者等々。

こうした理想的な自分像を掲げて、絶え間ぬ我慢と努力を重ねて、何とかそんなピカピカな自分になろうと奮闘するわけです。

それが自我の習性であることを深く理解すること。自我として生きている限りは、大なり小なりこうした原動力を持っているのです。

ところが自我は一つ隠していることがあるのです。それは、本当にそんな自分になってしまったら、それはそれで困り果てるのです。

なぜなら誰かになろうとする目標がなくなってしまえば、それこそ自我の生きる原動力が消えてしまうからです。

つまり誰かになろうとしてなれないことで自己嫌悪になると同時に、なってしまったらなったで路頭に迷うことになるのです。

ただ在ることにくつろぐことができたら、誰かになろうとすることもなく、自然と自我は小さくなり、あらゆる奮闘努力、そして不安から解放されるのですね。

内側にのみ真実がある

老子は、真理を見出すために部屋の外にでてゆく必要はない、扉を開ける必要すらない、目を開ける必要すらない、と言う–。真理とはあなたの実存だからだ。それを知ることがブッダフッドだ。

by osho

一般的に瞑想するときに目を閉じるのは、↑こうしたことが理由なのですね。目も耳も外側に向けて知覚するようにできています。

そういった感覚を閉ざすことで、意識を内側に向けやすくさせようとする目的があるということです。

↑老子のこのような言葉を聴くと、どれだけ私たちが社会という外側の世界ばかりを見て暮らしているのか、理解することができますね。

そればかりか、外側の世界だけが頼みの綱だと思い込んでいます。何かを手に入れるのは決まって外側の世界からだからです。

仕事でもレジャーでも、すべてが外にある。観光をしてみたり、人と一緒に何かを体験するのも外側なのです。

内側だけがまったく独りで向かう孤独な世界。けれどもそこにのみ真実が隠されていると言っているのです。

現実的に言って、外側を見ずに生きることはできないので、外側と内側の両方に意識を向けていられる練習をすることが必要です。

たとえば目を開けていても、何も見ずにいる実践を繰り返すと、目を開けたまま瞑想をすることができるようになります。

瞑想の方法が分からないという人がいますが、要するに内側に意識が向いている状態でいることだと理解すればいいのですね。

そしてより深く内側に向くことで、実は内側と外側を区別していたのは自我だったと気づくことになるのです。真実には内も外もないのです。

自我は孤独、全体性は単独

もしあなたが自分自身を深く見守ったら、驚くだろう–。あなたの行動はすべてみな、ひとつの原因に帰着しうる。その原因とは、あなたが孤独を恐れているということだ。その他のことはすべて口実にすぎない。ほんとうの理由は、あなたが自分はひじょうに孤独だと気づいているということだ。

by osho

孤独は自我にとっての根源的なものです。自我という思考は、自分とは外側の世界とは隔たった独立した存在だという思い込みでできているのです。

つまりは自分以外のいかなる存在とも交わることができないということ。肌と肌をくっつけることはできても、それよりも深く一つになることはできません。

それが孤独を意味するのです。それを避けようとして、自我はあらゆる手段を使って防衛するのです。

誰かと一緒にいれば、孤独をごまかすことができるので、家族、友人、恋人、それ以外の誰であれ、上手に利用して孤独から解放されようとするのです。

けれども、孤独を癒すことは原理的に不可能なこと。まずはそのことをしっかり理解することです。

孤独ではないと感じている人がいるのは事実ですが、それは孤独から目を背けていることに成功しているに過ぎないのです。

孤独感に苛まれているとしても、そのことを恥じないこと。それは単に孤独に気づいているだけだと受け止めるのです。

地球上のすべての人々が同じだけの孤独を持っているという事実を思い出し、孤独から逃げずにいることです。

自分は孤独なのではなく、単独だということに気づくなら、それと同時に自我も小さくなっていくはずです。

願望が失望を生む

偉大な思想家ラスキンはこう言った。人生にあるのは二つの失望だけだ、と。あるものを望みながらそれが得られないことと、あるものを望んでそれを獲得することだ。二つの失望のみ。それを得なければ、たしかにあなたは失望する。ところが得ても、やはりあなたは失望する。

by osho

数年前に、部屋の隣に広いバルコニーのある生活がしてみたいと思い立って、いろいろ物件を探していたことがありました。

運良く、ちょうど手頃な家賃の貸しマンションが見つかり、気持ち良さそうなバルコニーもついていて、さっそく猫足バスタブを購入して、外の空気を感じながらの入浴を楽しみました。

初めてのバルコニー生活はなかなか快適で、お風呂だけでなくそこで飲食をしたり、ゆったりと読書をしたり、勿論瞑想をしてみたり。

こんなに気持ちいいのだったら、もっと早くバルコニー生活を手に入れておけばよかったと思ったものです。

真夜中に寝っ転がって星を見たり、運が良ければ流れ星に出会うこともできます。そういえば、UFO を目撃したこともありましたね。

ただ残念なのは、真夏と真冬はとてもじゃないけれど、外での生活は無理なので、一年の間に心地よく使える期間は限られていたのです。

早く穏やかな季節にならないかなと思っていたところ、よ〜く心の中を見てみたら、あれほど憧れていたバルコニー生活に対して、もうそれほどの魅力を感じてはいないことが分かっちゃいました。

ああ、やっぱりまたいつものやつが出てきたのです。つまり、願望が達成されても、しばらくすると今度はまた別の何かを欲するようになる。

結局は、何を手に入れたとしても失望するからこそ、また次への願望が生まれるのです。この繰り返しをいつまで続けるのか?じっくり見る必要がありますね。



罪悪感ほどくだらないものはない

もしもあなたが罪悪感を感じずに生きたいと願うなら、できる限り従順な人物になればいいのですね。

自分の正直な気持ちや思いを下に置き、他人の気持ちや意向、あるいは期待を優先するような生き方を選べばいいのです。

そうすれば、罪悪感どころか恐怖も小さくなるかもしれません。人から否定されることも少なくなるし、逆に好かれる人物になれるかもしれません。

ただし、知らぬまにあなたの自我は強大化するでしょうね。それは最大の防衛方法だからです。

そして防衛はそれに比例して自己犠牲を生み出します。要するに、その瞬間瞬間は安心安全なのですが、いずれは我慢のエネルギーが噴出するのです。

そうそういつまでも奴隷のような人生が続くわけがありません。ひどい病魔に冒されるか、鬱の人生が待っています。

そうならないためには、最初に戻って、罪悪感を感じずに生きようとすることが間違いだったと気づくことです。

罪悪感は必ずやってきます。それはマインドで生きる限りは必然なのです。そのことを織り込み済みで生きるのです。

そして罪悪感によって死んだ人などいないことも思い出して下さい。罪悪感を恐れずに、できるだけそれを味わうのです。

罪悪感と共に生きることを選ぶのです。最後は、罪悪感ほどくだらないものはないと気づくことになるはずです。

そうなったらもう、二度と罪悪感などやってこなくなってしまうでしょうね。

モノの処分で思うこと

最近ちょっとした引越しをしたのですが、普段なるべくモノを増やさないように生活していたつもりでも、処分すべきモノがたくさんでました。

普通のゴミとして捨てられるものはいいのですが、粗大ゴミや専門業者に引き取ってもらわねばならないものなど、それなりにありました。

そのたびに、あれが欲しいこれが必要だと思って購入したのですが、こうして処分するときのことも少しは考えておいた方がよかったなと感じたのです。

処分するにも労力もお金もそれなりにかかるからです。それなりにと言いましたが、実際には結構な労力と時間が必要になるのですね。

ただ、処分せずに残ったモノであっても、私の場合は貴重品とか高価なモノなどは一つもないので、その気になったらいつでも廃棄できるものばかり。

形見的なモノもないし、自分が生きてきた証のようなものもまったくありません。自分が死んだ後に財産分与などが起こる心配もありません。

そういう意味では、いつでも身一つで死んでいく準備はできてるようなものです。落ち着いたら、もっともっと身辺整理したくなりましたね。