不幸を根絶する方法

この世から不幸をなくしてしまう方法が一つだけあるのですが、それは何だか分かりますか?

とてもシンプルなことなのですが、あらゆる物事に対して期待するのをやめてしまえばいいのです。

期待すれば、その期待が叶わなかったときに、不幸がやってくるからです。期待通りの現実がやってきたとしても、すぐに次の期待を作るのです。

そしてその期待の連鎖は100%必ずいつかは破れることになっているのです。また期待が大きければ大きいほど、やってくる不幸も大きくなるのです。

期待というのは、すべてが未来があるという前提です。したがって期待すれば未来がとても大切なものになってしまうのです。

今この瞬間がおろそかになってしまうのも、期待のせいだと言っても過言ではありません。

ではどうやって期待をなくせばいいのでしょうか?期待しないように努力するという方法もなくはありません。けれども、それはきっとうまくいかないでしょう。

本命は、期待してしまう自我をいつも見守ってあげるということです。期待する自分に気づいていられるなら、次第にそこから逃れることも可能になるのです。

期待が落ちるとき、同時にあなたの自我も落ちていくことになるのですね。

防衛に気づくこと

人が生きづらくなる一つの流れがあります。それは…

① 幼い頃に不安ばかりで安心をもらえなかった ⤵︎

② 自分で安心しようとして防衛を過度にする ⤵︎

③ 防衛が進むと無意識になり、それが無自覚になる ⤵︎

④ 無意識になると、さらに防衛が大きくなり、③へ戻る ⤴︎

結果として悪循環が生まれることになるのです。このループを断ち切るためには、意識的でいる練習が必要であることが分かりますね。

意識的であるようにして、防衛していることに自覚ができれば、それはそのうちにはひとりでに落ちていくのです。

自分が今どういう気持ちでいるのか、どんな感情がやってこようとしているのか、どうしたいと思っているのか、そういうことをできる限りリアルタイムで気づくようにするのです。

それによって、自分がいつどんなタイミングでどんな防衛をしてきたのか、深く理解することができるのです。

からっぽで、自由で、自然であれ

見せかけを落としなさい。偽善を落としなさい。

自分の自然な実存のまわりに培ってきたあらゆるものを落としなさい。

自然になるのだ。はじめのうち、それはとてもとても骨の折れることだろう。

しかし、はじめのうちだけだ。

by osho

骨の折れるどころじゃないでしょ。どれほどの勇気がいることか…。そうやって、ありのままでいることを先送りするわけです。

誰でも多かれ少なかれ、自分になにかを強いて生きてきたのです。強いれば強いるほど、自然ではいられなくなるのは当然のこと。

リラックスのことなどすっかり忘れてしまい、感情を出すなんてとんでもない。鉄壁の鎧を自分の周囲に作り込む。

その鎧のことを、↑上では見せかけとか偽善と呼んでいるのです。幼い頃に作り込んだ、そうした鎧は大人になると脱ぎ方が分からなくなってしまうのです。

あまりにも長いこと緊張していたら、笑おうと思っても顔が引きつって自然には笑えなくなってしまうのと同じです。

あなたがこれまで培ってきたこと、そのすべてがあなたを自由で自然な状態でいることを阻むようになったのです。

もうどうしようもない、自分の力では何もできやしない。本当にそう諦めがついたとき、自然さはゆっくりとやってきてくれるはずなのです。

年齢はそちらの世界のもの

先日帰宅すると、一通の薄紫色の封筒が届いていました。そこには、「高齢者・・・」の文字が…。

父親はもう亡くなったのになと思って、宛名を見てみるとまさしく私宛だと分かったのです。

その封筒にはなんと、保健所から届けられた「高齢者用肺炎予防接種予診票」なるものが入っていたのです。

あれ、気がついたらとうとう高齢者の仲間入りしていたというわけ?我ながらびっくりするやら、少々納得してない感が…。

公的機関から高齢者と判別されてしまったら、どうもがいても高齢者なのでしょうね。けれども、中身はまったくもってそぐわない。

いつも16〜19歳程度の感じでいるのですから、厚かましいにもほどがある。一体自分は何歳になったら高齢者、あるいは老人になったという自覚がくるのか?

たしかに身体は年齢並だと自覚しているのですが、内面は非常に若々しいことこの上ない。きっと自覚としては若者のまま死んでいくんだろうなと思うのです。

正直言えば、意識に年齢などあるはずもないわけで、そう言う意味ではこの身体もその年齢も全部そっちの世界のもの。

こちらには、純粋な意識しかないのですから。それを無と呼んでもいいし、時間も空間もないし、死ぬことも生まれることもない。これが強がりに聞こえなければいいのですが…。

「自我≠愛」の法則

とってもシンプルな法則を一つ。自我があるときには、防衛が起こり、自我がないときには無防備になるのです。

そして、愛というものが何だか分からないなら、それは無自我のことだと理解すればいいのです。

つまり、自我=防衛、無防備=愛ということ。結果として、自我≠愛ということになるのです。

残念ながら、自我には愛が分からないのはそういうことだからです。世の中に「無私の愛」という言葉がありますが、あれは愛=愛と言っているのです。

無私とは無自我のことだからですね。これを踏まえて、あなたがもしも誰かを好きになるなら、それは自我の愛ということになり、矛盾していると気づくこと。

自我の愛であれば、相手が都合の悪いことをすればすぐに嫌いになれるのですから、そうなったとしてもそれを不思議に思う必要はありません。

また、自分には人を本当には愛せないと分かったとしても、それは当たり前のことだと気づけばいいのです。「自我≠愛」なのですから。

だからといって、人を好きになることを否定しているのではありません。自我の愛を減らして、本当の愛を増やしていけばいいのですから。

真実に「なぜ?」は通用しない

自我はどんなことにでも「なぜ?」という質問をすることができると思い込んでいるのです。

なぜ私たち人間には自我が備わっているのか?なぜ自我は防衛ばかりしてしまうのか?なぜ宇宙は膨張し続けているのか?

この「なぜ?」という問いに対して、答えが分かっていてもいなくても、確実にどこかに答えはあると言えるのです。

ところが、真実に対しては、この「なぜ?」という問いは意味を成しません。この問い自体が真実に対しては不適切なのです。

真実は、「なぜ?」という問いに対してどんな答えも持ってはいないのです。もっと言えば、「なぜ?」を包含してしまっているということ。

毎日の生活の中で、もしも「なぜ?」が全く通用しないようなことにあなたが出くわしたなら、それこそは真実の可能性があるということです。

理由があるようなことは、所詮は自我の範疇なのです。あなたが優しいから好きだというなら、それは自我の愛、偽物の愛ということです。

純粋な愛は真理そのものなので、そこにはどんな理由もありません。自我が消えると、なぜ穏やかさや至福がやってくるのか?

穏やかさや至福感は真理が持っている元々の特質であって、そこにはどんな理由もないのです。

正しさよりも自然でいること

先日、大阪で府知事と市長のダブル選挙があって、少しばかりその結果がどう出るのか気になっていたのです。

結果は維新が勝って、結論から言えば大阪の人々の多くがこれまで通りのやり方で今後もやって欲しいと望んだことになったわけです。

選挙に負けた側が、どんなコメントをするのかと思って聞いていたら、本当に驚くような言葉が聞こえてきてびっくりしました。

選挙に負けた理由は、真意が十分に伝わらなかったからだというのです。いやいや待って下さい、そういうところにこそ人々がそっぽを向く原因があったのではないのでしょうか?

その候補者の方を悪く言うつもりはないのですが、ただあまりにも自分を正当化することに躍起になっている姿が見て取れたのです。

政治家なら、もう少し潔く負けを認める方が好感が持てるというものです。世の中には、自分を正当化することで安心しようとする人がたくさんいます。

正しさという鎧を着込んで、誰からも否定されずにいられると信じているのです。そういう自己防衛のやり方は、子供っぽい幼稚なものです。

きっと幼い頃から、僕は悪くないもん、というのをやってきたのでしょう。防衛はやってることに気づかなければ、一生やり続けてしまうのです。

正しさにしがみつけば、本人は正しさと一緒にズブズブと海の底まで沈んでいってしまうのです。

そうなる前に、正しさから手を離して身軽になることです。ただそのままの自分でいられれば、正しさよりも自然であることがどれほど爽快かを実感できるでしょうね。

全体性を信頼する

長いこと様々なクライアントさんとのセッションを経験してくると、癒されにくい人のパターンというのが見えてきます。

そういう人は、大抵自分に都合のいいようにセッションをして欲しいと期待しているものです。

自分のこれまでの生き方、考え方、主義主張のようなものはそのまま温存しておいて、問題だけを治して欲しいと願っているのです。

けれども、今現在の自分を構成しているのはこれまでの生き方の積み重ねなのです。勝手に、あるいは偶然今の生きづらさがやってきたわけではありません。

自分を変えたくはない、辛いところを見る気はしない。それがあまりにも強すぎると、全身を硬い鎧で覆っているように感じてしまうのです。

それも無理ないのは承知の上で、セラピストは嫌われるのを覚悟の上で、少しずつ核心の部分へと導くことを試してみるのです。

子供の頃にどうやって生き抜いてこられたのか分からないような人でも、いつかは防衛が緩んで頑なさが和らいでくるときがやって来ます。

だから自分のペースで、ゆっくりじっくり時間をかけて無理せずにやってくるチャンスを待てばいいのです。

全体性を信頼するとは、そういうことなのですね。

欲望には未来が必要

私が「欲望を落とす」と言うとき、どうか誤解しないでほしい。それはあなたが欲望を落とすという意味じゃない。

そこに暗黙の了解があったら、それは落ちるのだ。不意に、あなたは問題点を見る。

生はここにあるが、欲望はあそこにある–。あなたはそれを見る。と、欲望は消えてしまう。

by osho

自我は欲望がなければ生きていけない。その欲望は、未来がなければ成立しない。だから死を恐れるのです。

自我は未来という空間に欲望という絵を描いて、それを原動力に生きているのです。まるで、鼻づらに人参をぶら下げられた馬のように。

ところが、生は今この瞬間にのみあると↑言っているのです。今ここだけが生きる場なのに、自我は欲望頼みなのですから生を楽しむことができないのです。

生を楽しむためには、無邪気な子供のような瞬間を思い出すことです。屈託無く笑い、大声で唄い、身体を使って踊ることです。

お母さんの自転車の後ろに乗って、自分で作ったデタラメな唄を歌っている子供に出くわすことがありますが、その子にとっては今その瞬間がすべてだと分かります。

歳を重ねてくると、遠くにしか見えなかった死がそれなりに身近かに感じるようになるのです。すると、未来という空間が次第に狭くなっていくのです。

そのおかげで、未来よりも今この瞬間を大切にしたいという思いが強くなっていくように感じます。これは若い人には無理かもしれませんね。

自我を成敗しようとしない

生は意味するべきではない。生は在るべきだ。それ自体でひとつの目的–。

どこに向かっているのでもない。いまここを楽しんでいる。祝っている。

そうしてはじめて、あなたはやわらかくなれる。

by osho

自我はまったくもって↑これの真逆です。自我にとっては、意味とか、価値とか、目的などがとても大切なのです。

というよりも、そういったものなしではとても生きていけないのです。だから柔らかくなれないでいるのです。

生自体が目的であるのに、自我はその生の中で個別の目的を持とうとするのです。その達成のために固くなってしまうのです。

自分の生を勝手な都合で、より意味のあるものにしようとするし、自分の存在をより価値あるものにしようとするのです。

それが戦いを生み、決してリラックスすることができなくなってしまうのです。硬直した生は生きているとは言い難いのです。

自我を成敗しようとすれば必ず失敗します。なぜならその発想そのものが自我のものだからです。

逆に、自我の生き方を愛を持って見守ってあげましょう。その一方で、今この瞬間をなるべく楽しみ、祝い、踊るのです。

そうなれば、自我はひとりでに退いていくしかなくなるのですから。