不平等よりも平等に気づく

人間とは何でこれほど不平等なんだと、苦々しく思ったことがないという人はいないはずです。外見の美醜、お金持ちか貧乏か、能力のあるなし等々。

運のいい人もいれば、不運続きだという人もいるでしょう。けれども、こうした違いはどちらかというと表面的なことなのです。

もっと本質的なことを見てみれば、その不平等さは消えていくのです。例えば、人生何があるか分からないという点ではみんな一緒です。

つまり一寸先は闇ということ。病気や事故に遭遇するかもしれないし、悪いことを想像したらそれこそきりがありません。

いずれは死ぬということに関しては、もう完全に誰もが平等な立場にいるわけです。不平等な表面に目を向けるのか、平等な本質を見るのかは自由です。

私は後者の方を強くお勧めします。人はどんなものを手に入れたとしても、決して本当には満たされることがないという平等さに気づいて、とても穏やかになれたからです。

内面の奥深くには誰もが平等に不安を抱えているのです。この不安というのは、個人であるという思い込みを持つことから必ずやってくるものだからです。

そしてそのことに気づいたことで、不安から逃げようとすることの愚かしさにも気づくようになったのです。

その結果、表面では慌てたり焦ったり嫉妬したりしていたとしても、深い部分ではそれを見ていられるようになったのです。

不平等さからはあまり得るものはないのですが、平等さからは非常に多くの深い気づきをもらえるということですね。

「個人」という仮面

社会人一年生の時、学生時代の自堕落な生活から打って変わって、毎日の生活が規則正しくなったりして、急変したのを覚えています。

たまたま自宅から徒歩で15分くらいのところに会社があったのですが、歩いている間に自分はいつ社会人の顔になるのだろうと自分を見張っていたことがありました。

それで分かったのですが、オフィスに近づくに連れて会社の顔見知りの人々に会って挨拶を交わすごとに、だんだんと会社員の装いを作っていくのです。

朝ギリギリまで寝ていた素の自分から、ちょっと如才無い態度の自分、言わば社会人の仮面を装着するわけです。

一度その仮面を着けてしまえば、後はそんな自覚など忘れてこれが自分そのものだと思い違いするくらい上手に仮面と同化するのです。

人はさまざまな仮面を持っていますね。子供と一緒にいるときには親という仮面、パートナーと一緒の時にはまた違う仮面。

とにかく誰かと一緒のときには必ず何らかの仮面を着けているのです。そして独りきりになったときに、ようやくすべての仮面を脱ぎ捨てて自由になるのです。

けれどもあまりに長時間仮面を着け続けていると、それと完全に同化してしまうがために仮面を脱ぐことができなくなってしまうのです。

そうなると、もう決して清々しい人生を感じることはできなくなるでしょうね。どれほど周囲から承認されたとしても、決して満たされることもないのです。

仮面が承認されればされるほど、本当の自分は惨めな思いをするからです。仮面が悪いのではなく、仮面のことを忘れてしまうことが問題なのです。

そして最後に、どんな人も共通して着け続けてしまっている仮面があるのです。それが「個人」という仮面です。

誰もがそれは本当の私の顔であって、決して仮面なんかではないと信じて疑わないのです。

けれども世の中には、その仮面を仮面と見抜き、脱ぎ捨てて二度と着けることがなくなった人もいるのです。

禅では「本顔を得る」というらしいですが、つまりは自分の本当の顔を知るということですね。

心眼で見る

老子は、真理を見出すために部屋の外にでてゆく必要はない、扉を開ける必要すらない、目を開ける必要すらない、と言う–。真理とはあなたの実存だからだ。それを知ることがブッダフッドだ。

by osho

たしかに、この肉眼で見えるものというのは現象界で起きる事に限られていますね。現象とは一過性のものです。

それは、本質からやってきて本質へと戻っていく、その中間にある一時的な夢のようなもの。私たちはそれを真実だと思い込んでいるに過ぎないのです。

目で見たことしか信じないと言う人もいますが、それなら目を閉じてしまったら何も見えないというレベルにずっとい続けることになるかもしれません。

かつてとても有名な詩人がいたのですが、彼は人生の途中で失明してしまうのです。ところが失意の底から立ち直った時に、失明する前よりも桁違いに素晴らしい詩を書くようになったのです。

肉眼ではない目によって見る訓練をしたおかげで、本質に気づけるようになったということなのでしょうね。

目を開けていても閉じていても、気づけるものがあるのです。それは言葉にすることができないだけで、厳然と実在していると感じられます。

この現象界で起きる物語に気を取られてしまうと、全く気づくことができなくなってしまうのですが、真理がなくなるなんてことはありません。

肉眼ではない目(心眼)で内側を見ていくと、個人としての自分の不在に気づいてしまうかもしれません。それはとても怖いことですね。

それでもきっといつかは誰もが真実と出会うことになるのだと思います。

未来への期待がマインドの生き延びる手段

カーレースの世界最高峰である「F1」がかつて民放のテレビで放映されていた頃は、深夜まで眠い目をこすりながらよく観ていたものでした。

あれはまだ会社員の頃、日本人で初めてF1ドライバーになった中嶋悟選手が今シーズンで引退するという最後のレースを正座して観たことを思い出しました。

誰もが最後に一度だけでも念願の表彰台に彼を上がらせてあげたいと思っていたはずですが、残念ながらその希望は叶えられずにレースは終わりました。

毎回レースが終わるとインタビューアの人が彼にマイクを向けてその日のレースについて感想を聞くのですが、そのインタビューアの人の口癖は、「次回期待しています!」というものでした。

ところが、その日は最後のレースなので次回がないのです。どう言うのかなと思って観ていたら、やはり泣きながら無言でインタビューを終えたのです。

次がないというのは、希望を持つことができないので、その苦しみに直面するしかないのです。「よ〜し、今度こそ」という逃げができないのですね。

考えてみると、私たちは辛いことがあると、この「よ〜し、今度こそ!」によって気持ちを未来に向かせることで、やり過ごすということを日々やってきたのです。

これがマインドのやり方なのですね。「よ〜し、今度こそ!」をやれば、惨めさは回避されるわけです。

けれども次という未来がないときに、初めて私たちは苦悩から逃げずに今この瞬間にいられるのです。

年齢を重ねていくと、次第に次がなくなっていくので自然と今と直面することができるようになっていくようです。

ただし無意識の部分は実年齢とは無関係なので、死んだ時に「よ〜し、今度こそ!」が発動するので、それが輪廻させることになるのですね。

「惨めさ」の輪廻

光明を得ていない人々は、死のたびに、あらゆる種類の惨めさのパターンを放り出し続ける。富がより多くの富を引き寄せるように、惨めさはさらなる惨めさを引き寄せる。もしあなたが惨めならば、何キロも先から、惨めさがあなたへと旅をしてくる。

by osho

昨日のブログでは、惨めさは単なる思考であり事実ではないのに、それを隠そうとして怒りを作り出すということを書きました。

惨めだという思いを隠せば隠すほどそれはマインドの深くで大きくなって、結局似たような惨めさの思考エネルギーを周り中から引き寄せるのです。

生きている間もそうなのですから、死んだ時はもっとはっきりとその様子が見えてくるというわけです。

つまり、惨めさの思考エネルギーをもったまま死ぬと、そのときにそのエネルギーに見合ったエネルギーで生活している女性の子宮の中へと吸い込まれるのです。

そうしてもう一度その惨めさを中心に据えた人生がスタートするというわけです。これが「惨めさ」の輪廻であって、魂の転生のように見えるだけ。

主役は思考エネルギーであって、あなたではないということ。けれども、そのエネルギーには記憶も含まれているので、自分が生まれ変わったように思えるのです。

もしも次の世代へと惨めさを伝搬させるのがいやだというなら、生きているうちに惨めな思いから逃げずにいる練習をすることです。

どんな種類の思考エネルギーであれ、それを正面から見てしまえばそれが真実ではないことに気づくことができるはず。

そうなったら、惨めさは自然と消えて行くことになるのですね。

惨めさの隠蔽に気づく

怒りという感情は、ネガティブなものと受け止められがちですが、それは怒りがあると人は攻撃的になって、相手を傷つけてしまうと思われているからです。

けれども、攻撃するのに怒りは必要ありません。ボクシングで相手にパンチを繰り出すのに怒りは不要です。

逆に怒りがあったら、冷静さを失って試合に負けてしまうでしょうね。戦争で敵に銃弾を浴びせる時にも、怒りがない方が正確に的を射るはずです。

だから、怒り=攻撃的(暴力的)と直感的にみるのをやめることです。そのためには、怒りの正体を見破ればいいのです。

マインドが怒りを生み出す瞬間に意識的であれば、なるほどと分かることがあります。実は怒りの正体とは、惨めさの隠蔽なのです。

マインドは、思考によって自分は惨めだと思い込む時に、そこから目をそらしたいがために怒りという強い感情を利用するということです。

惨めさとは、意識的であれ無意識的あれ想定していたことと、現実に起きたこととの間のギャップによって思考が作り出すもの。

なんであれ起きたことだけがそこにあるなら、惨めな思いは発生しないのです。つまり、惨めさから解放されるためには想定をやめること。

そして「惨めさ」とは事実ではないということにつねに気付いていること。それができるなら、惨めさを隠蔽する必要がなくなるのです。

そうなれば、隠蔽するために使っていた怒りからも、その他の人生を台無しにしてしまう防衛からも解放されることになるのですね。

 

マインドと存在を見分ける目

少し前にジャニーズの人が不祥事を起こした事件がありましたが、例によって各テレビ局がこぞってそれを取り上げていました。

様々なコメンテーターと称される人々が勝手な意見を言う時代なのですが、総じて厳しい意見の方が無難な風潮がある気がします。

少しでも彼をかばうようなニュアンスのことを言うと、それを言った人も同罪のような空気になるのを見ます。

「罪を憎んで人を憎まず」というのをもっと明確に言えば、すべてはマインドのなせる技だということ。存在と起きたことは別だと気付いていること。

よく「私だったら自制できた」とか、「なんで理性的でいられなくなるのか訳が分からない」といったことを言う人がいますね。

もしも理性的でいられたなら、その瞬間のマインドの中で理性が一番強かっただけなのです。意志の力も含めて、単なるマインドの一部に過ぎません。

その人のマインドがどのように作られてきたかと言うことと、その時の周囲の状況との合体によって、その瞬間のマインドの有り様が決定されるだけなのです。

それ以外にはどんな要因もありません。マインドを超えた意志の力などというものはないということですね。

マインドと切り離して、「存在」を見ることのできる眼差しをもっと養う必要があるのではないかと思いますね。

居場所はここしかない

試してごらん。朝食を食べるときにはただ朝食を食べ、神や悪魔や金や女や男や愛など、数限りない他のことを考えてはいけない。ただ朝食を食べ、そこに在りなさい。完全にそこ、そのなかに。あちこちに出かけてはいけない。完全にその場に在りなさい。すると、心はどこにある?心は見つからない。

by osho

私たちのマインドというのは、これとかあれというように指差すことができるようなものではありません。つまり実在しないのです。

それは内面的な動きそのものなのですね。プロセスと言ってもいいかもしれません。どんなプロセスかというと、今この瞬間にいさせないようにする目的を持っているのです。

それが活性化すると、知らず知らずのうちに思考の中へと絡め取られて行くのです。思考が作る変幻自在なイメージの虜になるわけです。

そうなると、今ここにいるのに今ここにはいない状態になってしまうのです。↑うえで、「あちこちにでかける」ことになるのですね。

本当はどこへも行っていないのに、イメージの中がその時の居場所になってしまうのです。

意識というのは、今ここ、今この瞬間にだけ在るのです。だから、思考から意識へと戻るなら、完全にその場に在ることができるのです。

意識は過去にも未来にも行くことができません。過去も未来も含めて、そもそも時間というのは思考の中にのみ存在する妄想です。

マインドそのものが実在しないので、マインドは実在しないものを相手にしているのが性に合っているのですね。

逆に意識的であるとき、実在しないものは実在しないということが明白になるのです。そのとき在るのは今この瞬間だけなのです。

思い出に浸れない

高校一年のときのクラス会の通知をもらって、もう随分と長い間その頃の友人たちに会ってないなあと思っていたのですが。

幹事さんから前もって、当時の思い出などを各自メールするように言われて、思い出そうとしてみたのですが、どうでもいいくだらないことしか出てこなくて。

誰にでも懐かしい思い出というのがあるはずですが、私はどちらかというと楽しいことよりも嫌な記憶の方を思い出す習性があるようなのです。

だからなのか、過去のどの時代を思い出しても、そこに戻りたいと思ったことは一度もありません。

要するに、今が一番いいのです。幼稚園から始まって小中高、そして大学とそれぞれの年齢に応じたそれなりの生活をしてきたのですが、魅力的な時期として思い出すことはないのです。

サラリーマンを二十年以上続けていた頃も、今となってはどうでもいい時代だったとしか思えないのです。

そういうわけで、あの頃はよかったなあという感慨に浸ることはできないのですが、それでも昔の仲間に会えばそれなりに思い出すこともあるのでしょうね。

過去のいかなる部分にも興味が薄れてしまえば、それはある意味では執着がなくなっているということでもあるのです。

もしもここは思い出したくないという過去があるなら、率先してその部分を見つめてみることをお勧めします。

しっかり見ることができて初めて、どうでもよくなるのですから。思い出にそれほどの興味がなくなれば、それに合わせるように未来にも興味がなくなっていくはずです。

今日を思い切り楽しむことだけを考える人生はシンプルでいいと思いますね。

 

コントローラーは人をモノ扱いする

自己防衛の方法には、それこそ無数のやり方があるのですが、その中でも最もタチの悪いものの1つとして、コントローラーというのがあります。

つまり人をコントロールしようとするのです。自分にとって都合のいいように意のままに操ろうとするわけです。

このタイプの親に育てられてしまうと、子供は自分の存在価値を知らずに成長することになってしまう恐れがあるのです。

なぜなら、実際コントロールできるのは「モノ」に限られているからです。だから親にコントロールされた子供は、モノ扱いされたということになるのです。

モノは反抗することができません。だから便利に扱うことができるのですね。モノであれば、捨てたり拾ったりすることもできるのです。

もしもあなたが、「私は彼に捨てられた」などと思ったことがあるなら、そのときあなたは自分をモノにまで貶めたことになるということですね。

人に「ノー」が言えないということであれば、それも自分をモノとして相手に差し出していると理解することです。

人をコントロールするときに利用する手段としては、恐怖が一般的ですが、実はそれは親が子供をコントロールするときなど、ちょっと特殊なのです。

もっともっと普遍的なやり方があるのですが、それは相手の罪悪感を利用する方法です。

言い返したり、反抗したり、「ノー」を言ったら、罪悪感がくるように仕向けることができれば、大抵はコントロールできるのです。

罪悪感が馴染み深いという自覚があるなら、コントローラーに育てられて自分をモノにまで貶めてきた可能性が高いですね。

だとしたら、自分の存在に常に意識を向けている訓練をすることです。それと同時に、罪悪感から逃げない生き方を実践することですね。