すべてを人生レベルで見てみると…

ひとたびあなたが、自分は誰をも幸せにすることはできないし、誰かを幸せにしたことは一度もないことを、そして誰もあなたを幸せにすることはできないし、誰もあなたを不幸にもできないと知ったら、ひとたびこの洞察があなたのハートのなかに落ち着いたら、あなたはもうけっして誰にも責任を転嫁しない

by osho

人は誰かの人生を幸せにすることはできないし、不幸にすることもできません。そしてその逆も同じ。

誰かに自分の人生を幸せなものにしてもらうことはできないし、不幸なものにもされることはありません。

ときにセッションでお話しすることがあるのですが、セラピストである私がクライアントさんの人生を幸せにして差し上げることはできないのです。

もしも頑張り次第で、クライアントさんの人生を幸福なものにして差し上げることができるなら、荷が重すぎてセラピストなどやってられません。

出来ることはたった1つ、この方向に進んでいくならきっと光が見えてくるはずということを示すことだけ。

その一歩を踏み出すことができるかどうかは、完全にご本人に委ねられているのです。他の誰もそれを強制することはできません。

私たちにできることは、あくまでも一過性のことだけ。泣いている人を笑顔にしてあげるとか、喉が渇いた人に一杯の水を持ってきてあげる程度なのです。

だからあなたは自分以外の誰に対しても、どんな責任も義務も本質的にはないということです。

そしてあなたの人生がどうであれ、他の誰のせいでもないということ。これさえ腑に落ちれば、清々しい人生がやってくるはずですね。

背負うべき何物もない

人の人生は本当にさまざまですが、誰にとっても例外なく共通していることもあります。それは、裸一貫で生まれてきて、裸一貫で死んでいくということ。

死に行く時に、それまで所有していると思っていたあらゆるものがその手から滑り落ちて、手ぶらで天国に行くしかないのです。

それが分かっているくせに、生きているうちは物凄く重い荷物を担いでゼイゼイ言いながら戦い続けている人もいます。

荷の重さで肩に食い込む痛みがどんなに険しいものでも、弱音を吐かずに歯を食いしばって耐えているのはなんでなのでしょうか?

肩の重荷とは、その人のマインドが作り出した義務や責任とも言えます。ご本人に言わせれば、できることなら全ての荷を下ろしたいと思っているのですが、マインドがそれを許さないのです。

そんな時に思い出していただきたいのは、本当はいつも手ぶらなんだということ。真実は、どんな義務も責任も実在しません。

マインドのでっち上げたものにすぎないということを。私は出来る限り手ぶらで過ごすのが好きです。何も持ちたくないのです。

背負うべき何物もないと深く理解する時、ようやく清々しさと一緒に自由な感覚がやってきてくれるのですね。

どう生きるかよりもどう死ぬか

昨日、クライアントさんの一人が亡くなったことを知りました。ご主人がわざわざセッション枠を予約されて、知らせるために来てくださったのです。

そのクライアントさんは、常に熱心に自分と向き合い、定期的にセッションに通ってくださった方で、癒しに真摯に取り組まれていた方です。

セッションでは、真実への道をご一緒に掘り下げていくことができた方で、私としてももうお会いできないのかと思うととても残念です。

クライアントさんというのは、私にとってはお一人の例外もなく、必ず何かを気づかせて下さる存在なのです。

その気づきを集めて昨年、本を出版させてもらったのですが、そのクライアントさんも読んでいただいていたことを知りました。

ご主人によると、亡くなる少し前に「私全部分かっちゃった…」とおっしゃっていたらしく、きっと彼女らしい気づきを得たのだろうと感じるのです。

亡くなられたときには、笑顔だったということで、私もそのことを確信しました。大切なことはどう生きたかではなく、どう死んだかなのです。

人生の集大成がそこで試されるからです。体力的に残り少ない時間の中で、きっと気づきを加速することができたのではないかと…。

彼女のご冥福をお祈りします。

幸不幸が繰り返される

幼い頃に絵本などを読んだりして、沢山の昔話を知るようになりますね。そういった物語というのは、ある程度のパターンがあるのです。

何か問題が起きて、それを頑張って解決したあかつきには、「いつまでも幸せに暮らしたとさ…」みたいな終わり方。

何かを達成したら、きっと満ち足りた人生になるという教えがあるのですね。親や先生、そして社会からもそのように言われるのです。

だから目標を設定してそれを達成することができたら、自分だって必ず幸せになれると信じてしまっても当然なのです。

ところが現実はそうではありません。満足するのはほんの一瞬のことであって、すぐにまた別の目標、別の問題が起きてその達成、その解決にとりかかるわけです。

人生はその繰り返しに過ぎません。桃太郎が無事鬼退治をしたからといって、その後の人生がずっと幸せになるということはないのです。

これがマインドのからくりなのです。マインドの仕組みを知ればそのことが明らかとなります。

真に満たされるためには、ノーマインドの状態、どんな目標もなくただ自然に生きるようになることが必要なのです。

これは頑張って何かを達成することとは、根本的に異なることなのです。マインドが作った物語の中にいる限り、幸不幸が繰り返されるということですね。

思考を止められない

少し目を覚ましなさい。自分の言語パターンから目を覚ますのだ。言葉に酔いしれるのはやめなさい。そうすれば、ものごとはとても簡単になる。ものごとはほんとうに易しい。ものごとはひじょうに単純だ。真理は単純そのもの、あなたが複雑なだけだ。真理は今ここに在る。家に戻ってきなさい。

by osho

いつの頃からだったか忘れたのですが、自分は何かを考えることをやめることができないのだと気づいたのです。

その時は多少ともショックを感じたことを覚えています。だって自分の内面は自分自身のものなのに、それを自由にすることができないなんて…。

考えようとすることは難しくないのに、考えるのをやめようとすることがどれほど困難なことなのか、びっくりしたわけです。

↑上で「自分の言語パターン」と表現しているのは、実は年がら年中マインドの中で繰り返している思考パターンのことです。

人間は複雑な思考を使えるようになったのですが、それは言語を発明したからです。思考を下支えしているのは言語なのです。

つまり、何かを考える時には必ず言語を使っているのです。ちょっと試してみればすぐに分かるはずです。言葉なしには考えることができないと。

言葉が悪いのではなく、それを止めることができなくなってしまったことが最大の問題なのです。

なぜなら、言語=思考が物事を複雑にしている張本人だからです。真理は単純だと言っています。それは確かにそうですね。

思考が停止した時に、時間も一緒になくなったという体験をしたことがありますが、時間は実在する何かではなく、思考が生み出した概念なのです。

時間がなければ、過去や未来も消えて単純そのもの。今この瞬間だけがあるのですから。悩み事からは当然解放されてしまうはずですね。

何処へも行きようがない

目的地は存在しない、だから誰も道に迷うことはできない–。それをあなたのハートに浸透させなさい。それを矢のようにあなたに貫かせなさい。<生>に目的地はない!だから、それは取り逃がしようもない。

by osho

「誰も道に迷うことはできない…」というのがいいですね。このブログでは何度も言っていることですが、不可能性の恩恵です。

不可能なことは、限りない救いだということです。もしも嘘をつくことができないのであれば、人生はもっともっとシンプルになるはずです。

<生>に目的地はない、というのは言い換えれば<生>そのものが目的地だからなのですね。

旅行に出かけて目的地に到着したら、そこにはもうどんな目的地も存在しなくなりますが、それと同じだと考えればいいのです。

ただエゴ(マインド)というのは、その仕組み上目的地がなければ生きていけないので、目的地に着いたとしてもまたすぐに次の目的地を作り出すのです。

そうやって延々と目的地へ向かうことをやめられないのです。そして目的地へ着けないと分かると、絶望したり後悔したり、自責するのです。

誰のどんな人生であろうと、今この瞬間が目的地なのですから、どこへも行くことができない、それは不可能なこと。

だとしたら、目的地のことはすっかり忘れて無邪気に<生>を楽しめばいいだけだということですね。

どちらでもないということ

何か凄く嫌なことが起きたりして、とても落ち込んでしまったり、あるいは絶望的な気持ちになると、人生って「血も涙もない」と感じるかもしれません。

その逆に、とても嬉しいことが起きて大喜びしているようなときには、人生にはやっぱり「温情」があるんだと思うかもしれません。

私自身、そのどちらも何度も感じたことがあるので、みなさんも同じ経験があるのではないでしょうか?

人間て勝手なものですね。都合がいい時には世界が優しいものでできているように感じ、不都合な場合には冷たく突き放されたように思うのですから。

その上で、そういったことが行き過ぎた後には、本当はどちらでもないのだと思い返すのです。

今となっては、存在の本質とは人間的な温かさや冷たさとは無縁であるということをはっきり感じるようになったのです。

どちらでもないということの清々しさを自覚できるようになると、歓喜することも苦悩することも減ってくるのです。

ちょうどそのど真ん中にこそ、真の至福があるということですね。

自分の不在を見る

汝自身を知ること。そしてあなたが知るその日、あなたは自己は存在しないことを知る。
自己は存在しないことを知るその日こそ、あなたは知ったのだ。内側にはまったき空がある。完全な空、乱れることのない静けさ、汚れなき静寂が。誰も存在したことはなかった。それは夢にすぎなかった。

by osho

内側には誰もいないという自覚。こんな不条理なことはないと思いませんか?誰もいないのであれば、誰が自覚するのかという疑問が湧くからです。

この不可思議さがどこからやってくるのかを見てみると、どうやら私たちはなにが起ころうと、それを認識している個人の自分がいると思い込んでいるのです。

何かを経験すると、それを経験した自分がいると思っているのです。歩く、走る、考えるなどのどんな動詞であれ主語が必要だと信じて疑わないのです。

石が転がる、犬が吼える、人が歩く、のような場合は主語があっても問題ないのですが、それと同様に私が歩くとすることが当然だと思っているのです。

こうしたことはすべて、私がいるということが当然のこととしていることからやってくる感覚なのです。

自分の当たり前を一旦脇に置いて、静かに内へ内へと入っていくとどうなるのか、それを見てみる時間を作ってみるといいかもしれません。

世間は連休の真っ只中、あなたはどんな時間を過ごすのでしょうか?

つかの間の真夏の夢

それに心を乱されてはならない。よく考えなさい。よく見つめなさい。それは大いなる秘密、覚者たちの大いなる秘密のひとつだ。すべては取るに足りない、つかの間の真夏の夢だということに、ただ油断なく醒めていることだ。それは過ぎてゆく。それはすでに過ぎてゆこうとしている。

by osho

夜見る夢というのは興味深いですね。それがどんな夢であろうと、自分の内面にないものは出てこないのですから。

相当に奇妙キテレツなものになったり、なにかがデフォルメされたりはしていますが、その要素となる元のものは自分のマインドの中にあるのです。

目覚めて夢から覚めれば次第にその夢のことは忘れていってしまうのが普通で、現実の世界へと戻っていくわけです。

けれども、目覚めた後もずっと夢の中で生きているような人もいます。街を歩きながら何やらブツブツ独り言を言ってる人をたまに見かけます。

彼らは現実の世界にいながらも、マインドのほとんどが夢の世界で生きているということですね。

そして正常な私たちはと言えば、朝目覚めた後はどんな夢も後にして100%現実の世界で生きている…、そう信じています。

ところが残念なことに、マインドの90%は夢の中にい続けるのです。潜在意識というのは夢の塊なのです。

自覚を持って現実を生きているのはたった10%に過ぎません。そして、↑上の文章によれば、人生そのものがつかの間の真夏の夜の夢だと言っているのです。

現実に即して生きているつもりでも、マインドの中身を外側に投影し続けているのです。だからそれを夢だと言われても仕方がないのですね。

私はそれを物語と呼んでいます。マインドが落ちた時に初めて、夢から本当に醒めて真実を見ることになるということです。

所詮夢ならば、気楽に生きればいいですね!

さあ、あなたも涼みなさい!

ある夏の日、草むしりかなにかをしているうちに、一休は疲れてきた。暑い日だったので、彼は寺の縁側にあがって、涼しい風にあたった。あまりに気持ちがよかったので、彼は寺のなかにはいり、仏壇から仏像を持ち出して、それを外の柱にくくりつけるとこう言った。
「さあ、あなたも涼みなさい!」

by osho

一休さんというと、トンチを出してくれる人という印象が強いですね。けれども、↑この逸話はいわゆるトンチではありません。

いくら自分が涼しい風に当たって気持ちよかったからと言って、仏像にあなたも涼みなさい、というのは変ですよね。

仏像はどこまでいっても仏像でしかないのですから。一休さんが言いたいのはきっとこういうことだと思うのです。

もしもこの話がおかしいと思うなら、あなた方も同じようにおかしなことを日頃やっていますよ、という暗示なのです。

つまり、私たちは誰かが作った仏像を仏の代わりにして、拝んだり有り難がったりしているのですから。

いわゆる偶像崇拝というものですが、それを普通にやっているのですから、仏像を擬人化したっていいじゃないかというわけです。

なんだか皮肉だなと思われるかもしれませんが、とても深い示唆を含んでいると感じますね。

難しそうな顔をして説教をするお坊さんはいくらでもいるのですが、それよりも余程機知に富んでいると思いませんか?