観ていれば巻き込まれない

 

今日はこの肉体精神機構は何を書くのだろう?と観ていたのですが、なかなか筆が進まないので、心を静かにして、意識を内へ内へと向けていました。

すると、この人生という物語の主人公としての自分から、少しずつ表面的なものが剥がれていって、そのうち自分を識別するための情報から遠ざかっていくのです。

それは結局過去から切り離されていくことであり、同時に未来からも切り離されて、人生という物語もどこかへいってしまいます。

そうやって残るのは、ただの何もなさだけ。時間も空間も、思考が作るあらゆる概念も消えていって、ここでは起きるなにものもない。

存在しているのか存在していないのかという範疇からも遠ざかって、言えるのはただ何もなさだけ。自分の中心近くまでいくと、そんな感じがするのです。

そして今そこから戻って来て、このブログを書いているという行為が起きているのを、やっぱりただ観ているのです。

観ることを忘れなければ、あらゆるものから切り離されて、決して巻き込まれるということがないのですね。悦びからも、痛みからも…。

 

覚醒について

意識的であるということは、気づいているということ。

その状態でいることができれば、すべての同化がはずれてしまう。

自己との同化、物語との同化、あらゆる同化がはずれるということは、それと切り離されるということ。

起きているあらゆる事象から切り離される。

それが覚醒ということなのですね。

何かをせずにはいられない

会社員の頃、職場の自分のデスクに正方形の黄色い大きめのフセンをいっぱい貼っていました。何か処理すべきことが起きると、それを貼るのです。

そして、それが処理済みになったときにようやく剥がすわけですね。似たようなことをしている人は沢山いると思います。

随時20~30枚は貼られていたと記憶しています。とにかく、1枚でもそれを減らしたいと常に思っているのですが、一つ処理したら二つ貼るというように、いつまでもフセンはなくなったことがありませんでした。

それで、それが1枚もなくなるときが来ることを密かに夢見ていたのです。フセンがゼロになったらどんなに気持ちいいだろうと…。

結局会社を辞めるまでは、実現することはありませんでした。ところが今この瞬間、フセンどころか心の中のどこを捜しても、何も用事がないのです。

するべきことが一つも見当たらない状態なのです。あの会社員の頃の夢は実現してしまったのですね。比較すれば、確かに夢のようです。

けれども、ただ今この瞬間を味わっていると、何もするべきことがないということが普通のことになってしまっているのです。

そうなると今度は、マインドが無意識的に何かすることを捜すようになるのです。エゴは何かしていたいのでしょう。

私は意地悪なので、何もすることがなければ、本当に何もしないでいてあげるのです。エゴは居心地が悪いようですが、それでも敢えて何もしない。

次にエゴが何をさせようとしてくるのか、興味津々です。

人生を予想しない

私たちは、小説を読んだりドラマを観ていたりするときに、この先どんな展開になっていくんだろうと、勝手な想像を膨らませて楽しむのです。

自分の予想が見事に当たることもあるし、まったく想定外の展開になって驚くこともありますね。いずれにしても、未来のことは分からないからこそ物語に魅力を感じるのです。

すべてが予想できてしまったなら、ヒヤヒヤしたりドキドキすることもなくなってしまい、これほどつまらないことはありません。

けれども自分の人生の場合はどうでしょうか?多くの人は、人生は安定したものであって欲しいと願っているのです。

心の中にある不安を自分の人生に投影してしまうために、安全第一主義になってしまうのです。そうなればなるほど、人生に魅力がなくなってしまうのは当然のこと。

人生を物語として見ることができるなら、先を予想できないことを不安として捉える代わりに、それこそが面白さだと感じることができるはずなのです。

そして更に言えば、人生物語の先を予想することさえやめてしまうのです。自分の目の前で今起きていることにのみ注目すること。

今日だけを十分に楽しむことができるなら、いつも新鮮な気持ちでその日を迎えることになるのでしょうね。

ただ気づけばいいだけ

人生にはどんな努力もいりません。ただ気づくだけでいいのです。それは例えて言えば次のようなことだと思えばいいのです。

とても会いたくて会いたくてどうしようもない気持ちでいるのに、その人に会えないでいるという状況をイメージしてみて下さい。

ところがふと気づいたら、自分のすぐ隣にその人が立っていることを発見して嬉しくなる、そういったことと同じなのです。

あなたが一番欲しがっているものは、外から手に入れる必要もないし、その方法では決して手に入れられないのです。

それはただ自分の本質に気づくだけでいいのです。何しろそれこそが最も欲していることだからです。では、気づけない理由は何なのか?

見ても気づけないように、目隠しをしてしまっているからです。その目隠しとは、エゴであり、エゴがこしらえた恐怖や罪悪感なのです。

そういったものが、邪魔をして目の前に初めからあるものを見せないようにしているために、気づけずにいるというだけなのです。

だから人生でやるべきことが唯一あるとするなら、生後作り上げてしまったあらゆる思い込みを全部脇へ置いて、妨害されずに前を見れるようにすることだけ。

そうやってただ気づけばいいのです。初めから宝物はあなたと一緒にあなたとして在ったのですから。

そういうわけにはいかない!

私たちの普段の何気ない会話の中に、「そういうわけにはいかない!」という言葉で出てくることが時々ありますね。

たとえば、

「もうあきらめちゃいなよ~」 → 「いや、そういうわけにはいかないよ」

とか、

「他人にどう言われようと、気にすることないよ」 → 「そういうわけにはいかない!」

のように、いくらでも状況を想定することができるのです。この言葉を使う多くの場面に共通しているのは、それが自己防衛からやってくるということです。

何かにこだわっていたり、執着があったり、信念を曲げたくないなど、とにかく融通が効かないマインドの状態の反映だと言えるのです。

そのすべてが、自分を守って安心したいという防衛が根っこにあるのは間違いありません。この言葉を使ったときには、要注意だということです。

「今日まで毎日欠かさず書き続けてきたブログだけど、今日でやめてしまえば?」→ 「そういうわけにはいかないだろ~」って言いそうです。

階段の1段目でウロウロ

垂直に立っている10段の階段があると思って下さい。その階段に上がる前の段階が動物だとすると、その階段を上りきったところが神の領域なのです。

階段の下にはあらゆる動物、あらゆる植物などがウヨウヨいます。ここは、100%無意識のエリアなのです。

動物は、少しばかりの思考とか、感情、気分などを持ってはいますが、いかんせん完全なる無意識状態なので、どんな心理的苦しみもありません。

そして私たち人間のほとんどは、その階段の1段目のところでウロウロしている状態なのです。ウロウロという意味は、上りもせずに下がりもせずの状態にいるということです。

そこにいて、何百万年も中途半端な存在として生きているわけです。非常に優れた才能を持った人であれ、とんでもない犯罪者であれ、1段目にいるのです。

ノーベル賞を受賞するような人物であろうと、寝たきり老人であろうと、どこかの国の大統領であろうと引きこもりの青年であろうと同じ1段目です。

いやいや、徳を積んだ自分は5段目くらいまでいっているはず、そう思うのは勝手ですが、残念ながらそんなあなたでも間違いなく1段目です。

実は、階段の途中で止まっていられるのは、1段目だけなのです。だから5段目とか、6段目で頑張っているなんて人はいないのです。

どういうわけか、その階段の2段目を上り始めたら、あっという間に10段目まで行ってしまうのです。それが階段の法則なのです。

だから自分はあの人よりも劣っているとか、自分の価値を見出せないと思ったりして、人と自分を比べることほど無意味なことはありません。みんな仲良く1段目で一緒です。

1段目にいると表現したのは、私たちのマインドの1割だけが意識的だからです。残りの9割は無意識的なので、ほとんど動物と同じレベルにあるのです。

そして意識の部分が増え出すと、つまり階段を登り始めると、そのこと自体が上昇を後押ししてくれるのであっという間に階段を上がっていけるというわけです。

10段目は、すべての無意識が失せて意識だけの純粋な状態になるのです。そしてこれまた残念なことに、階段を登るための直接的な方法というものはありません。

つまり努力の成果として階段を上がることは不可能だということ。私たちにできることは、ただ神によって階段を引き上げてもらうための準備だけを整えておくということです。

それこそが瞑想であり、できるだけいつも意識的に過ごすようにするということなのです。

 

間違った人生なんてない

人は何かしらの悩みや問題を抱えながら生きているものですね。そのことであまりに生きづらかったり、辛くて自分ではどうしようもないという場合もあるはずです。

そうして現状を何とかしなければ、もう人生が立ち行かないと感じてセッションにいらっしゃることもあるはずです。

あるいは比較的気楽な感じでセッションを受けようと思う場合もあるでしょうね。いずれにしても自分を何がしかの方法で癒して行こうとするのです。

それが癒しの取っ掛かりなのですが、真の癒しというのは「自分を何とかして改善していこう」という前向きな気持ちが消えて行くことなのです。

人生でうまく行ってないと感じている部分を変えていこうとするのは、勿論間違いではないし、少しずつでも理想の自分に近づこうとするのは、社会的には素晴らしいことです。

けれども、いつかはそうしたことも不要だったと気づくことの方がより本質的なことだということです。どんな人生であれ、間違った人生だとか、意味のない人生というものはないということ。

人の道を踏み違えたと思えたとしても、誰かをひどく傷つけてしまったとしても、何の役にも立たないどうでもいい人生だと感じてもです。

どう決め付けようがそれも勝手ですが、それでも「存在」はあなたを通じて人生を楽しんでいるのですから。それはもうほんのひとときの一種の戯れのようなものなのですね。

”ちょっと内側をのぞいてごらん”

ちょっと内側をのぞいてごらん
ちょっと何かの瞬間に
どこにも行かず
無欲望で
未来のことも考えず
過去のことも思わず
ただいまここにとどまっているだけ–
で、突然それはそこにある
それはずっとそこにあったのだ
そしてあなたは笑い出す

By osho

方便には使い道がある

真実のレベルから見れば、どんな言葉でそれを表現しようとしたところで、すべてが方便になってし
まうのです。

けれども、言葉を使わなければ伝えようとするきっかけも作れないということになってしまうのです
。だから、やはり言葉は大切なのですね。

明らかに、言葉による理解、つまり知的理解は単なるきっかけに過ぎないのですが、それがなければ
深い理解へと進むことも難しいのです。

だからまずは言葉による知的理解からスタートするわけです。結局、方便は方便と知りつつどうして
も必要なものなのですね。

そしてその理解をより深く深く内側へと浸透させていく中で、徐々に直感的な理解がやってきてくれ
るのです。

それこそが「気づき」なのですね。真の気づきには、疑う余地が残ってないのです。それは全身全霊
で知るということだからです。

それを通してのみ真実に触れることができるということ。その瞬間、こうした方便の塊のようなブロ
グは、消えてなくなってしまう運命にあるのです。