情報収集と後処理

私たちは自分の知覚を使って、外側で起きたことを見聞きしては、それについて何らかの判断や解釈をしつつ生活しているのです。

つまり、知覚とは情報収集とその後処理である判断、解釈の二つのフェーズから成り立っているということが言えるのです。

そしてその二つのフェーズがあまりにも密着しているために、あたかも一つのモノであるかのように錯覚してしまうのです。

何が言いたいかというと、情報収集と後処理のように分けて見ることができなくなってしまっているということです。

それはどんな弊害をもたらすかと言うと、実際に外側で起きている事実と、それを自分がどのように後処理したのかの区別がつかなくなってしまうということ。

事実が事実としてあるがままには見れなくなっているのです。そうして自分なりの見方というものを通して物事を見るようになるということです。

例えばコップに水が半分入っているのを見て、まだ半分残っていると見る人がいれば、あと半分しか残っていないと見る人もいるということ。

そのどちらも事実ではないということに気づいてはいないのです。「あの人にこんな失礼なことを言われた」ということがすでに、事実と後処理が混在していることに気づけなくなるのです。

この場合の事実は、「あの人がこう言った」ということであって、後処理の部分は、「私はそれを失礼だと認識した」ということなのです。

このブログでいつもお伝えしている「意識的でいる」ことによって、自動的にこのことに気づいていることができるのです。

外側で起きていることをできるだけそのままに見る訓練をすれば、自ずと自分の内面での後処理にも気づいていることができるようになるのです。

そうすれば、昨日のブログで書いた防衛についても、つまり自分の惨めさから遠ざかろうとしていることにも、しっかりと気づけるようになるのです。

辛くても、認めたくなくても、気づくことができればそこから癒しは必ず進んでいくのです。そして自動的に無防備への道を歩みだすことができるのですね。