信用の共有に気づく

あの人は信頼できる、という表現は厳密には間違っているのです。それはなぜかというと、あの人は信頼に足る人物だという意味合いが含まれているからです。

つまり、あの人のこれまでの言動を見てきた結果として信頼できると結論付けたということ。これは信頼ではなく、信用できるということを言っているに過ぎません。

信用するのは、何らかのそれなりの理由があってのこと。だからその人がもはや信用できないような言動をしたなら、即刻信用できないことになるのです。

これは信頼とは全く異なるものなのだということは、これまで何度となくこのブログでお伝えしてきました。信頼にはどんな理由も不要なのです。

ところで今日お伝えしたいメインテーマは、信頼と信用は違うということだけではありません。

私たちが生きているこの社会のシステムというのは、実は「信用」が根っこにあるということです。その信用をみんなで共有することで成り立っているのです。

そのことに気づかなければ、信用と事実を間違えてしまうことになります。そもそも経済の大元を担っているお金には価値があるというのも信用の共有なのです。

信用することをやめてしまえば、紙幣はただの紙切れだし、硬貨もそれに見合う価値などありません。

ですがみんなで貨幣の価値を信じ合うことで、貨幣経済が成立して便利な社会が出来上がったのです。

自我が作られていくときに、こうした信用の共有をたたきこまれたわけです。それが身近過ぎて、事実として理解しているのですね。

所有という概念も信用の共有によって成り立っています。あなたが長年の夢だったマイホームを買ったとしたら、それは自分の所有物だと思うはずです。

けれども、それは事実ではありません。この家は私のものだというとき、この家は他の誰のものでもないということを同時に主張しているのです。

だからそれも含めてすべての人がその信用を共有して初めて、所有が担保されるのです。所有というのは決して事実ではないということです。

もしもこの世界にあなた一人しか存在しなかったなら、あなたがその家を所有していると主張しても、そこには何の意味もないはずです。

あなたが日本人だというのだって、事実ではありません。なぜなら国籍というもの自体が信用の共有によるものだからです。

この世界に一人しかいないとしたときに、意味が失せてしまうものはすべて互いの信用の共有によるものであり、事実なんかじゃないと気づくこと。

なんでこんなことを言うのかというと、信用の共有が自我をしっかりと下支えしていることに気づくと、それだけで自我は足元が揺らぎ始めます。

自我の足場である信用の共有に気づくなら、自我と自我が作った社会の脆さが露呈してきます。

この時に、社会の中にいて社会に染まらない生き方ができるようになるのです。社会にすがるのも自我だし、社会を忌み嫌って離れようとするのも自我なのです。

今日から、ただ信用し合っているだけだったと気づきながら生きてみて下さい。自我の繁栄のカラクリが分かって、きっと生きやすくなるはずです。