惨めさを受容する

受け入れること、受容することが大切なのだということは誰もが知っていますが、それはなぜなのかを考えてみたいと思います。

誰しも受け入れがたいこと、あまりにも理不尽過ぎて、とてもじゃないけれどどうにもこうにも認められないというときがあるものです。

そんな時、マインドの中では何が起きているのでしょうか?いろいろ考えられるかもしれませんが、ズバリそこには惨めさがあるのです。

それを認めてしまうととても自分が惨めに思えて辛くなるのです。その惨めさから逃れたくて受け入れられないという状態になるのです。

結局一番受け入れ難いのは惨めさだったわけで、つまりはそれさえ認めてしまえば他のどんなことでも受け入れることができるのです。

自分は惨めだという思いを存分に見てあげて、そこからやってくる悲しみやあらゆる辛さから逃げずにいられるなら、マインドの受容能力が開花します。

惨めさを受容してしまえば、それ以外のあらゆる事柄のことも受容できるようになるということです。

元々惨めさから逃げることで防衛していたので、惨めさから逃げずにいてそれを受容するなら、人は無防備へと近づいていき、その分だけ人生の不満も不幸も小さくなっていくのです。

惨めさと戦わなくなったとき、自我の力は尽き果てて隠れていた愛が顕れてくるのでしょうね。

自然体に戻る

生まれる前には、自分というのはいませんでした。そして死んだ後もきっと自分はいないはずですね。

それが自然の法則です。であるなら、その真ん中のほんの束の間にだけ自分がいるというのはどうも怪しい気がしませんか?

それこそ自然かと言ったら非常に不自然極まりないのです。「いない→いる→いない」という流れはやっぱり不自然です。

一番自然だなと思えるのは、「いない→いない→いない」という流れ。流れというよりも元々いないものは、ずっといないままであるのが自然なのです。

つまりは、自分という個人は作り物だということです。初めからいないし、途中でもいない、そして終わりでもいないのです。

それをじっくり味わってみると、当たり前過ぎて笑えてきます。自然か不自然か、どちらを取るかと言えばもちろん自然の方でしょう。

だからどれほど不愉快であろうと、どれだけ残念に感じようと、あなたはいないのです。それが腑に落ちたとき、肩の力が抜けて、自然体に戻るのです。

「なる」ことと「ある」こと

私たちは常に「なる」ことを考えています。子供の頃からどんな自分になりたいのかを考えさせられましたね。

将来の希望とか私の場合はなかったのですが、卒業文集なるものに投稿しないといけないので、何とかでっち上げで書いた気がします。

もちろん将来の自分像がはっきりしている人の場合はそんなくだらない悩みなどなかったことでしょうね。

心の深いところで人生に対して文句を抱いていると、未来のことなど真剣には考えることが難しくなるのだと思います。

幸か不幸か私の場合はそんな感じで、どこかでひっそりと絶望していたので、目には見えない何かへの探求の方に興味が向いたのです。

で、はたと気づきます。そうだ、何かになるということが大切なのではなく、ただ在るという存在の不思議さを感じてみようと。

社会を肯定したり否定したりする代わりに、いつも一緒にいる自分という存在を見ることにしたのです。

いわゆる内省のような自我を見ることも非常に大切ですが、それとは別にただ在る自分を見ることはより真実に近づく方法だと分かったのです。

と同時に、存在を見て感じることは「なる」ことからは想像もできない静寂の中へと入って行けるのです。実践するしかありませんね。

「したい」には2種類ある

私たちは何かをする時、概ね2つの理由からするのです。1つは純粋にしたいからするという場合、もう1つはするべきだからするという場合です。

単にしたいからするというのはとてもシンプルですね。無邪気な子供たちはこのしたいからするで行動している場合が多いです。

ところが大人になると、諸事情によってそうもなかなか行かなくなるのです。仕事なんてイヤイヤやっている場合も多いのではないでしょうか?

それが2つ目の場合です。するべきというのは、お金を稼がなければならないからとか、他人から否定されたくないからとかいった理由が考えられます。

つまりは自己防衛からするということです。したいからするという一つ目の場合のちょうど真反対なのです。

けれどもこの2つの場合の違いが明確になっているのであればまだいいのですが、2つ目を1つ目と錯覚してしまうことが多いのです。

要するに、防衛からしていることなのに本人はそのことに気づかずに、自分はそうしたいからしているのだと勘違いしているのです。

たとえば、あるボランティア活動に興味があって、それをしたくて始めたのであれば、それは一つ目の場合に該当します。

ところがしばらくすると、そのボランティア活動をしている自分が価値があるのだと思うようになったとしたら、その活動はもう防衛でしかないのです。

本人はそのことに気づかずに、それをしたいのでしていると思い込み続けるのです。こうなると防衛の裏で必ずや自己犠牲が発生することになるのです。

自分は好きなことをやっているのだという錯覚によって、自己犠牲をドンドン重ねてしまうなら、鬱々とした毎日がやってくることになるかもしれません。

やりたいからやっていると思っていることでも、本当にそうなのかじっくり見つめてみる必要があるということですね。

無邪気さを取り戻す

事務所から歩いて行ける距離に広い公園があるのですが、そこの子供用の低い鉄棒で逆上がりを試してみたら、とんでもなく無様な姿でした。

子供の頃はごく当たり前にできていたのに。以前は蹴上がりもできてたので、やろうとしたら全くその姿勢になることもできず。

こんなはずじゃないと誰かが内側で叫んでいました。子供の頃の記憶の通りにできるものと思っていたのですが、どうにも身体が重すぎる。

誰かをオンブしたまま鉄棒をやっているかのような感覚。あの頃は今のような筋肉があったわけでもないのに、今の何倍も身が軽かったのですね。

きっと毎日毎日ただ楽しむために鉄棒と戯れていたことで、鉄棒が身体に馴染んでいたのだろうと。

大人になってする筋トレは、あれこれと目標があったりするのですが、子供の鉄棒にはなんの目標もなかったのですね。

大人になると何かにつけて損得を考えてしまい、打算的になってしまうので、その分だけ純粋に楽しむことが減ってしまうのかもしれません。

これだけトレーニングしたのだから、このくらいの成果が出て当然だろうと言った考えがすぐにやってくるのです。

子供の頃のあの無邪気さを思い出して、日々生きていきたいものですね。

集団催眠にかかってる

人類の歴史の何処かの辺りで奇跡が起きたのです。それまでは他の動物と同じように無意識状態で生きていたのに、ほんの少しだけ意識が覚醒したのです。

それはきっと自我の芽生えた時期と一致するのではないかと思っています。どちらかと言えば、先に自我が生み出されたことで、一人称の意識が目覚めたのです。

それは奇跡中の奇跡であり、自我の発達と共に社会が作られ、その社会がまた個々の自我を育てていくという循環を起こしたのです。

少しオーバーな表現に聞こえるかもしれませんが、それはまるで全員が集団催眠にかけられているようなものなのです。

誰もが共通した幻想を抱くようになったのです。自分は他とは分離した固有の存在であるという思い込み。

自由意志がある自律的な存在であり、社会の一員として生きているという妄想を共有しているのです。

自分を自我だと思い込んで生きている限り、つまりはあなたという個人がいる限りは、真実は隠されたままになってしまうのです。

もしも真実を知りたければ、自我というのは思考によって成り立っている一つの仕組みに過ぎないということを見抜くこと。

あなたがこれが自分だと信じているあなたはいないのです。あなたの本質は自我ではないと気づくとき、すべての問題は一瞬にして問題ではなくなってしまうでしょうね。

難攻不落の砦

私のようなセラピストというのは、普段セッションやブログなどで何か偉そうなことを言っているようでいて、本当は自分ひとりでは何もできません。

セッションでは、クライアントさんの協力がなければまったくの無力者なのです。協力があって初めてセッションは成立するのです。

もしもクライアントさんが、私との話しの内容に興味を持てなかったり、自分には該当しないと思ってしまったら、どうすることもできないのです。

たとえばお医者さんであれば、患者さん側で特別そのお医者さんへの協力体制などなくても、それなりの診察はできるはずですね。

一方で心理療法においては、一ミリも効果は期待できなくなってしまいます。セラピストにとって難攻不落のクライアントさんが時として現れることがあります。

どこからどうつついて見ても、鉄壁の防衛によって内側を隠されてしまえば、何もすることができません。

たまにはそういうこともあるものです。内側に入らせてもらうことができなければ、セラピストは無能なのですね。

潜在意識に光を当てる

まだ大人にはなっていなかったと思うのですが、ある時海に行って調子良く沖に向かって泳いでいたのです。

すると、突然それまで近くに見えていた海底が消えて、底無しの状態になったので急に怖くなって引き返してきたことがありました。

きっと平だった海底が、その部分で崖のようになっていたのだろうと思うのですが、底が見えないというのは何とも不気味な恐怖を感じさせるものがあるのですね。

それと同じように、私たちは自分の内側を見るときに、自分とはこんなものだと考えて心の底が意外に浅いもののように感じているので怖くないのです。

もしそれが内面を深く探っていってどこまでいっても底無しの様相を呈してきたら、空恐ろしく感じて探求をやめてしまうでしょう。

私はそれこそが自我の作戦なのではないかと疑っています。つまり、そうやって奥深くを見せないようにして自我の正体を隠し通そうとしているのです。

本当は心の底などなく、私たちの中心には何もないのです。自我というのは中心を持った確固とした実在などではないからです。

それがバレてしまったら自我は胡散霧消してしまうのです。それは自我の死を意味するので、怖くて見れないようにしているということです。

大変な恐怖にも負けずに、勇気を持って潜在意識の部分を見に行けたら、自我と一緒に人生も消えていくのかもしれませんね。

実在を見る

私の中には、この世界この人生はすべて夢に違いないと思っている部分があるのを感じるのですが、それはあまりにも荒唐無稽です。

なのでここでは、世界は実在するということを前提で話しを進めていきますが、実在というのは私たちが見ているように在るのではありません。

つまりこの世界には、実在するものと私たちが知覚によってこうだろうと解釈しているものの二種類があるということです。

先に実在しないものを明らかにした方が分かりやすいかもしれません。例えば、物語は実在とは無関係であることは明らかですね。

あるいは物事の価値とか意味、歴史、善悪等々。私たちが日頃関心を寄せているものほど、実在しない側のものだということが分かります。

それらがなければ人生物語が成立しないもの、その一切合切が思考によって仮想的に生み出されたものなのです。

結局私たちが毎日生きている世界とは、思考によってあたかも存在するように見えるだけで、実在してはいません。

思考を排除した状態で、つまり澄んだ目で周りを見回したときに一体何が見えるのでしょうか?

これは言葉で伝えられることではないので、興味があればご自身で体感してみることです。練習次第では、長く瞑想などせずともすぐに見えるようになるはずです。

自我が抵抗すること

私たち人間は、いつも何かが足りない感じがして、何かに不服を感じて、そういったものを満たして充足しようと思い続けています。

欲望というのはそのようにして出来ているのです。ところがいざその欲望を叶えてしまったら、一時の充足感はやってくるものの、またすぐに次の不満がやってくるのです。

あれが手に入ったら、これが出来るようになったら、それが実現した暁には…が次から次へと浮かんでくるのです。

結局どんな希望が叶ったところで、満足感が長続きすることは決してなく、すぐに新たなものを目指して進み始めるのです。

こうしたことに気づき、もうこんなことの繰り返しは嫌だとなったら一体どうしたらいいのでしょうか?

実はたった一つ、もうこれ以上満たされる必要を感じない状態になれることがあるのです。

それは自分のことをすっかり忘れて、誰か(何か)のためだけに生きるのです。つまりマインドの代わりに、無私という愛によって生きること。

そうなったらどんな不満も発生せずに、キラキラと毎日を過ごせるようになるはずです。が、自我はそこには行きたくないと言い張るでしょうね。