目覚めた意識でいる その3

目覚めた意識から人物としての自分を見ると、それがただの記憶の集まりであることが明白になってしまいます。

私たちは、これまで生きてきた体験を通して、その一つひとつをまるで張りぼてに糊のついた薄紙を張っていくようにして、自己像を作り上げてきたのです。

本当に中身といえるものは、何もありません。なにせ、記憶の塊でしかないのですから。それはすべて過去であり、未来と同じように実体のないものです。

あるとき、瞑想していてそのことに気づいたとき、でっち上げられた自分像が本当に張りぼてのようにあっという間に崩れていって消えてしまったイメージを見ました。

それはとても清々しい光景でした。いい面も悪い面もすべてが虚像でしかなかったと気づくことほど、助けられることはありません。

自分を何とかして、もっと理想に近づけなければとか、駄目な部分を少しでも改善してもっと人格を磨いていかねばという、重たい想いが消えてしまうのですから。

消えるというか、もっと正確に言えば、そういう想いがあったとしてもそれすらOKだということに気づくということです。

肉体がある間は、人物としての人生を生きていくように思えることが続いていくことでしょうね。けれども、それを限りなく深い慈しみの目で見る目覚めた意識が在るのです。

だから、私たちは過去や現在がどれほど惨めで苦しいものであろうとも、本質的には大丈夫なんです。完全に救われているのです。

目覚めた意識への信頼が深くなればなるほど、たとえようのない完璧な平安さこそが、私たち自身だと気づくのですから。