思考の解説を事実と見なしてしまう

ある事象が起きて、思考がそのことを解説するのですが、私たちは起きた事象そのものではなくて、思考による解説の方を事実と見なすのです。

美しい大自然の景色を目にして、言葉を失う体験をしたことが誰でもあるはずですが、そのときには、思考はどこかへ行ってしまっています。

そのときばかりは、私たちは思考によらないただの事象を直接体験することができるのです。それは、感動を与える体験になるかもしれません。

けれども、普段の何気ない生活の中においては、私たちは残念ながらただの事実よりも思考による解説の方に力を与えてしまっています。

だからいつも、心の中でブツブツとつぶやいているのです。思考は大概言葉を使って解釈をするものだからです。

交差点の赤信号に足止めされているとき、早く青に変わらないかなあと思いながら信号機を見つめているとします。

信号が青に変わったと同時に歩き出すとしても、そこに思考など使ってないと感じているかもしれません。

でも、その短い間に私たちの思考は信号が青に変わったという解釈と、歩き出していいという結論を導き出すのです。

自信を持って断言できますが、「信号機が赤から青に変わった」という事実はありません。それは、事実ではなくて思考による解説なのです。

物事がただ起きているという事実に着目することができると、行為者としての自分という存在は、事実ではなくて思考による産物だったと分かるのです。

自分とは何と儚い存在なんでしょうね!

真に都合の悪いことなどない

人生にはどうしても避けることのできないことがあります。それは、自分にとって都合のいいことと都合の悪いことの両方が起きるということ。

そのことを無視してか、あるいは忘れてしまって、私たちは自分が望むことばかりがずっと続いてくれるといいなと夢想しているのです。

それが苦しみの根源であることにも気づくことです。ではどうすればいいのかということですが、一つだけ方法があります。

それは、都合の悪いことと感じるのは自分の単なる決め付けに過ぎなかったと分かればいいのです。

都合の悪いことが厳然と自分の外側に起きているという事実はありません。自分自身がただそう評価しているだけなのですね。

そして、その今まで都合が悪いと決め付けてきたことを白紙の自分になって、ただ受け入れてみると、思いもよらなかった発見をするかもしれません。

見るのも嫌だと思っていた虫の色に感動するかもしれないし、決して耐えられないと感じていたことに、耐える必要がなかったのだという新しい気持ちと出会うかもしれないのです。

都合の悪いことに対して、自分の中にあった拒絶感をあるがまま見てみると、ありもしない恐怖を握り締めていたことに思い当たるかもしれません。

真に都合の悪いことなどない、ただそう在るだけだというシンプルな気づきがやってくることは、なんてラッキーなんだろうと思うのです。

自己が在るという気づき

科学的であろうと、非科学的であろうと、私たちは何かをコピーするということを理解できます。まったく同じものをもう一つ以上作るということです。

実際にあり得なくてもいいのです。そういうことができたとしてもおかしくはないという感覚を誰もが持っているのです。

けれども、この世界でたった一つだけ、それをコピーすることはできないと言わざるを得ないものを知っています。

それはたった一人しかこの世にいない自分という存在です。なぜ、自分だけはコピーすることができないと感じるのでしょうか?

他人をいくらコピーしても問題ありません。でも自分は不可能なのです。なぜなら、どの自分も自分だとは決して思えないからです。自分は一人でなくては困るのです。

自分の経験や記憶をコピーすることは可能でしょう。肉体にしても、知識にしても、思考にしても、そんなものはいくらコピーしても大丈夫。

コピーできては困るもの、それは「この私」というこの感覚、それは唯一無二のものであって複数あるなんて決してあり得ないと感じているということです。

けれども、それは本当でしょうか?すべてのコピーされた自分が同じように、「この私」という感覚を持っていても問題ないですね。

私たちがコピーできないと感じているものとは、実は、個人としてのこの私という感覚ではなくて、「私は在る」という本質的な気づきのことだったのです。

それは決してコピーすることができません。なぜなら、それは全体性だからです。全体性をコピーすることはできないのですから。

つまり、私たち一人ひとりが感じている、「私」という本質は個別性ではないということです。地球上の70億人がそれぞれにそれを感じているとしても、それは一つのものだということです。

それは、「自己が在る」という気づきです。

何も知らないし、誰もいない

何であれ理解しようとするのが思考の習性です。それはそういうものなので、そのことにいいとか悪いということはありません。

ただし、そこに理解する自分というものが思考の中に出現したとたんに、やっかいなことが起き始めてくるのです。

つまり、理解を深めていっている自分がそこにいるという錯覚が、問題を引き起こすことになるということです。

理解しようとする思考の傾向を利用して、その主人と化した自分という思考が、理解することを自己防衛の手段として用いようとするからです。

自分は今までにこれだけのことを理解できたとして、一時の安心を得るのですが、その安心はすぐに不安へと戻されてしまいます。

したがって、次々と理解を進めていかねばならなくなってしまうのです。そうやって、私たちは理解することがすばらしい価値のあることだと錯覚してしまうのです。

けれどもその理解とは、思考の中だけに通用するゲームのようなものです。ひとたび、思考から離れてしまえば理解は一瞬にして消えてしまうのですから。

そのとき、理解していたと思っていた対象物も、理解したはずの張本人としての自分すら、なくなってしまうことに気づくことになります。

それは最初のうちは大変なショックだったり、恐怖を感じることになるかもしれませんが、次第に無限の安らかさへと導かれるはずです。

何も知らない、誰もいないということの本質的な静寂さに気づくとき、それが本当の救いとなるということです。

呼吸と思考の関連

みなさんは呼吸をすることが好きでしょうか?普段殊更には意識しない呼吸でも、水泳しているときには息継ぎがとても大事に思えます。

口と鼻が水中にあるときには、自由に息を吸うことができないからですね。泳ぎはそれほど得意というわけではありませんが、息継ぎが気持ちよくできるようになると、いきなり楽に泳ぐことができるようになります。

100℃のサウナの中でも呼吸しなければ死んでしまいますから、普通に呼吸はしているのですが、それでもさすがに鼻腔が熱さで痛くなることもあります。

そういった特別の状態を繰り返し経験させてあげると、正常な状態での呼吸が如何に気持ちのいいものかということに気づけます。

自分は呼吸することが好きなんだなあという実感が湧いてきます。ゆっくりと息を吸うと、空気が肺の中に入っていって、肺の細胞が喜びいさんで酸素を取り込もうとしている気がします。

そして今度は息をゆっくり吐いていくと、次第に思考が緩やかになっていくのを感じることができます。不思議なことに呼吸と思考は関連しているのです。

もしも、どこまでも息を吐き続けることができたなら、だれでもあっという間に無念無想になってしまうかもしれないと感じるくらいです。

それは、思考と思考の狭間の無限の深遠にまで落ちていくような感覚であり、深海まで太陽光線が届かないように、そこまでは思考は届かない絶対的な無の場所です。

そこにこそ、本当の自己の広がりが在るのですね。みなさんは、呼吸することが好きと感じるでしょうか?

受け止めるか、乗っ取られるか

大人になった自分の理性で判断すれば、どうも大人気ない考えだなとか、大人気ない行動をしたなと思うときには、間違いなくインナーチャイルドのパワーに乗っ取られていたのです。

やっと決意した禁煙が三日しかもたなかったとか、瞑想しようとすると、どういうわけかすぐに寝入ってしまうとか。

思い返してみればいくらでも思い当たることがあるはずです。彼にメールしてもすぐに返信が来ないと、気になって仕方ないとか。

電話をかけても出てくれないので、何度も繰り返しリダイアルをし続けてしまったとか。異常な心配性や、過度の潔癖症などもみんな同じです。

要するに、自分の理性の力とインナーチャイルドのパワーの綱引きが起きて、インナーチャイルドが勝てば、大人気ない言動を起こしてしまうのです。

子供のパワーに負けないための一つの方法は、大人の自分がインナーチャイルドの思いを全身全霊で受け止めてあげることです。

分かってもらえないからこそ暴れてしまうのですから、その強烈な衝動を起こす基となっている気持ちを丸ごと受容するのです。

本気でそれができたなら、子供のパワーは必ずや小さくなっていくはずです。その過程においては、自動的に大人の現在の身体を使って、その感情のパワーを味わうということも起きるでしょうね。

しっかり受け止めてあげるのか、無視を決め込んでいる隙に後ろから乗っ取られてしまうのか、それはあなた次第なのです。

必要とされることを渇望する心

私たちは誰かに必要とされることで、充実感や満足感を得ることができるし、喜びを感じることもできます。

必要とされているという感覚は、相手の役に立つ自分でいられるわけですから、自然とやる気も充満してくるかもしれません。

誰からも見向きもされなくなったら、とても悲しくなるのは人情として当然です。世界中の人に必要とされなくても、誰か一人でもいいから必要として欲しいと望むのです。

子供が生まれると、赤ちゃんは何から何まで親に依存せずには生きていけないので、親は自分が必要とされていることに喜びを感じるのです。

けれども、必要とされるということは、相手にとって都合のいい存在だという面もあるということに気づくことができますね。

あなたなしでは生きていけないと誰かに言われて、喜んでばかりはいられません。なぜなら、それは~をちょうだいと言われているのと同じだからです。

本当の愛は要求することの代わりに与えるのです。何かを必要とする代わりに、あるがままを受け入れるのです。

必要とするというのは、愛への渇望です。であるなら、必要とされたいと願うのは、~をちょうだいと同じ気持ちだということに気づけます。

必要とされることを渇望しているということですから、そこには愛は存在しないと分かりますね。でもそんなことは構わないのです。

そういう自分の心も受け入れてしまえばいいだけです。気づかぬうちに、与えている自分がいるということにも、きっと気づくときがやってきます。

自己否定は万能な防衛策

人は幼いときに、何か否定的なエネルギーを感じると、それを自分のせいにしてしまいます。きっと自分が悪いからだと。

そして、そのエネルギーが直接自分へ向けられているとなったら、なおの事やっぱり自分が駄目だからだと確信してしまいます。

そうしたことが繰り返されていくうちに、固い固い信念と化してしまうのです。そうなると、心は二つの方向へと分離するのです。

その一つは、自分への駄目出しをいつまでも続ける方と、もう一つは駄目じゃない自分を創ろうと必死になり、それだけでは足りずに誰かを否定しようとするのです。

前者の場合には、何があっても自分を責めるようになってしまいます。自己否定と罪悪感のオンパレードになってしまうのです。

それはまさに理不尽の極致といってもいいかもしれません。親の仲が悪いのも自分のせい、それを助けてあげられないのも自分の力不足。

誰かの役に立てない自分も駄目だし、人に理解してもらえないのも自分のせい。受け入れてもらえない駄目な自分や、人に本当はやさしくできないのも自分が悪い。

つまり、どんな困った事態であろうとも、「自分が悪いから」ということで全てを闇に葬ってしまうということです。

勿論、その実は何も解決することもできません。「この自分が悪い」というのは、本人もおかしいなと感じることはできたとしても、なかなか止めることができなくなってしまいます。

ちょうど、麻薬はいけないと分かっていながらも止められなくなってしまうのに類似しています。ただし、こうした生き方はいずれ放っておいても、もう一つの誰かを責める側へと転換します。

それは、自責を繰り返すことで心の奥底に膨大な怒りが蓄積されてしまうからです。その怒りがエネルギーとなって相手をひどく否定せざるを得ない状態へと移るのです。

どちらも自己防衛の成せる技です。その自己防衛を客観視する目を養うことが必要なのだと思います。

自分という幻想が他人を作る

とある天才科学者が、物体の瞬間移動を可能にするマシンを開発しようとして、どうしたわけか、物体をコピーするマシンを作ってしまったという映画がありました。

そのマシンを使って、絶対にタネが分からない(当たり前ですが)、人の瞬間移動を行うマジシャンの物語なのですが、ここで深刻な問題が発生してしまうのです。

つまり、自分がそのマシンにかかると、自分が二人できてしまうのです。一人は、そのままマシンのところにいる自分、そしてもう一人は近くの別の場所に出現する自分です。

別の場所に出現した自分は、観客から見れば瞬間移動した自分として観てもらえるのですが、マシンのところにそのままいる自分は邪魔な存在になってしまいます。

そこで、マシンのところにそのままいる自分は、見つからないように瞬間的に床から下に落ちて、そのまま水槽の中に入って溺死するというような設定にしたのです。

そうすれば、マジックはうまくいくし、本人は今までどおり一人として生きていけるのです。ただ残念なことに、毎回溺死する自分の片割れがいるということです。

観客は大喜びし、マジックショーは大成功を収めたのですが、映画の最後の方で、そのマジシャンが行った言葉がかなり印象的なのです。

それは、そのマジックをやるときに、毎回この自分は一体どちらの自分となるのか、怖くて仕方なかったといったのです。

つまり、瞬間移動を成功させて拍手喝さいをされる自分として残るのか、それとも誰にも姿を見られることもなく、水槽の中で苦しんで溺死する自分になるのか。

この言葉を聞いたときに、自分が個人として生きていることの矛盾を感じたのです。この問題は、そのまま私たち自身の現状を表しているように思えるのです。

自分を個人だと認識することになってしまったために、世界中にいる70億人を自分ではない人としてしか捉えることができなくなったのですね。

とてもややこしい感じがしてしまうのは、個人という思考がとんでもない発想だからなのだと思うのです。

あなたはあなたが自分で思っている人とは違う その3

by Gangaji

昨日のつづきです。

あなたは本当は誰ですか?あなたとは、あなたの頭の中に現れるイメージですか?身体が感じる感覚ですか?それとも頭や身体を通り過ぎる感情でしょうか?

誰かほかの人があなたはこうだと言った、それがあなたでしょうか?あるいは誰かほかの人にあなたはこうだと言われたことに対する反抗、それがあなたでしょうか?

これらは、様々な自己誤認の仕方の一部です。こうした定義はみな、来ては去り、生まれては死んでいきます。

でも本当のあなたは来ることも去ることもありません。それはあなたが生まれる前から存在し、生涯を通してここにあり、そして死んでからも存在します。

あなたという存在の真実を発見することは、可能であるばかりか、あなたに与えられた当然の権利です。

その権利を否定する考え ― まだそのときではないとか、自分にはその価値がないとか、自分にはその準備ができていないとか、自分はすでに自分が何者であるかを知っているとか ― はみな、理性があなたを騙そうとしているにすぎません。

「私」という思考を追求し、それがいったい本当にどれほどの妥当性を持っているか検証してごらんなさい。

この追求の中にこそ、すなわちあなたである意識的知性がついに自分自身に気づく可能性があるのです。