期待に応えられないという恐怖

自分はずっと昔から、なんというか人に何かを頼まれることが嫌いという面がありました。今でもそれはそのままに残っているようです。

「○○ちゃん、あれ買ってきて頂戴!」と言われて素直に「うん」と言ったためしがないのではないかと記憶しています。そのくせ、人への頼み事は得意というか大好きで…。

だから、誰かのために率先して何かをやってあげるということも不得意という感覚を持っています。頼まれごとがあると、不思議な億劫感覚がやってくるのです。

面倒くさいの極地というか。そして、それを忘れていつしか安請け合いしてしまうことも多々あるのですが、いざとなると引き受けたことを後悔するのです。

ずいぶんと不親切というか、わがままというのか、その辺は立派なエゴ満載なんだろうなと思っていたのですが、もう少しじっくりと頼まれごとが苦手な心の奥を覗いてみると、意外なことに気づきました。

それは、相手から依頼されたことを期待通りにできなかったらどうしよう?という不安があるということです。うまくできて感謝される喜びよりも、失敗して期待に応えられなかったときの恐怖の方が大きいということですね。

人に感謝されたいという欲求が特別大きいわけではないというのも気づいていましたが、期待を裏切ることの恐れがかなり強いということには、はっきりと気づけていなかったのです。

だから、言い訳になるかもしれませんが、ただ不親切ということではなくて、相手が見込んだだけの能力を自分は発揮できなかったということがバレるのがいやなのだということです。

自分の心の奥を見つめてみることは、いつになっても新しい発見があって、本当に面白いものですね。表層だけを見て、やれ不親切だとか、愛がないとか、薄情だとか安易に決めつけないことですね。

で、最後に残ったのは、どれだけ怖がりなんだろうということです。やっぱり、心の深いところで「いていいかどうか」の自信が薄いのかもしれません。

つまり、存在価値に気づいているかどうかということです。もしも、自分の存在価値にしっかり気づけていないとしても、大丈夫です。それも、人生という物語の一つの側面でしかないのですから。

今のためにこそ今がある

あなたが子供のときに、「○○ちゃんは、大きくなったら何になるの?」とよく聞かれたと思います。そんなとき、あなたは無邪気に分からないと答えるか、相手の期待に応えて「○○になる」と言ったりしたはずです。

いずれにしても、そうした子供への問いかけが繰り返されるたびに、子供は自分は何かにならなければいけないのだということを教えられてしまうのです。

そうして、成人するころになると、少しずつ本気で考えるようになるのですが、そう簡単に自分の将来を決められるはずはありません。それほどの体験もしていないのですから。

社会の一般常識的にも、自分の将来を明確に描くことがよいとされています。何の目的もなく、その日暮らしのような状態では、誰も評価をしてくれません。

社会やこの世界が一丸となって、未来に向けて今日を生きるように仕向けてくるのですから、落ちこぼれないようにと誰もがエネルギーを使うようになるのも当然のことかもしれません。

けれども、実は私たちはどこへも向ってはいないのです。仮に到達点を設定したとしても、それはクリアした途端に次の目標を必要とするのですから。

未来のために今があるとする生き方では、どこまでいっても満たされるということがありません。それは間違いなくエンドレスだからです。

本当は、今のためにこそ今そのものがあるのです。そして、今とは私たちの本質なのです。それは、永遠不滅であり、時空を超えた何かです。

そこに意識を向け続けるなら、改善や進化のないところから、それを望んでやまない個人としての自分を抱きしめてあげることができるのです。

———————–

by クリシュナムルティ

「人生の最大の障害物の一つは、何ものかに到達し、何事かを達成し、何ものかを獲得しようとして行なう不断の努力である。」

———————–

瞑想的に生きる提案

あなたは、自分の心の中にあるものがすべて過去によってできているということを知っているでしょうか?何かの思い出に浸っているとき、昨日の誰かの心ない言葉に口惜しさが込み上げてきたとき、そのネタが過去にあることは誰だって知っていますね。

けれども、過去を想起するようなこともなく、今目の前にいる人の言動に腹を立てているときも、独りぼっちで寂しいと感じているときも、実は心の中は過去で満たされているのです。

つまり、周りで起きていることがたとえ今この瞬間であったとしても、それにどのように反応するかという心の在り方を決めているのは、過去なのです。

そして場合によっては、今この瞬間に明日のことを心配しているとしても、それも過去から直接やってきた不安が根っこにはあるということです。未来のことを思い煩うのも、過去の心なのです。

このようにして、心は過去によって出来上がったものであるということがわかります。過去から出来ている心は、都合のいい体験を未来にも期待し、都合の悪い体験を未来から排除しようとするのです。

実は、それが私たちの苦しみの根本原因なのです。なぜなら、通常は心が期待するような未来がそのままやってくるということはあり得ないからです。

もしも期待通りの未来がやってきたという体験をすると、次からはもっと強い期待を未来に対してするようになり、いつかはその期待が裏切られて辛い思いをすることになります。

心というものはそれが仕事みたいなものなので、どうしようもありません。心の中で発生する思考も感情も、すべては過去と未来の申し子でしかありません。

それを否定するのではなく、それを何とかして意識を今に向けようとするのでもなく、ただそんな自分の心を見ている立場になればいいのです。

あなたの大切な心を改革しようとしないことです。なぜなら、その改革の原動力は間違いなく過去にあるからです。心に対して何もしないことです。

何もしないということは、結果としてただあるがままを否定することなく見るということです。見ている自己は今この瞬間にあるのですから。それが、瞑想的に生きるということなのですね。

何が起きたかよりも、どう反応したかを見る

一日のうちで一番心が静かになるときがやってきました。毎日、夜12時近くなって、ブログに何を書こうかなと思って、ただパソコンの前にいる時間がとても落ち着くのです。

今日という一日を過ごしてきた中で、どんなことがあったかなあと考えるというよりも、その時々に自分の心の中にどんな感情や気持ちや思いなどが湧き上がってきたんだろうと見る癖がついています。

そしていつものことながら思うのは、人物としての自分はどうやったって浅はかだし、自分を何とかいいように見せたいし、誰かと比較して喜んだり落ち込んだり、そんなことの連続だなと。

そこのところは、この先もきっと救いようがないのでしょうね。少し大人になったと思ったり、成熟したと感じたり、依然としてダメなやつだと感じて見たり。

それも含めて、人物としての自分なのです。ありとあらゆる感情、思い込み、信条、信念、訴え、欲望、判断、否定、そういったものがごちゃっと渦巻いているのがよくわかります。

けれども、本当の救いとはそれがすべて人物としての自分がいるという思考の土台の上にでっちあげられたものに過ぎないということです。

でっちあげられた自分をただ見守るこの自己とは、あなたの本質でもあるのです。そのことに気づいている人もいるし、気づいていないで生活している人もいます。

どちらでも問題ありません。なぜなら、所詮はたった一つのなにものでもない自己がただ在るだけだからです。ここ数年は、もうこんなことばかり書いてきました。

もう、書くことはないんじゃないの?と思うのですが、それでもこうしてまた同じことを繰り返して書いているのですから、きっと好きなんでしょうね。

興味のない人は、きっとわざわざ読みに来ることはないでしょうから、うざいと思われたとしてもまあいいことにしようと思います。

台風が去って急激に気温が下がったせいで、毎度おなじみの胃の具合の悪さがほんの少しやってきているようです。今年の夏は猛暑だったけど、夏が去っていくのが寂しいと感じているのは、人物の私めです。

新しい選択肢

今から言うことは、正しいか正しくないかという範疇では考えないで読んでください。その判断が先に立ってしまうと、元も子もなくなってしまうからです。

誰かが困っているとき、それは苦しんでいるのかもしれないし、慌てているのかもしれないし、落ち込んでいるのかもしれないし、状況はいろいろあるかもしれませんが、とにかく困っている状況を想像してみてください。

わたしたちは、そういうときに、それを見て見ぬふりをするという選択肢と、黙っていられずに手を差し伸べるという選択肢があることを知っていますね。

けれども、それ以外の選択肢があるということに気づいているでしょうか?実は精神的に何もしないという選択肢があるのです。

それは、手を差し伸べないということでは、見て見ぬふりをすることと似ていますが、それすらしないということを言っているのです。つまり、本当に何もしないのです。

何もしなければ、自分の心の中に湧き起ってきたものをただただ感じているのみになるはずです。手を差し伸べるかどうかは、そのあとにでも考えることができるのです。

ずっと以前に会社員だったころ、仕事半分旅行半分でタイに行ったことがあるのですが、街を歩いていたら汚い恰好をしたとても幼い子供が悲しそうな目をして、お金をちょうだいと言ってくるのです。

一目みて、とてもかわいそうだという気持ちになりました。自分はいい気持ちでタイ国を満喫しているのに、すぐ目の前にはきっと暮らしに困ったみすぼらしい姿をした幼い子供が立っているのです。

とても見て見ぬふりをすることはできない感じがしました。かといって、その子にお金を易々を渡してしまったなら、その子はまた明日も、そのまた明日も親に街に行って日本人からお金をもらってこいと言われるはずです。

そのときに、自分の中に湧き起った「かわいそう」という感情から逃げずにいるようにしました。なぜなら、「かわいそうに負けない」というのが、その頃の自分の信条の一つだったからです。

そして、お金をあげずに去っていく場合にやってくる罪悪感についても、それをそのまま感じるようにしました。そのおかげで、見て見ぬふりをするのでもなく、だからといって安易に手を差し伸べるでもない、何もしないという選択肢を実践することができたのです。

もしも、行動を起こすかどうかに少しでも時間的余裕があるのでしたら、見て見ぬふりをするのでもなく、手を差し伸べるでもない、何もせずにただ心の中を感じきるという実践をしてみてください。

どう行動するかは本当は問題ではありません。それはその時になってみなければ、所詮分からないものですから。見て見ぬふりをするのも、すぐに手を差し伸べてしまうのも、実は自己防衛だということに気づくことです。

大切なことは、そのことに気づいて逃げずに戦わずにいることなのです。

他人がいるから自分がいる

「ただ在る」という気づき、その純粋な意識こそが私たちの本質だということは、もう何度もお話ししてきました。そのことに対する如何なる質問にも答えることはできません。

真理に対しての思考による質問は、それ自体が無意味だからです。自分の心をじっくり感じてみて、真理に対する質問が渦巻いているなら、それは思考に捕らわれていると思ったほうがいいです。

心が十分に落ち着いてくると、質問はいつしか消えてしまうものです。それは、わからないことを曖昧にしておくといったことではなく、思考に乗っ取られなくなった状態ということです。

「ただ在る」という気づきと、「私という人物がいる」という思いとはまったく異なります。後者は、思考によってここに私がいるという思いを作っているだけだからです。

けれども、思考がどうやって「私という人物がいる」という思いを作ったのかというと、「ただ在る」という気づきを利用したのだろうと察しがつきます。

思考そのものが、「ただ在る」という真実からやってきたものなので、思考がそれを身勝手に利用したとしても不思議なことではありません。

ただし、それだけでは「私」に個別性を付与することができないので、思考は他者という存在をでっちあげることにしたのだと思うのです。

「私という人物」というものを認識するためには、必ず他者が必要となりますし、元々私という人物そのものが他者から与えられた人物像そのものなわけです。

「私という人物」という個別性はそうやって作られたものです。もしも、世界中にあなたしかいなかったとしたら、あなたは自分を一人の人間として認識することはできなかったということです。

そう思うと、他人とは本当にありがたいものなのですね。感謝感謝!!

思考を越えた真理の力

私たちの心の中には、良心と呼ばれるものがあることは、誰でも知っていることです。それが、誰にも教えてもらったこともないのに、厳然としてあるのは不思議なことだとは思いませんか?

物事においての善悪の判断、正不正のような感覚というのは確かに幼いころからの教育によるところが大いにあるというのは事実だとも思います。

善悪や正不正などの判断というのは、思考によるものだと言うことも常々このブログでも書いていることです。けれども、そうした思考による価値判断を越えたところにも、何か絶対的な善とか良心のようなものがあるのではないかと感じています。

こうして言葉にしてしまうと、それは全く違って聞こえてしまうのですが、言葉にはできない絶対的な真理の一つの側面としての善、あるいは調和のようなものが存在するように感じています。

そのように考えないと、あらゆる人の心に良心というものがあることを説明することができないのです。この世界は二元性によって成り立っているのですが、真理は絶対的なものです。

相反するものを必要としないのです。愛の反対は恐怖であり、恐怖は愛が欠乏した状態をいうのですが、真理において愛の欠乏ということは不可能なことです。

したがって、愛の反対は実在しません。私たちの本質が愛であるために、そのうえに成り立っている人々の心の中に愛をベースとした良心があるのは当然のことだともいえます。

思考を越えた真理によって、この世界で不具合として知覚される病気や歪みが治癒してしまうことがあるのなら、それは不思議なことではあってもあり得ないことではないということです。

思考を越えた真理の力は無限です。それは、どれほど理屈を使って解明しようとしてもできません。私たちには理解不能なレベルのこととして、委ねてしまうのが一番いいのでしょうね。

インナーチャイルドは実在する

人の心を扱うときには、必ずと言っていいほどインナーチャイルドの話しが出てきます。インナーチャイルドという言葉を聞いたことがある人は多いと思います。

インナーチャイルドとは、現在の大人の自分の心の内部に住んでいる、幼いころの自分の人格(の断片)のことです。そういうことを知っている人も最近ではとても増えています。

けれども、そうした人であってもきっと多くの人たちは、それはたとえ話に過ぎないと思い込んでいるはずです。私だって、この仕事をする以前はそう思っていました。

ところが、実際に多くのクライアントさんとのセッションを通して、インナーチャイルドは実在するということに気づきました。それは、今の自分という人物がいるのと同等くらいに確かなものです。

本当に、過去に生きていた人格の寄せ集めのようなものとして存在しているのです。さらに、それは気づかぬうちに現在の自分を裏でコントロールしている張本人でもあるのですから、簡単に済ますわけにはいきません。

年齢退行の催眠療法のセッションのときに、たまに大人の本人の意識がどこかへしまわれてしまい、子供のころの人格(意識)だけになってしまう方もいらっしゃいます。

つまり、インナーチャイルドだけになってしまうということです。そのようなケースを体験させていただくと、明らかにインナーチャイルドが実在すると感じるのです。

癒しの過程の中で起きることの一つに、このインナーチャイルドと現在のご本人との距離が小さくなっていくということがあります。自分にとって、都合の悪い感情をたくさん抱えているインナーチャイルドを無意識的に遠ざけてきたからです。

二人の距離が縮むと、理性ではなくて感情的に自分のインナーチャイルドに対する憐れみの気持ちや、本当に申し訳なかったという思いが自然とやってくるのです。

もしも今あなたが、自分のインナーチャイルドが遠い存在だと感じているなら、いつかはきっとその子のために心から泣いてあげられるときが来るということを信じることです。

いつかはきっと誰もがインナーチャイルドと和解するときがくるのですから。

真理だけが絶対的なもの

この世界を理解する上でとても大切なことは、どんなことでも絶対的ではないと知ることです。あらゆる神羅万象は相対的であるということですね。

たとえば、人は自分のことを絶対正しいと思いたいものです。でも、勿論絶対的な正しさというものはどこにもありません。正しさとは、そうでないものとの比較の上で言えることです。

日本は尖閣諸島に領土問題はない、つまり絶対的に自国の領土であると断言していますし、私自身もそう思っていますが、中国の側はこれまた絶対的に我が領土と主張しています。

ある人が、時速100kmのスピードで車を走らせているという場合、その人にとっては確かに絶対的に100kmのスピードかもしれませんが、それは地表との相対的な速度に過ぎません。

地球の自転速度を加味したら、その人の車は時速1万数千kmの猛スピードで動いていることにもなるのです。宇宙空間規模で考えると、いかにすべてが相対的かを感じることができます。

それは、基準がないからですね。宇宙空間において、AさんとBさんが近づきつつあるとき、Aさんが動いてBさんは止まっているのか、その逆か、あるいは両者とも動いているのかの区別はありません。

この世界は個別性で成り立っているので、それぞれの個を認識する必要があり、そのために互いに比較しなければならないのです。だからこそ、すべてが相対的なのです。比較すれば、必ず相対的になるのです。

ところが、全体性というのは比較する何物もありません。全体性に対して比較するということは不可能だからです。そのため、そこには相対的というものも入る余地がありません。

つまり、全体性という真理は、絶対的なのです。ところが、私たちがよく使う「絶対的」というのは、残念ながら本当は思考では捉えることができません。真理は、思考を越えたものだからです。

私たちが心の底で絶対的なものを求めているのは事実です。それは、言葉を変えれば、無自覚のままで真理を求めているということなのです。

でもそれは、この世界の中にはありません。この世界が現象化することになった源泉こそが、唯一絶対的なもの、それこそが真理なのですね。

否定も肯定もない静かな心ですべてを抱きしめる

クライアントさんとのセッションの中でお話しするのは、「逃げずに自分の心の中にあるあらゆる感情を見てみてください。どんないやな感情でも逃げずに見てしまえば消えていきますよ。」ということです。

これが基本であって、結局これしかないのです。こんなシンプルなことで、本当に心が癒されていくのか、不自由に感じている人生が気楽なものへと変貌するのか、と疑念が湧くのももっともです。

でも本当にこれだけなのです。でも、人間の心には、幼いころに無自覚に作りこんでしまった様々な自己防衛のメカニズムがあって、それが現在の自分をコントロールしているので、簡単ではありません。

気づかぬうちに、都合の悪い感情を心の奥に追いやって、なかったことにしてしまうのです。自己防衛システムは、幼かった自分を生き延びるようにと作られたのです。

そして、不安な毎日を少しでも一瞬でも安心できるようにと工夫することで作られたものです。したがって、そんなメカニズムにコントロールされている限り、大人の自分が幸せになれるはずがありません。

一過性の安心を得るために努力した代償は想像をはるかに超えるくらい大きなものです。なぜなら、無邪気で無防備なあなたの心をねじ伏せて、生き延びるほうを選ぶからです。

あまりにこの傾向が強すぎれば、あなたは自分が一体何をしたいのか、何を求めているのか、自分の好みは何なのかといった大切なあなたの個性がわからなくなってしまうのです。

あまりにも、周囲の反応にばかり気を使って生きていると、さまざまな人の反応に自分を合わそうとしてしまうために、人格を固定化することができなくなってしまうのです。

そのために、一体自分とはどんな人物なんだろうかという疑問がついてまわることにもなるのです。癒しの原点に戻って、ただただ今この瞬間あなたの心の中の感情、想い、気持ち、主張などに耳を傾けることです。

そして、否定も肯定もない静かな心でそのすべてを抱きしめることです。無邪気なあなたが顔を出すかもしれません。自分の本当の好みに気づけるかもしれません。

周りの人への気の遣い方も変わってくるはずです。そして、長い間忘れていたあの清々しい感覚を思い出すこともできるようになるはずです。