新しい選択肢

今から言うことは、正しいか正しくないかという範疇では考えないで読んでください。その判断が先に立ってしまうと、元も子もなくなってしまうからです。

誰かが困っているとき、それは苦しんでいるのかもしれないし、慌てているのかもしれないし、落ち込んでいるのかもしれないし、状況はいろいろあるかもしれませんが、とにかく困っている状況を想像してみてください。

わたしたちは、そういうときに、それを見て見ぬふりをするという選択肢と、黙っていられずに手を差し伸べるという選択肢があることを知っていますね。

けれども、それ以外の選択肢があるということに気づいているでしょうか?実は精神的に何もしないという選択肢があるのです。

それは、手を差し伸べないということでは、見て見ぬふりをすることと似ていますが、それすらしないということを言っているのです。つまり、本当に何もしないのです。

何もしなければ、自分の心の中に湧き起ってきたものをただただ感じているのみになるはずです。手を差し伸べるかどうかは、そのあとにでも考えることができるのです。

ずっと以前に会社員だったころ、仕事半分旅行半分でタイに行ったことがあるのですが、街を歩いていたら汚い恰好をしたとても幼い子供が悲しそうな目をして、お金をちょうだいと言ってくるのです。

一目みて、とてもかわいそうだという気持ちになりました。自分はいい気持ちでタイ国を満喫しているのに、すぐ目の前にはきっと暮らしに困ったみすぼらしい姿をした幼い子供が立っているのです。

とても見て見ぬふりをすることはできない感じがしました。かといって、その子にお金を易々を渡してしまったなら、その子はまた明日も、そのまた明日も親に街に行って日本人からお金をもらってこいと言われるはずです。

そのときに、自分の中に湧き起った「かわいそう」という感情から逃げずにいるようにしました。なぜなら、「かわいそうに負けない」というのが、その頃の自分の信条の一つだったからです。

そして、お金をあげずに去っていく場合にやってくる罪悪感についても、それをそのまま感じるようにしました。そのおかげで、見て見ぬふりをするのでもなく、だからといって安易に手を差し伸べるでもない、何もしないという選択肢を実践することができたのです。

もしも、行動を起こすかどうかに少しでも時間的余裕があるのでしたら、見て見ぬふりをするのでもなく、手を差し伸べるでもない、何もせずにただ心の中を感じきるという実践をしてみてください。

どう行動するかは本当は問題ではありません。それはその時になってみなければ、所詮分からないものですから。見て見ぬふりをするのも、すぐに手を差し伸べてしまうのも、実は自己防衛だということに気づくことです。

大切なことは、そのことに気づいて逃げずに戦わずにいることなのです。