真理だけが絶対的なもの

この世界を理解する上でとても大切なことは、どんなことでも絶対的ではないと知ることです。あらゆる神羅万象は相対的であるということですね。

たとえば、人は自分のことを絶対正しいと思いたいものです。でも、勿論絶対的な正しさというものはどこにもありません。正しさとは、そうでないものとの比較の上で言えることです。

日本は尖閣諸島に領土問題はない、つまり絶対的に自国の領土であると断言していますし、私自身もそう思っていますが、中国の側はこれまた絶対的に我が領土と主張しています。

ある人が、時速100kmのスピードで車を走らせているという場合、その人にとっては確かに絶対的に100kmのスピードかもしれませんが、それは地表との相対的な速度に過ぎません。

地球の自転速度を加味したら、その人の車は時速1万数千kmの猛スピードで動いていることにもなるのです。宇宙空間規模で考えると、いかにすべてが相対的かを感じることができます。

それは、基準がないからですね。宇宙空間において、AさんとBさんが近づきつつあるとき、Aさんが動いてBさんは止まっているのか、その逆か、あるいは両者とも動いているのかの区別はありません。

この世界は個別性で成り立っているので、それぞれの個を認識する必要があり、そのために互いに比較しなければならないのです。だからこそ、すべてが相対的なのです。比較すれば、必ず相対的になるのです。

ところが、全体性というのは比較する何物もありません。全体性に対して比較するということは不可能だからです。そのため、そこには相対的というものも入る余地がありません。

つまり、全体性という真理は、絶対的なのです。ところが、私たちがよく使う「絶対的」というのは、残念ながら本当は思考では捉えることができません。真理は、思考を越えたものだからです。

私たちが心の底で絶対的なものを求めているのは事実です。それは、言葉を変えれば、無自覚のままで真理を求めているということなのです。

でもそれは、この世界の中にはありません。この世界が現象化することになった源泉こそが、唯一絶対的なもの、それこそが真理なのですね。