他人がいるから自分がいる

「ただ在る」という気づき、その純粋な意識こそが私たちの本質だということは、もう何度もお話ししてきました。そのことに対する如何なる質問にも答えることはできません。

真理に対しての思考による質問は、それ自体が無意味だからです。自分の心をじっくり感じてみて、真理に対する質問が渦巻いているなら、それは思考に捕らわれていると思ったほうがいいです。

心が十分に落ち着いてくると、質問はいつしか消えてしまうものです。それは、わからないことを曖昧にしておくといったことではなく、思考に乗っ取られなくなった状態ということです。

「ただ在る」という気づきと、「私という人物がいる」という思いとはまったく異なります。後者は、思考によってここに私がいるという思いを作っているだけだからです。

けれども、思考がどうやって「私という人物がいる」という思いを作ったのかというと、「ただ在る」という気づきを利用したのだろうと察しがつきます。

思考そのものが、「ただ在る」という真実からやってきたものなので、思考がそれを身勝手に利用したとしても不思議なことではありません。

ただし、それだけでは「私」に個別性を付与することができないので、思考は他者という存在をでっちあげることにしたのだと思うのです。

「私という人物」というものを認識するためには、必ず他者が必要となりますし、元々私という人物そのものが他者から与えられた人物像そのものなわけです。

「私という人物」という個別性はそうやって作られたものです。もしも、世界中にあなたしかいなかったとしたら、あなたは自分を一人の人間として認識することはできなかったということです。

そう思うと、他人とは本当にありがたいものなのですね。感謝感謝!!