何が起きたかよりも、どう反応したかを見る

一日のうちで一番心が静かになるときがやってきました。毎日、夜12時近くなって、ブログに何を書こうかなと思って、ただパソコンの前にいる時間がとても落ち着くのです。

今日という一日を過ごしてきた中で、どんなことがあったかなあと考えるというよりも、その時々に自分の心の中にどんな感情や気持ちや思いなどが湧き上がってきたんだろうと見る癖がついています。

そしていつものことながら思うのは、人物としての自分はどうやったって浅はかだし、自分を何とかいいように見せたいし、誰かと比較して喜んだり落ち込んだり、そんなことの連続だなと。

そこのところは、この先もきっと救いようがないのでしょうね。少し大人になったと思ったり、成熟したと感じたり、依然としてダメなやつだと感じて見たり。

それも含めて、人物としての自分なのです。ありとあらゆる感情、思い込み、信条、信念、訴え、欲望、判断、否定、そういったものがごちゃっと渦巻いているのがよくわかります。

けれども、本当の救いとはそれがすべて人物としての自分がいるという思考の土台の上にでっちあげられたものに過ぎないということです。

でっちあげられた自分をただ見守るこの自己とは、あなたの本質でもあるのです。そのことに気づいている人もいるし、気づいていないで生活している人もいます。

どちらでも問題ありません。なぜなら、所詮はたった一つのなにものでもない自己がただ在るだけだからです。ここ数年は、もうこんなことばかり書いてきました。

もう、書くことはないんじゃないの?と思うのですが、それでもこうしてまた同じことを繰り返して書いているのですから、きっと好きなんでしょうね。

興味のない人は、きっとわざわざ読みに来ることはないでしょうから、うざいと思われたとしてもまあいいことにしようと思います。

台風が去って急激に気温が下がったせいで、毎度おなじみの胃の具合の悪さがほんの少しやってきているようです。今年の夏は猛暑だったけど、夏が去っていくのが寂しいと感じているのは、人物の私めです。

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