お払い箱にしよう

私たちは幼い頃に作られた自己イメージによって、人生が決められてしまうと言っても言い過ぎではないのです。そのくらい、自己イメージは強力なのです。

自己イメージが作られる過程をよくよく観察すれば、それがどれほど馬鹿げたものなのか分かるはずです。

それは、あなたの周囲にどんな人たちがいて、どのようにあなたを扱ったのかによって出来上がるからです。

したがって、素晴らしい自己イメージができたとしても、あるいはひどい自己イメージができたとしても、どちらもただのイメージに過ぎません。

主には家族という環境をそのまま写し込んだ自己イメージを、後生大事にしながら人生を進めていくのです。

ここでよく理解すべきことは、否定的な自己イメージであればあるほど、それを何とかして払拭しようとする為に、理想とする自分像が作られるのです。

言葉を変えれば、自分への期待が高くなるということです。自分に対して高い期待をかけるというと、何やらポジティブな感じがするかもしれません。

けれども、それはそのままの自分では到底ダメだということを意味するだけなのです。そして、そんな理想的な自分には決してなれません。

だからそんな人の人生は本当に悲惨なことになってしまいます。高い期待を設定して、そこに到達できない自分を責めて、そこから更にまた頑張ろうとする。

こんなことの繰り返しで人生が浪費されていくわけです。一度立ち止まって、自分の自己イメージをできる限り書き出してみることです。

さらには、期待している自分像についてもより明確に書き出すのです。その両方を高い精度で視覚化してみるのです。

どれほど不可能で、どれほど馬鹿馬鹿しくて、どれほど愚かしいことかを腹の底から味わうことができれば、そんな自己イメージも理想像も一緒にお払い箱になるはずです。

自らの防衛に気づく

私は時々思うのですが、今の自分はオリジナルの自分、あるがままの自分からどのくらい隔たってしまっているのかなと。

どんな人であれ、社会という人との関わりの中で生きていくことになるので、必要最低限度のルールを身につけることになるのです。

生まれたままの完全に無防備な状態では、野生児のようなものなのでそのままでは社会生活は送れないのです。

たとえば、つぶらな瞳のとても幼い子供は、無邪気に人の顔をじ〜っと見つめることがありますね。

学生の頃、バスの前の席に座っていた幼い子が急に後ろを向いて、至近距離から私の顔をじっと見つめてきたことがありました。

少しして、その子の隣にいたお母さんがそのことに気づいて、あんまり見たらお兄さんが恥ずかしいって…、と言ってたしなめてくれたことがありましたね。

私たちは成長するにつれて、ある一定時間以上見ず知らずの他人を見続けてはいけないことを知るのです。

こうした日常的な当たり前のルールはさておき、それ以上のルールを自分に強いてしまうと、それは防衛の類になってしまうのです。

つまり、あるがままの自分からの隔たりというのは、防衛の種類やその大きさによるということです。

一般常識として、思ってはいても言葉に出してはいけないと感じる言葉は飲み込みますが、それが防衛のレベルになってしまうと、自己表現ができない人になってしまいます。

そうやって一つひとつ自分の言動を見ることで、あるがままのレベルか、社会常識のレベルか、あるいは防衛になってしまっているのかをチェックするのです。

そうすると、これまで気づかずにやってきてしまった沢山の防衛に自覚を持つことができるようになるはずです。ぜひ試してみてください。

受容性がカギ

私たちの心の奥底に隠されている暗澹とした部分がある理由は、人生が病気や老いや死へと真っしぐらに進みつつあることを避けられないからなのです。

このどれか、あるいは三つの組み合わせ技は、絶対なのです。それが心を不安にさせ、気持ちを重くさせるのです。

若いうちは、目の前のことに夢中だし、死ぬのはいつも自分以外の誰かなので、こうしたことを忘れていられるのです。

けれども、いつかはそれらがやって来ることは確実だからこそ、人は奥深いところで憂鬱な重りのような感覚を持っているのです。

じゃあ一体どうしたらいいのでしょうか?やれることはたった一つしかありません。それは、自分の受容性を最大限使えるようにすることです。

年老いていくことをすごく気にする人とそうでない人の違いは、老いることへの受容性の違いなのです。

病気や死についても全く同じことが言えますね。救われる唯一のカギは受容性にあるということです。

受容性を開花させる方法の一つは、自分の自我がいかに受容性に乏しいのか、そのあるがままの姿を見続けるのです。

物事を受容できないばっかりに、どれだけ自分の自我が苦しむことになったのか、その様をよ〜く見ていてあげるのです。

その哀れな姿、受容できない愚かしい姿を繰り返し見ることで、きっと自然とあなたの受容性は本来の質を取り戻すことになると思います。 

「良かれと思って…」を撲滅しよう

「良かれと思って…」というフレーズはちょくちょく耳にしますが、私はその言葉にアレルギーがあるようです。

「良かれと思って…」の後に来るのは、大抵が「ありがた迷惑」なのです。それがなぜなのか、いつまで経っても分からない人が多いものです。

少し立ち止まって、しっかり見つめればすぐに分かることですが、「良かれと思って…」というのは、相手の気持ちを知らない状態なのです。

相手がこうして欲しいと要求してきたときに、その期待に「そのまま」応えるときには「良かれと思って…」とは言わないのです。

なぜなら相手の望みを知っているのですから。要するに、「良かれと思って…」はとても自分勝手な行動になってしまうのです。

だから多くの場合、相手にとっては迷惑なことになってしまうのです。こんな簡単なことが理解できないはずはありません。

ではなぜ「良かれと思って…」が世の中からなくならないのか?それは善意という大義名分に隠れて、自分の思い通りにしたいというエゴなのです。

ほら、私役に立ったでしょ?私は良いことをしてあげたといった善意の押し売りなのです。

このバカバカしさ、本当に優しくない言動であることに気づけば、もう二度と「良かれと思って…」なんて恥ずかしくてできなくなるはずですね。

自己否定も正当化もいらない

普段から自分の内面を注意深く見つめている人は、自分のマインドの中にどんな人がいるのか気づいています。

天使のように清らかで、あまりにも素直すぎて傷つきやすい子もいるでしょう。その逆に貪欲で腹黒い子もいるのです。

いつも見つめ続けている人にとって、そんなことは当たり前のことになっていて、驚くようなことではないのです。

内面を見つめない人は、自分とはこういう人物だと決めつけてしまい、都合の悪い部分はないものとしてしまうのです。

そうなるとバランスが崩れてしまうのですね。なぜなら自分の内面をえこひいきしてしまうからです。

こうなると、逆に都合の悪い部分が露呈してしまうと、そこを責めてしまうことにもなるわけです。

つまり、自己否定をたくさんしている人、その反対に自分は正しくて悪いところはあまりないと思っている人。

このどちらの人も、自分をしっかり見つめていないのです。だからそうした偏った見方をしてしまうのです。

自分の内側を満遍なく、くまなく見る習慣を身につけることです。そうすれば、自己否定など興味がなくなるし、自分を正当化することもバカらしくなるはずです。

マインドの全体をしっかり見ることができたら、必ずあるがままのマインドを受け止めるようになるはずです。

時間は実在しない

今日はとてもシンプルな話しをします。あまりにシンプル過ぎて分かりづらいかもしれませんが、そのことにも気づきがあります。

というのも、思考というのはあまりにシンプルなものを取り扱うことが苦手だからです。

時間は思考の中にしかないということの説明です。私たちはごく当たり前のように明日になれば、明日がやってくると思っています。

その感覚が時間というイメージを生むのです。明日がやってきたとしても、生きるのは今日でしかないということ。

明日が明日として来ることは永久にないのです。明日というのは、思考の中でのみ存在するのであって、実在するものではありません。

実在するのは今日、あるいは今だけです。今がずっと続いているだけ。今だけなら、どこに時間があるのでしょう?

明日のことを思考によって思い描くことをしなければ、どこにも時間は入って来ることができないことに気づけばいいのです。

過去についても全く同じことが言えます。過去のことを思考によって思い出すことがない限り、どこにも過去はありません。

結局過去も未来と同様に、思考の中にだけあるイメージだということです。結論として、どこにも時間は存在できないということです。

これがストンと腹に落ちると、何かが変わるかもしれませんね。

高い期待が執着を生む

私は戒律的なことがとても苦手な人間なので、ルールで縛られるとか、道徳や倫理を優先する生き方も嫌いです。

逆になんでも楽しめるものは、思う存分楽しんだらいいのにと思うのです。食べたいものを食べ、やりたいことはやればいいのです。

そこに善悪や正不正などをあまりにも持ち込んでしまうと、罪悪感を恐れるあまりに息苦しい人生になってしまうからです。

ただし一つだけ、できるだけ避けた方がいいと思っているのは、執着です。この執着も人生を苦しくする張本人なのです。

今日は楽しかった、以上。で終わればいいのですが、また明日も同じことで楽しみたいなと思ってしまうのです。

それは当然かもしれませんが、そこに必要以上の期待をしないことです。強く期待してしまうから、そこに執着心が起きて来るのです。

願い通りにできたら嬉しいけど、そうならなくてもまあいいやという具合に、ただ起きることに任せるようにできれば理想ですね。

もう一度繰り返しますが、何かを制限して正しい方向に向かわすよりも、ただ期待せずにいて、起きていることを最大限楽しむようにすることです。

そうすれば、執着が減って人生がとてもシンプルなものになっていくはずですね。

死は自我にのみやって来る

どうもあまり評判は良くないようなのですが、すみません今日も死に関連したお話しになってしまいます。

というのも、なぜ私たちの煩悩が無くならないのかと考えてみると、その大きな理由の一つは、誰もがいつかは死ぬことになるからだと思うのです。

誰にとっても死にまつわるイメージはあまりよくないものです。せっかく築き上げたものを丸ごと奪い取られてしまうし、大切な人とは別れなければならないし。

さらには、死後は一体どうなってしまうのかが全くもって不明なため、そうした確定した未来の不安によって、心が暗くなってしまうのです。

こうしたことをどれほど頭を捻って考えたところで、一ミリも解決が見つからないと分かっているので、死については考えないようにして生きているのです。

目の前で起きている毎日の出来事に気持ちを奪われていれば、死のことなどどこかへすっ飛んでしまうので、好都合なのですね。

けれども、死ぬことが確定している毎日には違いがないので、心の奥底では明るくしてはいられないのです。

誰もが心の奥底に闇を抱えているのには、こうした理由があったのです。これを思考では解決できないことを、まずは見抜くことです。

それと同時に、死を避けることができないのは自我だということも理解する必要がありますね。死は自我にのみやってくるのです。

たくさん集まってあたかも自我があるかのように見せていた思考が、肉体の死とともに方々へとバラけて行くのでそれは自我の死のように見えるのです。

けれども私たちの本質は違います。自我として生きている間に、そこへの信頼を深めることができるといいですね。

頭脳明晰はウソ

「lucid(ルシッド)」という単語は、元々はラテン語で光と言う意味だったと思います。そこから明るいだとか、頭脳明晰などという意味を持つようになったらしいです。

私は特に意味などにはあまり関心もなく、単にこの単語の響きが気に入ったのでこのセッションルームの屋号に使いました。

頭脳明晰というと何となく聞こえはいいですが、実は頭脳が明晰ということはないのです。頭脳というのはマインド(思考)のことですね。

残念ながら頭脳は混乱です。マインドはいつも混乱していて、瞑想などによってマインドが静かになった時のみ、混乱も一緒に静まるのです。

真に明晰なのはハートの方です。ハート自体は常に自然とともにあって、あるがままを感じているのです。

ところが、マインドが優勢になって混乱を引き起こすと、ハートは隠されてしまい、真実への道も閉ざされてしまいます。

競争の厳しい社会の中にあって、できるだけハートが開いているようにするためには、マインドが暴走して混乱してしまわないように、監視している必要があります。

要するに意識的であることが絶対的に必要だということです。充分に意識的であれば、思考もそれなりに役立てることができ、マインドとハートのバランスが取れるようになるのですね。

無関心の勧め

昨日のブログで「無関心」という言葉を使ったので、その流れで今日は無関心ということについて書いてみたいと思います。

どうやら世間的には、無関心という言葉はネガティブな響きを持っているようですね。たとえば、政治に無関心だとか、自分の健康に無関心等々。

無関心であるよりも、関心を持つことの方が何か積極的な感じもします。好きなことには関心が出てくるわけで。

何事においても関心を持つことで、学んでいけるということもありますし。人としても、誰かに関心を持ってもらえた方が嬉しいはずです。

確かにそうなのですが、私は無関心でいることの大切さも知って欲しいのです。というのも、自我というのは自分に対して絶大な関心を持っているのです。

あなたがどれほど自分を否定しようが、嫌いだと思おうが、それは強い関心を抱いているからなのです。

もしもあなたが、自分のことを好きなのか嫌いなのかなんてどうでもいいと思えるなら、全く違う人生が待っているはずです。

自分が今幸せなのか不幸なのか、そんなこと考えたこともないという状態であるなら、きっと防衛も小さい状態になっているはずです。

自分という存在や自分の人生に対して、無関心でいられるようになったら、自然に覚醒がやってくることになるでしょうね。