懲りないマインド

「懲りる」という言葉がありますね。その意味は、「ある事をした際にいやな目にあって、再び同じことをする気力がなくなること」です。

でも世の中には懲りない人はたくさんいます。なぜなのでしょう?実は、この懲りないと言う心の部分は誰のマインドにもあるものなのです。

それには必ず理由があるのです。例えば、男運が悪くて、何度騙されてもまた他の男性を好きになってしまう女性がいるとします。

周囲からなぜ懲りないんだろうと思われても、本人としては気がついたらまた悪い男を好きになってしまうのです。

マインドというのは、瞬間瞬間一番力のある部分の言いなりになってしまうという特性があるのです。

何があっても孤独になりたくないと言う思いが強ければ、裏切られて辛い思いをしたとしても、懲りずにほかの人とまた付き合おうとするのです。

その時、懲りてるマインドの部分はあっても力不足で、止めることができないのです。これは単純なマインド内の力関係なのです。

もしも自分のマインドの中に、「懲りない」部分があるなと感じるなら、その正体を明らかにしてあげることです。

その部分の本音に光を当ててあげることで、そのエネルギーは小さくなっていくものです。要するに力関係が変われば、懲りない言動はなくなっていくのです。

愛は心配も期待もしない

「愛」と言うと、恋愛をイメージする人もいるでしょうし、親が子供を愛しいと思う気持ちをイメージするかもしれません。

勿論そういった愛もいろいろあるのですが、純粋な「愛」というのは言ってみれば無邪気な状態、あるいは無防備な状態を指すのです。

つまり自我の自己防衛が無い状態とも言えるわけです。自我=自己防衛であることを考えれば、自我がある限りは「愛」はないということが明確になってしまうのです。

大切な人のことを心配するのも愛だと信じている人はたくさんいるはずですが、心配の元になっているエネルギーは恐れです。

だから心配が愛であるはずはありません。あるいは、親が愛しい子供に期待するのは愛だろうと思うかもしれませんが、期待も愛ではありません。

愛は期待しないのです。期待とは、希望であり、それが叶うことで安心しようとする欲望なのです。

したがって誰かに期待されたいと思っているなら、期待の本性を思い出すことです。そこに純粋な愛はないということを。

こうしたことが腑に落ちるようになったなら、あなたの自我のパワーは小さくなってきたと思って間違いないでしょうね。

自我は無力

あなたの自我の努力によって成し遂げられる事というのは、この世界、この社会で価値があるとされることかもしれません。

意志の力、頑張りと努力は自我のものです。けれども、より真理に近いもの、真に大切であることは全く逆なのです。

というのも、真理というのは自我の力が及ばない次元にあるからです。かえって自我の努力は真理を隠してしまうのです。

たとえば、睡眠に入っていくという場合、意志の力ではどうにもならないことを私たちは知っていますね。

ただ寝入る準備をすることだけしかできないのですから。寝よう寝ようと頑張れば頑張るほど、目が冴えてしまうのです。

逆に、瞑想や深いリラックスといった自我の存在が薄くなっている状態のときこそ、とてつもないことが起きるのです。

場合によっては、真理を垣間見ることができるかもしれません。こうしたことは、学校では決して教えてくれないことですね。

もしも自分は意志の力が弱いと思って自己否定しているなら、喜んでください。元々自我には、真理に通用する本物の力などはないのですから。

「ホー!」の勧め

自我というのは自分が作った物語の中でのみ活躍することができる存在なのです。だから物語の中へ中へと自分を巻き込んで行く達人なのです。

巻き込まれていくためには、起きていることを独自の解釈によって判断し、問題を見つけてはそれをなんとか解決しようと努めるのです。

その繰り返しによって、自我は継続的に物語の中深く潜っていき、そのことにも気づかなくなってしまうわけです。

これが無意識的に生きるということです。いつもこのブログでお伝えしている、意識的であれ!ということの真反対なのです。

だから私たちは放っておけば必ずや無意識になって、目の前で繰り広げられている物語にどっぷりと浸かることになってしまうのです。

そこから抜けるためにも意識的である必要があるのですが、そのためのメソッドとして簡単に実践できるものをご紹介します。

それは、何かが起こった時に、自我が反応する前に心の中でいいので、「ホーッ!」と呟くのです。

これはイエスでもノーでもない、どちらともつかない中間の応答なのです。とにかくまずは、「ホーッ!」と唱えることで物語と距離を置くのです。

それはまるで人ごとのように言えばいいのです。「へー!」でも構いません。事態を解決しようとするでもなく、逃げるでもなく、ただ「へー!」と言ってワンテンポおくのです。

それによって思考は止まり、起きていることとただ一緒に在るという感覚を身につけるのです。是非試してみてくださいね。

死ぬのは自我と身体

スピリチュアルなことに興味を持ったりして、本当は死というものはないのだということを学んだりするのです。

死がないという情報は、やや信じ難いとしてもいくばくかの安心感がそこにはあるのです。命が永遠だと思えば、安らぎを感じることができるからです。

けれども、とても残念なことを言いますが、確実に死はあります。それも、私たちの全員に公平に死が訪れることは明白です。

死ほど公平な事象はありません。どんな人であれ、まったく同じように死はやってきて、生で築き上げたあらゆるものを持ち去っていくのです。

スピリチュアルな教えなど、全く役に立ちません。誰が死ぬのか、それはあなたなのです。つまり、死は自我に訪れるのです。

自我は本当に死ぬのです。勿論身体にも死はやってきますが、あなたが自分だと思い込んでいる自我の死も当然やってきます。

その死は避けられません。永遠の命などというものはありません。あなたという自我は、身体の死とともに死んで行く運命にあるのです。

けれども、もしも自分の本質は自我ではないと見抜くことができるなら、その時は自我の死をあなたは見届けることができるでしょうね。

モチベーション不要論

何かしら、やらなければならないことがあったときに、どうもモチベーションが上がらないからできない…、ということがありますね。

試験勉強をしようとして、どうもやる気が出ない、無理にやろうとしても集中できずに困ってしまう。

このように、思うようにやる気が出ないときに、モチベーションが上がらないという表現をすることがあります。

その結果、モチベーションを上げるにはどうしたらいいのか?ということばかりに頭が向きがちですね。

けれども、そもそもモチベーションが必要なのはなぜなのか?これをまずは考える必要があるのではないかと思うのです。

モチベーションが上がらないとできない理由はたった一つ。それは、もともとやりたいという気持ちがないからなのです。

純粋にやりたいと思っていることをやるのに、モチベーションなどというものは全く必要ないのですから。

もしもあなたが戦略的に自分のモチベーションを上げることで、日々の生活を全うしているというなら、何一つ本当にやりたいことをしていないということです。

モチベーションはどれほど頑張ったところで、必ず上下動してしまうものです。モチベーションに頼らずに、生きることをじっくり考えてみる必要があると思いますね。

「全ては一つ」を思い出す

私たちは、誰かと一体になりたいと願っているのです。何かと一つになることができたら、至福を感じるからです。

その一方で、自分からすべてが離れたところにあると感じれば、不安と孤独でいっぱいになってしまうのです。

別の言葉で言えば、疎外感や分かり合えない状態、自分の気持ちがまったく通じないなら、これほど惨めなことはありません。

これが鍵なのです。つまり、自我として自立した一人の個人として生きていると思い込めば、必ずや不安と孤独、そして惨めさがつきまとうのです。

自我という個人が何かと一つになることは不可能なのですから、自我として生きている限り、ほかのどんな望みが叶ったとしても満たされることはありません。

所詮は独りぼっちなのです。けれども、ほんの一瞬であれば自我であることを忘れる瞬間はあるのです。

そのときには、個人という枠組みが消え失せて、すべてと一つであったことを思い出すのです。それが真実の愛という状態ですね。

生き方を見直す

私たちの心の奥に巣食っている不満というのは、自分は個人だという錯覚からやってくるのです。つまり自我として生きることと不満とは一つものなのです。

不満というのは、欠乏感なのです。自分という存在のままでは足りないという感覚があるということです。

それと同時に、不安と孤独も付属しています。だからそうしたものを払拭しようとして戦い続けるのが人生なのです。

その上、私たちが受けて来た教育というのは、自我を益々成長させて強大にさせるようにできているのです。

よりよい自分になりなさい、目標を持ちなさい、価値ある自分を目指しなさい、向上心を持て、計画的に生きなさい等々。

こうした教育という名の洗脳を幼い頃からずっと受けて来てしまったので、自我は衰えるどころかより活性化してしまったのです。

それでも救いはあって、やり過ぎてしまった人にはおのずと気づきがやってくるのです。何かがおかしい、いくら頑張っても満たされないぞ。

もうこれ以上自分を騙し続けられないと分かった人から、根本的な見直しのサイクルが始まるのです。

あらゆる不満、不安や孤独、戦いの連続の原因は自我との同化だったのだと理解すれば、そこから人生の見方が変わっていくのです。

防衛システムの命がけの逆襲

これはただの空想だったり、奇想天外な絵空事でもありません。あなたのマインドの防衛システムは時として、あり得ないくらいのことをしでかすのです。

心の癒しというのは、簡単に言ってしまえばい、成長期に作り上げた防衛システムを小さくしていくことなのです。

防衛が巨大化してしまうことは、それだけ自己犠牲が増大して生きにくくなってしまうのです。したがってその逆をやっていくことが癒しの本質なのです。

ということは、癒しが進んでいくということは、マインドの防衛システムにとっては生死に関わる重大事なのです。

このまま癒しが進んでしまうということは、危機的状態となっていくので何としてもそれを阻止しようとしだすわけです。

もしも人生で初めて出会った癒しの大チャンスだと感じたなら、それこそ防衛システムは徹底的にそれを妨害しなければならないのです。

それはもうなりふり構わずになってもいいのです。私自身、かつて1分おきに自分に意識を向ける練習をしていたときには、なんと4重苦になったのです。

勿論そのことに気づいて、その練習を一時的にやめた途端に症状はなくなったのです。

防衛システムが何をしてくるかはその時の状況やその人のマインドによってさまざまですが、現象が起きたなら一旦引き下がって防衛システムを安心させてあげること。

やり過ぎないこと。そうして様子を見ながら淡々と癒しを継続できるように工夫することも大事なことですね。

体験と体験者

体験と体験者というのは、明らかに両者に違いがありますね。ところが、私たちは日頃この二つをしっかり分けて考えているわけではないのです。

その理由とは、体験とは体験者がいなければ成立しないと勝手に思い込んでいるからなのです。

体験者なしに体験はあり得ないと信じ込んでいるということ。これはあまりにも自我の影響が大きいために起きることです。

特殊な事例でこのことを見てみたいと思います。かつて狼に育てられた少年が発見されて、人間に育てられるようになったことがありました。

少年には我々のような自我は全くありませんでした。それは当然のこと、彼を育んでくれた狼には自我がなかったからです。

自我に育てられなければ自我は育たないのです。彼の中に自我がなかったからといって、人間に発見されたという体験がなかったわけではありません。

人間以外の動物にも言えることですが、自我がなくても記憶というのはあるのです。その記憶の中には、人間に発見された事実も含まれていたはずです。

つまり体験というのは、体験者の存在とは全く異なる現象だということです。そして体験者というのは、自我という思考によって作られたものなのです。

この世界に存在できるのは、体験者ではなく、ただの体験なのです。今日から、これは自分の体験だと思わずに、この体験がただ在るだけだと見るようにできるといいですね。