癒していくとは…

日頃いろいろな年代の方々にセッションを受けに来ていただいているのですが、概して若い方は癒しにそれほど興味がないものです。

今抱えている何らかの問題が解決してしまえばそれでいいということで、癒しなどということには興味があまりないのです。

それもそのはず、若いうちというのはこれから社会の中で成長してドンドンやりたいことをやっていくというエネルギーに満ちているからです。

そんな登り調子の間は、自分のワールドだけで生きていこうとしてしまうものです。他を見る余裕もないというのが本当のところかもしれません。

けれども、癒していくということは、単に問題が解決すればいいということではないのです。仮に一つの問題が解決しても、次の問題が持ち上がってくるはずなのです。

結局、これまでの自分の生き方や考え方が、今の問題を作った張本人だということに気付くこと、それが絶対的に必要なのです。

その上で、なぜそのような生き方、考え方を持つことになったのか、その原因を深く理解するために過去に遡るのです。

その過去に隠されたつらい感情のエネルギーを少しずつ解放していくと同時に、これまでに培ってきた考え方や生き方を脇へ置いていくのです。

それには少し時間もかかるし、そのことに熱心に取り組んでいく必要もあるのです。そこに情熱を傾けることができる人は、幸運だと思いますね。

自分自身を覚えておく

osho は↑これを自己想起とか、自己留意と呼んだのですが、要するにずっと自分自身に意識を向けておくということです。

私たちの感覚器官というのは、外側に向けて働くようにできています。目にしても耳にしても、外部の事柄を対象にするようにできているのです。

だから放っておけば、外側で起きている事象を見るし、外側で起きている音を聞くわけです。動物を見ていれば、それが当然だと分かります。

けれども、目覚めた意識をほんの少しであろうと授かった人間は、他の動物とは違うのです。目覚めた状態の意識をどこへでも向けることができるのです。

意識を外側に向けることもできるけれども、同時に内側に向けておくことだって可能なのです。

外側では常に物語が進行しているのですが、内側ではそれとは一線を画す世界が広がっているのです。

その広がりを見ずして死んでゆくのなら、きっと人間として生まれてきた甲斐がないというものです。それなら動物でよかったのですから。

意識を内側に向けているように心がけること、そして忘れても忘れてもその度に思い出して、それを繰り返すのです。

内側の拡がりが無視できなくなってくるまで、忍耐強く続けていくことです。その結果、物語を見る側へとシフトしていくのですね。

本当は自分とは何だろう?

↑誰もがあまり正面から向き合いたがらない質問をしてみました。自分とは何か?という疑問を持ったことがないなら、あなたはほぼ眠っているようなもの。

少しでも目覚めている時があるなら、必ずや自分という存在に対するこうした疑問を感じることがあったはずなのです。

そしていくら考えても、答えは見つからないどころか、目の前に繰り広げられる現実の方へと興味を持って行かれて、疑問のことは忘れてしまうのです。

けれども、時々はしつこくこのような自分に対する疑問を繰り返す人もいるのです。もしもこれまでこれが自分だと信じてきたものが、本当は違うなら?

私はそう考えると何かワクワクするような、ドキドキするような感覚になったことを覚えています。あらゆるものがチャラになる気楽さがそこにあったのです。

そしてある時、自分は大澤富士夫ではないとはっきり分かったときがありました。それまで脈々と続いてきた一つの人格が、その時点で切り離されたのです。

残った自分に別の人格があるということではなく、誰でもない、何でもなさだとしか言いようがありませんでした。

その気楽さ、その気安さは格別で、カルマなんてものは大ウソだと分かったのです。つまり、これまでの自分が生きていた人生が物語だったと気づいたのです。

もちろん、その後も人生は淡々と続いてはいるし、そこで具合が悪くなったり深刻になったりもするのですが、その背後には何でもなさが必ずあるのです。

皆さんも、冒頭の疑問を自分自身に問いかけてみて下さい。そこから何かこれまでと違った景色が見えるかもしれませんよ。

期待が小さくなると…

今この瞬間に対して期待するということはできません。それはすでに今この瞬間が起きてしまっているからですね。

つまり、期待というのはそれがどの程度であれ未来に起きることに対してだということなのです。数秒後の未来であろうと、一年後の未来であろうと同じです。

「期待=未来」ということですね。今起きていないことに対してのみ期待することができるというわけです。

そしてそもそも自我というのは、期待が大好きなのです。期待に胸を膨らませる…という表現があるように、自我は期待なしでは生きていけないのです。

だから期待するのはいいことだと思えるかもしれませんが、それが落とし穴であることは簡単に気付けるのです。

もしもあなたが期待のなかに取り込まれているとしたら、それは存在しない空想の世界の中で生きているようなものだからです。

そしてもしもその期待が裏切られるなら、あなたは傷つくことになるのです。しかも期待値が高ければ高いほど、深い傷を負うことになるのです。

傷つくことが悪いことだというのでは全くないのですが、もしも傷つきたくないというなら、期待して未来という空想の中で暮らすことをやめることです。

期待することは非常に安易であり、今起きつつあることだけに意識を向け続けることはとても難しいのです。

それが自我の特性なのです。それでも少しずつ期待を小さくすることができるなら、人や起きることに腹を立てることも減るし、そもそも自我も小さくなって、自由で自然な生き方へと向かうことになるのですね。

敏感さ+勇気

世の中には、ある一定の割合で過敏な体質で生まれてくる人たちがいます。最近では、それを HSP(Highly Sensitive Person) と呼んだりしますね。

彼らは、メジャーではありませんがどこにでもいるのです。そして、残念なことに多くのごく普通の人たちからは、あまり理解されずにいるのです。

HSP の人たちは、とにかく生きづらいという特徴を持っています。なぜなら、敏感過ぎて誰も気づかないような微妙なことにオーバーに反応してしまうからです。

私のところにセッションを受けに来られるクライアントさんたちは、100%例外なく HSP だと断言できます。

HSP でなくても病んでいる人はいくらでもいるのですが、そういう人たちはセッションに来ることはないでしょう。

私自身も、HSP の素質が充分にあると思うのですが、敏感だからこそ真理を探究しようとしてきたのだとはっきり分かるのです。

ただし、敏感なだけではまだ半分なのです。それに加えて勇気があるなら、その人は類まれな人生を生きることができるのです。

勇気は一体何に使うのかというと、恐怖を感じてもそれに対処しようとせずに、それをものともせずに進んでいくことを可能にするのです。

敏感さと勇気を兼ね備えていることで、人は真実へと真っ直ぐに向かっていくことができるのですね。

生きていれば傷つける

きっと誰もが幼い頃から、以下のような気持ちを持っていると思うのです。それは、できるだけ人に迷惑をかけたくない。

あるいは、物事を丸く収めたい、人を責めたくない、人を傷つけたくない、こうしたことを望むのは真っ当な心ですね。

けれども、そういったことを最優先してしまうと、一番大切な自分の人生が台無しになってしまうということに気づくべきなのです。

人は生きていれば、必ず誰かに迷惑をかけてしまうし、いざこざや争いごとに巻き込まれるのです。

そうして、気がつけば人を責めてしまうこともあるだろうし、一番傷つけたくないと思っている相手を傷つけてしまったりするのです。

それはある意味仕方のないことなのです。以前のブログにも書いたように、各人がそれぞれのワールドを創って、その中で暮らしているのです。

だから、同じ世界を共有しているという錯覚の元、必ず迷惑をかけたり傷つけたりすることは起こるのです。

それは不可抗力だと理解することです。そして、やってくる罪悪感から逃げないようにして、勇気を持って自分に正直に生きる道を選ぶことですね。

対処しない生き方 その2

昨日のブログでは、マインドが果てしなく繰り返している「問題−対処」のループから抜け出す必要があるということを書きました。

抜け出さないままいれば、いつまで経っても実りのない人生を生きることになってしまうからです。

それは気づきのない、思考まみれの自我の大好きな人生なのです。もしも問題を対処せずにそのままにしておくことができるようになれば、自我は衰退していくはずです。

その時には、必ず「暇を持て余す」という厄介な状態になっていくのです。自我は何もすることがなくなると、暇で暇で仕方なく感じるのです。

そしてとても息苦しくなって、終いにはなりふり構わずに別の問題をでっち上げようとしてきます。

私の場合、そうした自我のイライラが周囲に問題を創るよりも、自分の身体に変調をきたすというやり方を好むことを経験上知っています。

具合が悪くなれば、対処しようとしてしまうのを知っているからですね。それともう一つ、自分の好きなことで目標を持つようにするのです。

目標を掲げて、それをいつか達成するというスタイルも、実のところ「問題−対処」のちょっと違った形に過ぎないのです。

もしもあなたが、どんな対処もせずに、どんな達成もせずにいられるなら、自我はひとたまりもなく消えていくはずです。

その時にあなたの中に残るもの、それこそが本当のあなたなのですね。

対処しない生き方

マインドのことを見つめていると、その仕組みや動きのことがよく分かるようになるものです。

日常的にマインドがやり続けていることをシンプルに表現するなら、「問題を見つけて(探して)は対処する」ということです。

マインドは、問題というのは対処すべき事柄だと認識しているので、そこに問題があればすぐに対処しようとしてしまうのです。

それはもう反射神経的なものなので、深く考えたりすることもありません。問題を解決して安心しようとするのが生きる方法なのです。

問題をそのままにしておくという発想がないのです。もちろん、問題があってもそれと向き合うことが怖くてそのままにしてしまうということはあります。

けれども、それは全く違うものです。それは、対処するのが怖いので、見ないようにするという対処の方法でしかないのです。

こうしたマインドの習慣から抜け出すためには、まず何かを問題視していることに気づくことなのです。

問題視することによって、問題を発見し、問題を生み出すことをしているのですから、そのことに気づけるなら問題を見つけるということが少なくなるはずです。

さらに、問題を見つけてしまったとしても、その問題をただ見守るという練習をするのです。解決しようとする代わりに、ただ見続けるのです。

そういった習慣を身に付けることによって、問題−対処のループから抜け出せるようになるはずです。

人生はマインドゲーム

人生は、マインドが創るゲームに過ぎない、と言われたらどう感じるでしょうか?人生がゲームだなんてふざけるな!と思うかもしれませんね。

人生というのは、ゲームなどではなくもっと真剣に向かい合わなければならない大切なものなのだと言うわけです。

人として正しいと思われるように自分を律して、頑張って我慢して、努力して社会のため人のために生きる、それが人生なんだと。

だからゲームなんかではないと憤慨したくなるのです。けれども、私に言わせればそういう人生も一つのゲームとして捉えているのです。

マインドは自分自身を上手に騙す、闇のシナリオライターなのです。マインドが極秘に書き起こしたシナリオ通りに、人生は進んでいくのです。

そこにはあなた以外の誰も実はいません。あなたの周りにいるように見える多くの他人も、あなたのマインドが書いたシナリオ通りに動いてくれる役者なのです。

もしも自分の人生は、マインドがこしらえたゲームのようなものだと気づけたら、そこから深刻さや正しさに興味がなくなってしまうはずです。

そして、何であれ自由で気楽な人生ゲームを生きるようになるのです。誰かを恨んだり、憎んだりすることも減るでしょうね。

そして何より、そういう自分のこともゲームの単なる主人公に過ぎないという理解が、あなたを真に救ってくれるようになるはずですね。

信念と不信は同じもの

「何事も信念を持ってやるべき」と教えられて育ったように記憶しているのですが、心のどこかで何となく自分にはそぐわないと感じていたことを覚えています。

一般的には、信念を持てば、一本筋の通った人になれるし、強くなれるイメージがあって、子供にとってはそういう大人になりたいと思うのかもしれません。

けれども、信念というのは単に信じることなのです。より正確に言えば、強く硬く信じるということです。

だから信念を持ってしまうと、人は頑なにならざるを得ないのです。信念は揺るがないので、人とぶつかるわけです。

私は個人的にはどんな信念も持ちたくないと思っています。信じるなら、いつでも信じないにひっくり返るくらいの準備をしておきたいくらいです。

実際、信念(強く信じること)と信じないことは真逆ですが、本質的には全く同じことなのです。

マインドの中で起きていることは、どちらも一つの仕組みを使っているのです。それは、真に知らないことに対する自分騙しの方策なのです。

もしあなたが、何かに対して真に知っているとしたら、それに信念を持つことなど不可能であるのは明白です。

そこに気づけたなら、今日からどんな信念も脇に置いて、ただ知らないことだと認めるのです。それだけでどれほど防衛が小さくなるか、体験してみて下さい。