地下牢からの解放

今からちょうど20年前に大腸の手術を受けたことがあります。外科手術と聞くと大変なイメージがありますが、受ける本人は麻酔で寝かされていますので、痛くも何ともないのです。

もしも麻酔なしで手術なんてことになったら、死んでも構わないので手術は受けたくないと泣き叫ぶだろうなと思うのです。

そのくらい人間(特に私)は痛みに弱いのです。ところで痛みには身体の痛みと内面的な痛みとがありますね。

内面的な痛みに対しては、都合がいいことに私たちは自ら麻酔をかけることができるのです。それを抑圧と呼びます。

もちろん、そう簡単に抑圧をしてしまうわけではありませんが、度重なる痛み、どうやっても逃げられない痛みが続くと、マインドは自動的に抑圧という手に打って出るのです。

それを無力な幼い頃に常習するようになると、その回路がマインドにしっかりと組み込まれてしまい、あるがままの感情や気持ち、本音などを本人も知らぬ間に隠すようになるのです。

この抑圧というのは自己防衛の中でも中心的なものとして有名です。本人はその抑圧の上に立って生活しているので、まさか自分の足の下に痛みが隠されているとはつゆ知らず。

そのまま生きていければそれで問題はないのですが、抑圧され隠された感情や本音はエネルギーとして必ず本人の人生に影響してくるのです。

そこから逃れることはできません。そして放っておいても、いつかは暗い地下室から表舞台へと出ようとします。

それを自然治癒力と呼びますが、それはそれで辛いものがありますので、その前に癒しによって地下牢からその痛みを解放してあげることが望ましいですね。

存在に意識を向ける

私たちが生きているこの世界とこの社会を混同してしまっていることが多々あるように思います。

それはあまりにも社会というシステムに取り囲まれ過ぎてしまっているため、社会が世界のように感じてしまうのだろうと。

けれども世界というのは人間とは無関係に存在するものですし、一方で社会というのは自我によって生み出されたものです。

あまりにも社会に組み込まれ過ぎてしまうと、自然の一部としての人間本来のシンプルな存在に目が行かなくなってしまうのです。

それは私に言わせれば危険な状態だと言わざるを得ません。物事のあるがままの存在を見なければ、社会の操り人形のようになってしまうかもしれないからです。

存在に気づくことで人は誰でも対等だということにも気付けるのです。逆に存在を見なければ、役割や属性でその人を評価してしまうかもしれません。

ただあるがままのシンプルな自分の存在にできるだけ気付いていることです。ひたすらそこに意識を向ける練習をすることです。

そうすることによって、しっかりと存在に中心を据えることができるようになり、社会的な自我である自分のことを達観することもできるようになるのです。

内的世界に生きる

私はきっと幼い頃からどちらかというと、意識が内に向く傾向にあったと思うのですが、その理由はいたって明らかなのです。

それは、身体が健康ではなかったということです。幼い頃から何となく身体や気分がすぐれないということを経験していました。

病名がつくような病気ではなくて、要するに未病というのでしょうか。とにかく具合の悪さというのをどこか抱えていたのです。

だから自動的にそこを見ているクセが出来上がってしまったのだろうと。極々たまに何だか調子がいいなと思う時には、外向きになるのを知っていました。

それで調子に乗ると、またいつもの不調感がやってきて水を差されるのです。そんなことを繰り返しているうちに、調子悪さが自分の居場所になってしまったのです。

このことは、意識が内向きになるというだけでなく、ある意味で人生に絶望するという面もあったと思うのです。

だからこそ人生とか、人間とか、もちろん自分という存在について、よく観察するようになったのでしょう。

内的世界に生きている、そんなふうに感じていたのですが、その延長上には内側も外側もないという全体性への気づきが待っていました。

全体性の感覚がやってくると、孤独と不安が一瞬にして消えていきます。これはきっと誰にとっても朗報のはずですね。

正しさと常識が邪魔をする

あなたの「私」は、過去や未来の中にしか存在しないのです。残念ながらちょうど今この瞬間には、「私」の居場所なんかないのです。

もう過ぎ去ってしまった過去と、これからやってくる未来のどちらか、両方とも実在しないのですが、そこにだけ「私」はいるのです。

なぜ実在ではないところにだけいるのか?それは勿論「私」が実在ではないからに他なりません。

「私」がいないというと、怪訝な顔をする人がたくさんいますが、5分でいいので瞑想してみてください。

ある程度思考が緩んだだけで、どこにも「私」なんかいないということに気付いてしまうはずです。

気づかないとしたら、それは気付きたくないからとしか言いようがありません。これまで培ってきた自分の正しさ、常識、そういうものが邪魔をするのです。

もっともっとシンプルになって、自分を見つめてみることです。思考がなくなっていくその時、自分が誰なのかも分からなくなるはずです。

それはもっともなことで、あなたは誰でもないのですから。思考は分割することで全てを区別しようとするのですが、それは思考の中でのこと。

あなたの本質である意識は、ただ見守るのみです。

一体感が自我を圧倒する

中学3年生の時の運動会で、オオムカデ競争というのがあって、各クラスごとに男子が全員でロープを脚に括って数珠つなぎになって、まるでムカデのようにして競争するのです。

二人三脚の要領でそれを縦にしてクラス男子の人数分繋げて、左右の足を全員で合わせて進むので、それなりに技術がいるのです。

イチニッ、イチニッと全員で掛け声に合わせて足を動かすのですが、一人でもリズムが狂ってしまうと、ドミノ倒しのように全員がこけてしまうというスリルがあるのです。

そのためいつもバラバラだったクラスの男子どもが、運動会の前にどこかの空き地に集って結構真面目に練習したものです。

その甲斐あってか、私のクラスはムカデ競争で優勝したのです。運動会の最後の出し物として大いに盛り上がる競技なので、嬉しかったですね。

徒競走で個人的に一位になるのよりも数倍嬉しかったのを覚えています。みんなと力を合わせて一体となることは、こんなに感動的なんだと知ったわけです。

これと似たような事は、誰にでも一度や二度経験としてあると思います。人は一体感を味わうと非常に喜び感動するのです。

これが肝ですね。つまり私たちは一体感を感じたいのです。なぜなら自我として理不尽にも孤として分割してしまっているからです。

一体感の中にいる時には、孤立した自我が非常に薄れてしまっている状態なので、とても気持ちが良いのです。

自我(個人)という分離の幻想から抜けて、全体と一体に戻る真実のひととき、その体験が何にも勝るものだという事ですね。

受容と葛藤は反比例

最近年齢と共に老いの諸症状が目立つようになってきたように感じています。やはり何につけてもスローになったなあと。

オシッコの出が悪い、筋肉痛がいつまでも続く、滑舌が悪い、他人の早口についていけない、動作が鈍い等々。

今ちょっと思いつくだけ挙げたのですが、きっと他にも沢山スローになってしまったものがあるはずです。

悔しいのが、どうでもいい爪の伸びるのと髭の伸びるのだけはスローにならずにいて、面倒は変わらずですね。

この老化現象をそのまま受容することができると、べつに何ということはないのですが、一度嫌だなと思うと心に葛藤が始まります。

結局、内面が穏やかでいられないということは、自分自身に対して受容が足りてない証拠だということですね。

もしもあなたが自分はバカだと思っているとして、それを認めたくなくて頑張っていれば必ず葛藤が生まれます。

バカだということを受容してしまえば、バカなことをしでかしたとしても落ち込むこともなくなるのです。

受容が深まればそれだけ心は穏やかになり、満ち足りるのです。そしてそれだけ夢を見なくなるでしょうね。夢のネタは基本葛藤から来るからです。

ひねくれ頭

人類の文化的躍進のきっかけは、7万年前に起きた「脳の突然変異」だったという研究があるそうです。

ネット上で見つけた記事なので、読んだ方もいらっしゃるかもしれませんね。一応その記事の内容を信じるとすると、私としては物凄く興味深い内容なのです。

脳の前頭前野の発達を遅らせる突然変異が起きたおかげで、複雑な言語(再帰言語というらしい)を理解するようになったということです。

そのおかげで、実在しない「想像の産物」をほかの誰かに伝えることができるようになり、それが人類の文化的歴史の幕を開けることになったらしいのです。

イメージを相手に伝えるためには、前頭前野が十分に発達してしまう前に複雑な言語を沢山聴いておかなければならないのです。

もしも仮に3年間のうちに前頭前野が発達し終わってしまうと、イメージの伝搬をすることができなくなってしまうのです。

興味深いことに、ブラジルのアマゾン川のほとりには、ピダハン族と呼ばれる「再帰言語を話さない」狩猟採集民族が暮らしているのだそう。

ピダハン語には数や左右、色彩、それに性差の概念がない。彼らは実際に見聞きしたことしか話さず、架空の話はしないのだそう。

文法には過去や未来の概念もなく、“いま”を生きている。そのためか宗教をもたず、未来への不安もなく過去からの後悔もないのだそう。

ちなみにピダハン族は自らを「真っ直ぐな民」と呼び、外部の人間を「ひねくれ頭」と呼ぶのだそう。我々はみんな多分、ひねくれ頭ですね。

「選ぶ」を再考する

私たち人間の毎日の生活というのは、ずっと何かを選び続けることで成り立っているとも言えます。

朝目が覚めて起きようか、それとももう少し寝ようかを選択します。朝食は目玉焼きにパンか、それとも納豆にご飯にするか。

自粛規制が緩和されたらどこへ行こうか、それともまだまだ自宅待機をし続けるのか。あらゆることが選ぶことによって進行していくのです。

どうせ選ぶのなら、悪よりも善、不快よりも快、つまらないものよりも素晴らしいもの、無価値のものよりも価値あるものを選択したいものです。

ところで何を選ぶにしても、選ぶ主体であるあなたは自我だということを忘れてはなりません。

より良いものを選ぶ方がいいに決まってるのですが、選ぶ主体であるあなたが自我であるなら、何を選んだところで変わりはないということです。

セラピストである私は、クライアントさんに防衛(自己犠牲)よりも無邪気さを選んで下さいと言うかもしれません。

それは間違いではないのですが、いつかは理解しなければならないこと、それは選ぶことで自我は力を維持できるという事実です。

このことに気付くことができたら、何を選ぶかということよりも選ぶことそれ自体が少なくなっていくかどうかを見守ることですね。

真実と自我の混在

セラピストが行ういわゆる心理療法というのは、心の癒しが目的なのですが、そのターゲットとなるのは当然あなたです。

あなたがいて、これこれしかじかの過去を生きてきたということが前提となって、内面のキズだとか溜め込んだネガティブな感情などをみていくのです。

気づかずに抑圧してきてしまった様々なモノに気づいて、それを解放することで少しでも生きやすくなるようにしていくのが癒しなのです。

ですので私のホームページにあるコラムなどは、そのような目的のために書き下ろしたもので埋まっています。

ところが一方でこのブログでは、癒しの前提であるあなた(自我)が存在すること自体を否定するような内容も沢山混在しています。

ですので場合によっては、一体何のことを言っているのか皆目分からないということも起きるかもしれません。

あなたの本質は自我なんかじゃない、と言われてもピンとこないのは当然です。癒しの大前提がなくなってしまうからですね。

これは分かりづらいことを書いて、読者を煙に巻きたい訳ではなくて、物事の見方を変えてみることで意外な癒しが起きたりすることを期待しているのです。

私自身、自分(個人)という存在は単なるイメージなんだということを知ったとき、物凄く心穏やかになれたことを覚えています。

真実というのは、私たち人間がどれほどの高度な知恵を使っても、まったく到達することのできない領域なのです。

それは私たちは思考で真理を理解しようとするからです。こうしたことに気付くことは、自我の癒しにもいい影響を与え得ると思っています。

というわけで、わかりにくい内容になっている可能性があるのは承知の上で、このブログを書いていますので、読んでいて意味不明だなと思ったら自我のレベルの話しではないと思ってください。

自我のない動物は凄い

先日テレビの番組で観たのですが、あの可愛いニホンミツバチが、その10倍以上も身体の大きいオオスズメバチをやっつける方法が凄いのです。

天敵であるオオスズメバチが巣内に侵入すると、数百匹の働き蜂がオオスズメバチを取り囲んで「蜂球」を形成するのです。

そして彼らは一斉に身体の一部を振動させて発熱して、自分たちが死なずに済む温度でかつオオスズメバチが死ぬちょうどのところまで温度を上げていって、オオスズメバチを蒸し殺しにするのです。

これだけでも凄いなと思うのですが、ここには二つほど感心させられたことがあったのです。

その一つは、オオスズメバチが巣内に入ってきても、ニホンミツバチたちは最初ただ逃げるだけなのです。

ところが不幸にもその中の一匹がオオスズメバチにやられたと思った瞬間に、突如として蜂球を作る作業に取り掛かるのです。

つまり悪者が侵入してきても、自分たちからは攻撃しようとしないということ。この様子を観ていて、ちょっと歯痒い感じになったくらいです。

もう一つの感心したことは、オオスズメバチに向かっていって蜂球を作る蜂は若者の蜂ではないとのこと。

ある程度年齢のいった蜂だけが蜂球を作るために、誰から指示されたわけでもないのに突進していくらしいのです。

なぜなら、オオスズメバチを蒸し殺しにするためには、自分たちにとってもギリギリまで温度を上げる必要があり、その結果寿命が3分の1縮んでしまうのだとか。

年寄りの鏡ですね。こんな完璧とも言えるチームワークを見せられてしまうと、蜂よりも賢いと自負している人間が愚かしく見えてしまいます。

けれどもこれは当然のことなのです。蜂には愚かしい自我がなく、人間には自我があるからですね。とほほ…。