自分とは何なのだ?を追求する

私たちの一人ひとりが本当に救われる方法はたった一つしかありません。それは、自分の正体を見抜くこと。ただそれだけなのです。

けれどもその探究に立ちはだかって邪魔をするのが自我なのです。そしてその自我こそが、これが自分だと思っている張本人なのですから厄介です。

つまりは、私たちは自己の本質を見誤った上に、思考によってでっち上げられた自我のことを自分自身だと堅く信じて疑おうともしないのです。

それどころか、こういった話しには全く興味を示さずに、ただ怪しい宗教か何かの教えのようなものだろうと考えるのです。

これはスピリチュアルなことでも何でもありません。非常に現実的な全く持ってリアリティな話しなのです。

自我というのは本人のDNAと、生育環境によって作り上げられるものなので、特に環境の良し悪しによって、かなり決定的な違いができてしまうのです。

場合によっては、80年程度の一度の人生の中で、十分に癒しができるとは限りません。そんな場合は、心理療法などの癒しをしなくてもいいと思います。

とにかく、自分という存在は何なのだ?というところを探究することです。たとえ自我が消えていかないとしても、自己の本質を垣間見ることができるかもしれません。

その経験はきっとなにものにも代えがたい特別なものとなるでしょうね。

不可能なチャレンジ

この世界には、チャレンジできることは山ほどあるのですが、その中で決してチャレンジしてはいけないものもあるのです。

それは、不可能なことです。つまり、どれほどチャンレンジしてみたところで、元々実現不可能なことであればどうしようもないので、それは単なる無駄骨に終わってしまうのです。

例えば、AがAになろうとすることは不可能なことの典型ですね。AはそのままでAなのですから、Aになろうとすることは無意味だし不可能なこと。

それはAがBになろうとすること以上に不可能なことです。でもなぜそんな無駄なチャレンジが起きうるのか?

それはAであることを忘れてしまい、元々の己の実存であるAに憧れ、Aになろうと間違った目標を作り上げてしまうということです。

だからAがAになろうとしているということは、当の本人は自分のことをAではないと信じ込んでいるということです。

だからこそAになろうと努力することができるのです。だからこの目論見は100%失敗に終わるのです。

何度も言いますが、この努力は無駄なのですが、無駄な努力でもとことんやるのであれば、無駄ではなくなる時がやってきます。

それはどれほど努力したところで無理だったと気づくとき。そのときにこそ初めて努力はいらないという大切なことに気づくことになるのです。

と同時に、己の実存はAだったということにも気づくことになるのですね。

自我の罠から抜け出す

だいぶ前になるのですが、確かジュースか何かのコマーシャルで、100%天然であることを強調するために、「何も足さない、何も引かない」みたいなフレーズがありました。正確ではないかもしれませんが…。

つまりもぎたての果実をあるがままに絞ったものですよ〜、ということを訴えるために作ったキャッチコピーなのでしょう。

私の心に残っているところを見ると、これを作ったコピーライターの人は優秀なんだろうと思います。

足したり引いたりしないということは、そこに人為的なものが介入していないということであって、あるがままでOKだということです。

このあるがままでOKというのは、それが良いということではありません。良い悪いという見方をしないということ。

もしもあなたが今の自分は◯◯なので、もっと◯◯にならなければいけないという思いがあるなら、足したりり引いたりしたいわけです。

つまりは、改善しようとするということ。何か自分に対する目標のようなもの、理想のようなものを設定して、少しでもそこに近づこうとするわけです。

社会的には素晴らしいことだとされるでしょうし、私も反対はしません。ただし、やるならとことんやる必要はあると思います。

やれるところまでとことんやることが不可欠なのは、もうこれ以上は無理だというところまでやって、あきらめがついたときに初めて、改善しようとするのが無駄なことだったと気づくからです。

中途半端のままでは、永久にこれを繰り返すことになってしまうのです。だから方法は二つしかありません。

とことんやって気づくのか、深い理解によってそのことに気づくのか。気づいたとき、ようやく自我の罠から抜け出すことになるのですね。

愛もどきの防衛を見破る

「自我=防衛」ということを繰り返しこのブログではお伝えしてきました。だから、自分が防衛している間は自我に飲み込まれているということなのです。

その瞬間、無防備(愛)という本質である自分は隠されてしまっているのですが、そのことには必ずしも気づいているとは限らないのです。

というのも、自己防衛の中にはそれとは気づきにくいものも沢山あるからです。たとえば、「愛を選択する」という生き方があるとします。

つまり、自分は自我ではないということを証明しようとして、あるいは少しでも本質である愛という存在に近づこうとして、なるべく愛を選ぼうとするわけです。

人を欺くことよりも、正直になるように頑張る。人を嫌うよりも好きになるようにする。自分のことよりも他人を優先するように努める。

こうした行動を意識的に選択することで、自我から離れようとするわけですが、これこそが自己防衛だとは気づけないのです。

でもよ〜く見つめてみればすぐに分かること。愛の存在という目標に近づこうとして自分を強いることは、防衛なのです。

優しい人、親切な人、無防備な人、愛に溢れる人になろうとすればするほど、自我が活性化してしまうのです。愛は決して強いることはないからです。

もしもあなたが自我から遠ざかりたいと願うなら、自分の中に存在するようなふりをしている自我を、愛を持って見守ることです。

それだけを継続するなら、いずれは自我からエネルギーが奪われて衰退していくことになるのですね。

本質は自我ではないという証拠

個人として生きている限りは、自分のことを自我だと思い込んでいるということです。そして自我の本性は、自分の存在を証明しようとすること。

そのためには、自分を防衛しなければならないのです。自分とは特別な存在だということを他のみんなに認めさせたいという欲求を持っているのです。

ところがその一方では、誰かの「自我とはかけ離れた姿」を見ると、なんとも不思議なことに胸が熱くなり深く感動することになるのです。

そして自分が求めていたものは、あれだと気づくことになるのです。自分もその人のように他人のために生きるような人生にしたいと思うのです。

愛に満ちたその人の言動が嬉しくて、この感覚は一体どこからくるのだろうと思うのですが、そんな気持ちもすぐに何処かへ吹っ飛んで、またいつもの防衛三昧の毎日が続くのです。

こうした自分の内面の二面性に気づいていない人はいないはずですが、ことさらそのことに疑問を感じて、その原因を究明しようとはしないのです。

二面性の原因はとてもシンプルです。それは、私たちの本性は自我ではないということ。自我と同一化しているために、愛の状態で生きることが阻害されているのです。

だから私たちは、自分の本性、本質にあこがれて、そこに戻りたいと願っているということです。それなら安心して下さい。

私たちは一度も自我になってしまったことはありませんし、自我という実体もないのです。それはただの妄想であって、私たちの本質はそのままなのですから。

あなたが否定される理由はこれ!

私たちは、他人から否定されると惨めで悲しくなります。自分のことが情けなく思えたりして、落ち込んだ状態にもなりますね。

そういった経験をしたことがないという人はいないでしょう。できれば、肯定され、認められて、あわよくば褒められたらもっと嬉しいものです。

けれども待ってください。誰かに否定されたときに、あなたが事実だから仕方がないとあきらめるのか、それとも何でそんなふうに否定されなければならないのかと思うのか、どちらでしょう?

実はあなたが否定されたとしたら、それがどんな場合であろうとも、否定される本当の理由はあなたの側にはないということです。

じゃあどこに否定される原因があるのか?それは否定する側の人の内側にこそあるのです。このことを深く理解できるなら、否定されても落ち込む度合いが小さくなるはずです。

Aさんがあなたを否定したとしましょう。その時、Aさんのマインドの中にはある目的が隠されているのです。

それは、あなたを否定することを利用して、その裏でこっそりと自己肯定しようとしているということです。

つまり、「お前はダメだ!」というときには、「私はダメじゃないけどね!」という自己肯定が含まれているのです。

ではなぜAさんは、あなたを否定してまで自己肯定しようと思ったのか?それはAさんの内側にどうしようもない自己否定感があるからです。

自己否定を払拭したいがために、あなたを否定することで自己肯定していたのです。だから、誰に否定されようともこのマインドの仕組みを思い出せば、あなたは傷付かずに済むのです。

この仕組みをあなたの内側深くに浸透させてください。これがあなたのものになればなるほど、外側からの否定に対して平然としていられるようになるはずです。

抑圧という防衛

このブログで繰り返しお伝えしている事ですが、「自我とは自己防衛」と言い換えることができるくらい、両者はペアなのです。

つまり自我として生きている限り、そこには心理的自己防衛があるのです。自己防衛が小さくなって、無防備になっていけば自我も小さくなっていくということです。

そのくらい、自我の本質とも言える自己防衛なので、その具体的な方法はそれこそ無限にあると思っても間違いありません。

その代表が抑圧というものです。自覚していると辛すぎるような思い、気持ち、感情などを自覚できないマインドの領域へと隠してしまうこと。

それが抑圧なのです。抑圧されたものは、潜在意識と呼ばれるマインドの領域へと持っていかれ、そこに閉じ込められるのです。

要するに都合の悪いものを地下室の奥へとしまって鍵をかけてしまうようなもの。始めからなかったことにしてしまうというものです。

逆に言えば、抑圧がなければ潜在意識などという部分ができあがることもなかったわけです。ということで、抑圧は自我の防衛の中でも中心的な役割を持っているのです。

自我に抑圧という能力がなければ、人類は非常に健康的で平和な世界を築いていたかもしれません。隠すことができなければ、直面するしかないからです。

そうなったら、物事はとてもシンプルになるだろうし、嘘もなくなり、ドラマティックな物語もなかったのでしょうね。

生そのものが手段であり目的

私たちの生き方の基本にあるものは、大抵次のようなものと言っていいでしょう。まずはじめに目標を定め、それを達成するためにさまざまな手段をこうずるのです。

一度目標を達成したらさらに次の目標を設定して、また別の手段をこうずるという具合に永遠と続くわけです。

それが私たちの人生のカタチなのです。ところが、これこそが苦しみの原因なのです。なぜなら、目標、目的は常に未来にあり、達成するための手段によって自己犠牲を生み出すからです。

目標を達成できなければ満たされないし、目標から遠ざかればそれだけ自己否定が生まれるのです。

ここでは発想の転換が必要なのです。それは人生というのはただ目標を達成するための手段ではないということ。

人生そのもの自体が目標であり、目的なのだと理解することなのです。手段と目的が分離せずにあるなら、未来はなくなるのです。

この感覚がやってくれば、人生を物語として見ることが自然とできるようになるのですね。

過去を変えることは可能

ある人がこう言いました。未来を変えることはできないけれど、過去を変えることはできる、と。

普通に考えて、もうすでに起きてしまったことを変えるなんてことはできるはずがないと思うわけです。

ところが過去というのは、実は二種類あってそのうちの一つについては、変えることができるということを言っているのです。

過去何があったかという事実を変えることはもちろんできません。それは確かなことですね。けれども、過去が自分にとってどんなものかということは変えることができるのです。

例えば失敗をした過去があるという時、その失敗というのは事実ではなくて、あなたがある出来事を失敗だと判断しているに過ぎないのです。

その時点で失敗だと判断したとしても、現在のあなたがそれを失敗と見続けるかどうかは、変わる可能性があるということです。

その失敗を反省して、それが現在の自分の仕事やその他のことに非常に役に立っているとしたら、その過去はもはや失敗ではなくなるのです。

辛い過去をいつまでも辛いものとして捉えて見ようとしないなら、それは過去が変わることはありません。

けれども、辛い過去を勇気を持ってマインドの中で再体験することができれば、今の自分はそれを人生の糧として利用することも可能なのです。

癒しというのは、後者を選択して見たくない過去をなくしていくことなのですね。

自分の内側には誰もいない

私たちは、自分の内側には誰もいないなどというたわ言には興味がありません。なぜなら、そもそも自分の人生は自分がいるということが前提だからです。

自分の内側には誰もいないということを見抜く以外には、決して満たされることはないと言われたところで、そんなことには興味がないのです。

自分がいて、その自分が満足するためにはどうしたらいいのかを一生懸命考えて生きているのですから。

あらゆる可能性を試して、それでも結局自分がいる限りは真の静寂は来なかったと気づくまでは挑戦し続けるのです。

それが何万年になろうとも、決して諦めようとはしないのです。けれども、一方では自分はいないということを気づくチャンスはそこらじゅうに転がっています。

それは当たり前だと思い込んでいることを、疑ってみてそれが本当なのかどうかを検証してみればいいのです。

たとえば、経験というのは自分がいるからするのだというのは単なる思い込みだと気づけばいいのです。経験とはただそれが起きているだけだからです。

経験したことが記憶されるのも、自分がいるからだというのも思い込みに過ぎません。この世界というのは、ただ現象が起きつつあるだけなのです。

そのすべてを私という個人が体験しているというのは、思考でしかないと気づけば、自分がいるという夢から目覚めることができるのです。

そのほかにも、瞬間的であればあなたが幼い子供のように無邪気に何かと戯れている間は、ほら、あなたの中に誰かを見出すことができないでしょう?