マインドは巨大スーパーマーケット

これまでに1万回近くのセッションをやってきてつくづく思うのは、全く得体の知れない、皆目理解ができないようなマインドと出会ったことがないということ。

本当にさまざまなクライアントさんが、さまざまな問題を抱えてやってきて下さるのですが、その原因の詳細が100%説明できないとしても、ほとんどのことは理解できてしまうのです。

それはなぜかというと、すべての人のマインドはみんな同じだからなのです。何が同じかと言うと、ベースとなる仕組みや品揃えが同じだということです。

たとえば、自分は人殺しの人の気持ちなどこれっぽっちもわからない、と言う人がいます。そんな野蛮で残酷な気持ちがないと思い込んでいるからです。

けれども、仕組みとしてみれば殺意というのは怒りの頂点にあるものなので、どんなマインドであれそれは環境さえ整えてあげればあり得るのです。

嫉妬深い人がいれば、嫉妬など経験したこともないという人もいるはずですね。けれども、マインドの仕組みの中には嫉妬する回路がちゃんとあるのです。

認めたくないかもしれませんが、差別する仕組みも備わっているのです。瞬間瞬間に多くの品揃えのスーパーから、何を選択して買い物をするのかという違いだけなのです。

あなたのマインドは他人のマインドと同じあらゆる品揃えのあるスーパーマーケットだということ。何をチョイスして料理するのかの違いだけなのです。

あなたがやることは、きょうはどんな料理をしようとしているのか、それをただ見守ってあげればいいのです。

それによってのみ、あなたはマインドに乗っ取られることがなくなるのです。それが生きる極意なのです。

自己防衛が強制する

社会の中で生活していれば、誰だって必ずや大なり小なり「やらなければならない」事がありますね。

このやらなければならない事のうち、やりたくないけどやるべきことと、やりたいのでやることの二種類があるのです。

とは言うものの、やりたいからやることの場合、私たちはやらなければならないというようには表現しないものです。

なぜなら、やるべきことであろうが何だろうが、やりたいので結局はやることになるということを知っているからです。

つまり、やらなければならないと感じていることの大半は、やりたくないことだと言っても間違いではないのです。

そのやらなければならないこと、つまりはやりたくないのにやらねばならないことというのは、概ねいつまでにという期限が切られているのです。

やりたくないのに、いついつまでにやれと強制されている状態というのは、もうそれだけでストレスになるのは当然ですね。

このような自分で自分に強制しつつ生きるのは、本当に馬鹿げたことなのです。なぜなら、本質的にはやらねばならないことなど一つもないからです。

あるのはやりたいからやることと、やりたくないからやらないことの二つだけ。それ以外はあなたが防衛によって作り出した幻想だと気づけばいいのです。

自己防衛がどれだけあなたを強制することになるのか、そこをじっくりと見て理解してあげることが肝要ですね。

心身はあちら側のもの

あなたの一番近くにいつもあるもの、それは何でしょう?それはその身体であり、そのマインドなのです。

この二つだけは、これまでもそしてこれからもずっとずっと死ぬまで、あなたから離れたりせずに一緒にあるのです。

世界中を見回しても、一つとして同じものはないこの二つの組み合わせが、あなたの至近距離で何をするのか、それを興味を持って見てあげることです。

身体はあなたをどこかへ連れて行くかもしれないし、時には病気になってあなたに苦痛や具合の悪さを感じさせるかもしれません。

マインドの方は、何かに怯えたり不安になったりして、あなたに生きにくさを投げかけてくるかもしれません。

他人に誇れるような身体だったりマインドだったりしないのかもしれません。たとえそうだとしても、その二つによってあなたは生を体験できるのです。

もしもあなたが、その身体とそのマインドの両方ともが、自分自身ではないということをいつも自覚していられたらどうなるでしょう?

きっと毎日がすっかり変わってしまうでしょうね。身近にはあるものの、その二つはあちら側に属するものだと気づくなら、自分の本質にも気づくことになるはずだからです。

生産性ゼロを生きると…

世の中には、自分が何を望んでいて、何をしたいのかを明確に持っている人がいますね。そういう人は、目標に向かって黙々と進んでいくのです。

その姿には本当に憧れるし、羨ましいとも感じます。じゃあ、その逆に自分が何をしたいのか分からないでいる人は、一体どうすればいいのか?

何を隠そう、私自身は記憶のある限りずっとそういう人生を生きてきた側なのです。とりたててやりたいと思うことが本当にない。

ちょっと面白そうだからやってみようと思って挑戦しても、熱は一時的なもので自分で呆れるくらいあっという間に冷めてしまうのです。

結局また目標を持てない状態に戻ってしまい、ただただつまらない毎日が過ぎて行くという不満の中に収まるのです。

そんなときに、私がやった一つの方法は、無理にしたいことを探そうとせずにいるということでした。

あれこれ考えて試してみたところで、また失望させられるのなら、いっそのこと潔く諦めて、自分自身を静観してみるのです。

興味の対象が外側にないのであれば、そのエネルギーを自分という存在に向けてみるということです。とにかく自分に意識を向け続けるのです。

社会的な生産性はゼロになるのですが、そんなことはお構いなしに放っておくと、不思議な落ち着きのようなものがやってきてくれるのです。

そこから見えてくるものがあるのです。それはつまりこの世界の見方が変わるということかもしれません。

我々の本質は思考ではない

思考というのは、来たり出て行ったりするものです。いつそれがやってきて、またいつ出ていくのかはコントロールできるものではないのです。

思考を遮断しようと頑張っても、やってくるときにはどうしてもやってきてしまうのです。

その証拠に瞑想によって、思考を追い出そうとしても、そうそううまくはいかないという経験を誰もが持っているのですから。

一方で、私たちは自分のことを思考だとは思っていないはずですね。だって、やって来たり出て行ったりするものによって自分ができているなど、有り得ないと思うからです。

自分という存在はずーっと継続して在るものだと感じているからです。けれども、普段の生活の中で、これが自分だと信じている自分というのは自我であって、それは思考の産物なのです。

じゃあ常に継続的に存在する自己とは一体何なのでしょうか?それは思考の出入りとは無関係にただ在るなにかなのです。

それを意識と呼んでもいいし、無と呼んでも全体性と呼んでも構いません。コレという明確な表現ができないものです。

思考のような曖昧な風来坊のようなものは単なる雲であって、私たちの実在というのは荒唐無稽な青空のようなものだと理解することですね。

「性善説」はホント?

「性善説」という言葉がありますが、それは我々人間の本性というのは基本的には善であるという教えです。

自分自身も人間の一人として、そうあったらいいなと思うのが正直なところです。けれども、そうはいかない残念な話しをします。

そもそも人間という生き物の内情を深く知ることができたら、安易に性善説など信じることができないのです。

私たちがこれが自分だと信じて疑わないでいる「自我」のことを、深く理解すればするほど、性善説から遠ざかるのです。

自我の本性は、自己防衛なのです。自我(マインド)が活動しているとき、平和であることはできません。

そこには葛藤や緊張、そして混乱が付きまとうのです。自分を守ろうとすれば、必ずや他人を犠牲にするか自己犠牲を生み出すかのどちらかになるのです。

私はそのことを「悪」とは思っていないのですが、さりとて到底「善」とも言えるようなものではないのです。

ただし、そんな私たちでも自我が一時的に活動を弱めている時があるのですが、その時にはすべてが「善」になるのも事実なのです。

善というよりも、自然でゆったりしていて自由な状態なのです。自我の防衛がなくなった無防備な状態になるのです。

世の中の問題のすべては、自我からやってくるということを肝に命じて忘れないことですね。

自分だけが見えない世界

私たちは、誰もが自分の姿だけが抜け落ちている世界で生きているのです。この意味分かりますか?

小学生の頃、授業中の教室の中を見回してみても、自分だけは友達の姿を見るようには見ることができないことを知っていました。

違和感を持ってはいたのですが、さすがにそこを追求するだけの力がなかったので、そのまま放っておいたのです。

そしてそのことは、ずっと長い間すっかり忘れられていたのですが、今から8年前くらいから復活してきたのです。

ただ復活したのではなくて、自分の姿がないということがとてつもない真実を見させられていることに気づかされたのです。

写真の中の自分や、鏡を覗き込んだときに映る自分の姿を見て安心するのですが、そうしないでいたら自分は他人のようにはいないということが目立ってくるのです。

この年齢にもなると、自分を見ようとして鏡を見ることはほとんどなくなってくるので、ずっと自分が見えない世界で生きるのが普通になってしまいました。

安心がいらなくなってくると、年齢を重ねた自分の姿が見えない世界で生きるのは、居心地がいいものですね。

そして都合よく、見えているもののすべてが自分の本当の姿なのだという感覚がやってくると、一瞬であれ防衛が消えて愛だけになるのですね。

自分自身に注力する

自分以外の誰かのことに興味を抱くのは、ごく普通のことだと思うのですが、それがあまりにもエンドレスだとしたら、少し異様な感じがするのです。

他人の人生がどうであれ、本質的にはどうしようもないことだと思ってしまうのです。そして正直、それほど興味を持てないということもあります。

自分自身のことに取り組んでいるのであれば、おのずと他人の人生がどうなのかということにエネルギーは使えないのです。

自分の人生に不満を持っていたり、他人の人生と比べてみたりするなら、エネルギーの無駄遣いをしているということです。

こうしたことを深く理解できるなら、たとえば子供が不登校になったとしても、それが悪いことだとしてなんとしても学校に行かせようとする親にはならないはずです。

学校が楽しくて仕方なかったという人が親であっても、同様にして子供の不登校に殊更不安を感じることもないでしょう。

行きたくもないのに学校に行っていた人が親になった場合の方が、子供の不登校を正そうとすると思うのです。

我慢が中心になっている人は、常識が大事になるのです。そうなると、常識というのは他人との間に存在するものなので、結果として他人のことが気になるのです。

他人の心配をしている暇があったら、自分に意識を向ける練習をしましょう。もっともっと自分に関わることです。

そうして自分とは一体何者なのか?そこに時間とエネルギーを注力すれば、いろいろなことが明確になっていくでしょうね。

成功も失敗もない

生きていれば、うまくいくこともあれば、反対にうまくいかないこともあります。それはどうしても避けては通れないことだと思われています。

簡潔に表現すれば、成功するか失敗するかということになりますね。誰でも成功を増やして、失敗を避けたいと思うものです。

ところで、成功とか失敗というのはどうやって区別するのでしょうか?それは当然のこと、期待値に近ければ成功であり、遠ければ失敗という判断を下すのです。

100点をとりたいという期待値を持っていれば、100点に近い結果であれば成功と言えるし、50点であれば失敗したということになるでしょうね。

ということは、期待値が元々ないのであれば、成功も失敗も消えてしまうということに気づくのです。

未来に対して期待するというたった一つのことによって、私たちは成功したり失敗したりを経験することになるわけです。

起きることがただ起きるのだということに気づくなら、そこにはどんな成功も失敗もないということが分かります。

起き続けることがすべてなのです。そこにはどんな理由も目的もないのです。この感覚がほんの少しでもやってきたら、成功失敗のどちらからも距離ができるようになりますね。

無関心は最強

多くの人が同意してくれると思うのですが、嫌われるよりも好かれた方がいいに決まっていますよね。

そして嫌われるよりももっといやなことは、無関心になられることなのです。嫌いというのはまだ、存在を意識してもらっているのです。

無関心とは、存在自体に興味を持たれていないということなので、それが一番辛いことと言っていいでしょうね。

この事実を逆手に取ることで、不必要なことや困ったことから解放される素晴らしい方法があるのです。

例えば、あなたが自分の様々な点を改善したいと思っているとします。すると、あなたはここを直したい、これをなくしたいという具合に常に考えるのです。

そしてそれは大抵失敗に終わります。改善できたとしたら、それは非常に表面的なことばかりで、重要なことは改善できないでしょう。

なぜなら、改善しようとすることでその問題と戦ってしまうからです。戦えば、相手にパワーを与えることになるからです。

もしもあなたがその問題に真から無関心でいられるようになったら、その問題はパワーを失って行き、しまいには自動的に消えていってしまうでしょう。

大切なことは、無関心を装うのでは逆効果になるということです。本当に無関心になることなのです。

つまり改善しようとすることをすっかり忘れてしまうなら、気づいたときにはもう問題は始末されてしまっていることでしょうね。