ハートは覚醒してる

「やみ」という字は、「闇」と書きます。門構えの中に音が閉じ込められているので、「やみ」というより静寂って感じがしませんか?

この論理でいくと、「やみ」という感じは門構えの中に「光」と書くべきだといつも密かに思っています。

こんなことをつらつら理屈っぽく考えているのが、私の自我の特徴ですね。そういう微妙な不条理を見つけるのが好きみたいです。

今年の12月に公開される映画「えんとつ町のプペル」の主題歌の中に、こんな一節があります。

「ハロウィンの夜にやってきた
体がゴミのゴミ人間
えんとつ町は大騒ぎ ひどいニオイさ
「臭い 臭い」と囃されて
キミは外にハジかれる
一人ぼっちのゴミ人間
だけどどうだ?

ゴミの体のその奥には
綺麗なハートがある
ごらん、体の汚れなんて洗えばこのとおり
見た目なんてどうだっていいのさ
キミはとても素敵」

身体はゴミで出来ているから臭くて仕方がないのだけれど、奥には綺麗なハートがあると言うわけです。

ここで勘違いしてはいけないのが、綺麗なハートがあるのはゴミ人間だけではなくて、どんな人間のハートだって綺麗だということです。

ハートは常に覚醒しているからです。それに対して、マインド(頭)だけが思考まみれになっているのです。

頭から抜け出してハートの中に落ちるとき、非二元の世界が突然姿を顕すことになるのですね。

なんてことを考えているのも私の自我の特徴かもしれません。