裁く文化に一言

有名なお笑い芸人のお二人の記者(謝罪)会見を観ていて、いつも感じていたことと同じ違和感をまた感じたので、そのことについて書いてみます。

反社会的組織の人たちと飲んだり、ギャラをもらったり、それをもらっていないと嘘を言ったりしたらしいのですが、だから何なのでしょう?

確かに褒められるようなことではないのは充分に分かるのですが、これほどまでに追い詰められて社会的制裁を受けて糾弾される必要があるのでしょうか?

嘘をついてごめんなさい!だけでいいのではないかと思うのです。これほどまでに大騒ぎになってしまったというけれど、大きな騒ぎにしたのはマスコミを含めた私たちの方でしょう。

あの人がこんなことをやったと知るや否や、とことんダメージを与えて裁くことをやめられないこの文化は一体どこから来てるのでしょうか?

いつの頃から、日本人は他人のことを裁くことに喜びを感じるようになってしまったのでしょうか?これが明らかに防衛だと見抜いている人もいるはずです。

私が子供の頃は、誰もがもっと鷹揚だったように記憶しています。古き良き時代というのは容易いですが、国民の誰もが裁くことが好きな国の未来は明るくはないのではないかと感じますね。

絶望が真理へと向かわせる

「絶望」という言葉を聞くと、無邪気な子供の頃よりも社会人として頑張っている大人の方に相応しい気がします。

社会人として生きるということは、なかなか大変なことだからですね。けれども、本当のところはどうでしょうか?

これは私の個人的な思いですが、大人になってからよりもむしろ子供の頃の方がたくさん絶望をしてきたのではないかと感じるのです。

大人よりも自覚が薄いということと、過去のことなので記憶が曖昧になってはっきり覚えていないかもしれませんが、子供は密かに絶望しているのです。

なぜなら無邪気に自然な生き方を当たり前のようにしつつも、周囲にいる家族という自我によって防衛しなければ生きていけないと知ることになるからです。

それはあまりにも辛く惨めで、こんなはずではなかったとどこかで思うのですが、そんな余裕すらないままに自我の世界へと引きずりこまれるのです。

それで絶望しないでいられるはずはないのです。子供は絶望して自我に迎合することを覚え、逞しく生きようとします。

その一方で、大人になってやってくる絶望こそ救われるチャンスなのです。なぜなら、もう迎合するものもなく、残るは真理へと向かうのみとなるからです。

自分に何も押し付けない

人はシンプルな生き方を実践すれば、自動的に癒されていくものです。シンプルさとは自然であるということと同じなのです。

たとえば、自分自身に対して何も押し付けたりしない、自分に過大な期待をしない、できれば期待を一切しないでいればそれが理想です。

人はいかにあるべきかというルール、あるいは観念を持って生きることをやめること。そういった正しさは自己防衛でしかないからです。

つまり自然であるとは、心理的な無防備さからやってくるとも言えますね。こうした幼な子のような生き方こそがシンプルで、自然であるということです。

逆に、過去と未来が大切な自我に巻き込まれてしまうと、複雑で不自然な生き方をすることになるのです。これこそがドラマチックな人生を生むのですが…。

とりたてて他人に話すようなことのない人生でいいのです。階段を見つけたら、それを登ろうとする代わりに、それを放棄するのです。

何かを成し遂げようとする目標志向から解放されて、充分に今この瞬間を堪能できる日々になるといいですね。

真理はすぐそばにある

真理は何も自分から見つからないように隠れようとしているわけでもないし、本当はすぐ目の前にいつでも見つかるように広がっているのです。

問題はそれを見ようとしないだけなのです。なぜなら真理というのは、マインドにとっては非常に都合の悪いものだからです。

したがって真理に到達するためには、難行苦行を遂行できる特別な人だけがそれを可能にできるとイメージされやすいのです。

大事なのは、見抜くということです。目の前に繰り広げられる日々の物語に一喜一憂するのであれば、真理はその影に隠れて見えなくなってしまうでしょう。

真理は物語の中にはないからです。だからまずは、物語を物語だと気付く目を持つこと。その時に初めて物語の向こう側があるという感覚がやってきます。

私たちが日頃見聞きして感じているのは、対象物としてのこの世界なのですが、真理は対象物ではなく、ただ在るもの。

次のような練習をしてみると、もしかしたら何となくそれを感じられるかもしれません。目を開けた状態のまま、視点を固定しつつも何も見ていないという状態にするのです。

するとすぐに意識が内側へと向いてきます。それだけで普段見ている物語の背景に在る真理を感じられるかもしれません。是非試してみて下さい。

シンプルさを取り戻す

幼い頃、何もかもがとてもシンプルだったのです。毎日の中に複雑さなどどこにもありませんでした。

ただそうしたいからする、面白そうだからやってみる。そこにはどんな目的もなかったのです。

ところが自我の発達とともに、ひとたび目的ができてしまうと、それを達成するためにシンプルさから遠ざかってしまうようになるのです。

なぜなら、目的達成という未来に気持ちがいってしまうために、ちょうど今をどう楽しむかということにエネルギーを使わなくなってしまうからです。

だから複雑になっていくのです。せっかく自分を楽しませてくれるものが今この瞬間に満載なはずなのに、そういったものが色あせて感じられてしまうようになるのです。

ちょうど今が犠牲にならなければ、目的を達成することができないという生き方になってしまうのです。

こうしたことに気づいて、過去や未来よりも今を大切に、今感じていることがすべてだと思って生きようと思っても、これまでの習慣が邪魔をするのです。

残念ながら、自我は今この瞬間を愉しむことができないのです。だからすぐに過去か未来へと気持ちが向かってしまうわけです。

そんな自分の自我の習慣をただ見ていてあげるという練習をすることです。そしてそれを楽しめるようになったら、結果としてシンプルさを取り戻すことができるかもしれませんね。

親2世が自分を裁く

人間というのは社会的な存在と言っていいと思います。社会の中で生きていくためには、ある程度のルールというものは必要となるのです。

ただしルールを最優先させてしまえば、行きづらい不自由な生活を強いられてしまうという面もあるのです。

ルールは社会生活を快適にするためのものであるならいいのですが、ルールを守ることを防衛の手段にしてしまうと危険です。

たとえば、幼い頃から親にとっての正しさ、それを守ることを強制されてしまうと、これから自由に羽ばたこうとする大切なエネルギーを阻害されることになるのです。

子供は、特に敏感な子供にとっては、正しさを守らそうとする親の意向を必死に汲み取ってしまうため、反抗したり自分の意見を主張することができなくなってしまうのです。

そうなると、何かをするときに許可を必要とするマインドが出来上がってしまい、自分一人で決断したり、自信を持って前へ進むことができなくなるのです。

親と同じマインドが子供のマインドの中に作られて(それを親2世と呼びます)、それが自分を裁くのです。

すると、他人からも裁かれるのではないかという恐れが作られるようになって、どうにも不自由で生きづらい人生がやってくるというわけです。

優れた親というものは、子供に正しさを教える代わりに気持ちを受け止めることを優先してくれるものです。

その違いは子供の人生にとって、計り知れない影響を与えることになると知ることですね。

思考が現実に与える影響

科学というのは、迷信や誰かの一方的な主張などとは違い、論理的に導きだされた理論を実験という手段で証明していくものですね。

つまり科学的な正しさとは、客観的な正しさがあらゆる実験によって検証されたものだということです。

実際、一つの理論が発表されると、世界中の大勢の科学者たちがこぞって様々な実験を考案して、その結果として理論の正しさ(あるいは間違い)を裏付けようとするのです。

そうして十分に吟味された実験方法、実験手段を用いて得られた実験結果こそが、客観的な事実を証明したことになるのです。

有名なネイチャー誌などに公表された論文などは、そういう意味では物凄く権威があって、その結果を誰もが信じることになるのです。

ところが、そうした論文の多く(8割程度も)は何年かすると、その間違いが発見されたりしているそうなのです。

ここからは私の勝手な考え方ではあるのですが、単に実験方法が未熟だったということではなく、何かしらの違う要因が働いているのではないかと感じるのです。

それは実験者の思考ではないかと思うのです。似たような実験をしたとしても、実験者の思考エネルギーが全く異なる場合には、それに応じて異なる結果がでてしまうのではないかと。

こうしたことがほんの少しでもあり得るとするなら、科学はこの先行き詰まる可能性もあるということになります。

たとえば身近な例をあげれば、人体の健康にとって良い食べ物とは?ということでも、科学的な検証によって大雑把なことは確かに分かるのです。

けれども、食べ物を摂取する人の思考エネルギーによって、何が良くて何が悪いかということは充分に変わる可能性があるということです。

あなたの思考があなたの人生に与える影響がどれほどのものか、そのことを一度よく考えてみるのは決して無駄なことではないはずですね。

すべては過ぎてゆく

私にとって、本当に嬉しい気持ちになれるときというのは、自分の希望が叶ったときよりも、心から救われたと思えるときでした。

それだけマインドというのは安心したいのですね。マインド(自我)として生きている限り、不安がなくなることはないからでしょう。

喜びがやってきても、嬉しくてたまらない瞬間がきても、またすぐに不安は戻ってきてしまうのです。

その不安を根底から打ち消してしまうようなこと、それに気づいた時には心のそこから救われるのです。

私にとって、それは「すべては過ぎてゆく」ということなのです。自我としての自分が永遠に続くとしたら、それはもう地獄です。

けれども自我は必ず消えていくのですから、旅の恥はかき捨てとばかりに生きていけばいいのです。そう思うととても気が休まるのです。

人生でどれほど辛いことがやってきたとしても、耐え難いことが繰り返されたとしても、どんなものも一様に過ぎ去っていくのです。

それがとてもとても安らかな気持ちにしてくれるのです。そのことを思い出せば、あらゆる深刻さも吹き飛んでしまいますね。

瞑想とエンドルフィン

10年くらい前にも見よう見まねで瞑想をしていたのですが、そのときには少し深く入り込むとフワッとしたいい気持ちになれることを知っていました。

それがやってくることこそが、瞑想に成功した証だと勝手に思い込んでいたのですが、今ではそれがほんの通過点でしかなかったと分かるようになりました。

フワッとしたいい気分がやってくるのは、きっと脳内麻薬物質と言われているエンドルフィンが分泌されたせいなのでしょう。

エンドルフィンは脳内ホルモンの一種で、モルヒネの何倍もの鎮痛作用があると言われているのです。

瞑想に慣れてくると、それが自動的に分泌されることでちょっとした多幸感を味わえるというわけです。

ただそれはあくまでも身体がやってくれる作用であり、思考の中にいたとしてもそれは起きてしまうのです。

それに比べて、至福感というのは快楽物質とは全く異なる感覚で、それがやってきてくれるときというのは、思考をただ見ていられる状態なのです。

瞑想が苦手だという人の場合でも、地道に繰り返し練習をすることで、誰でも少しずつ慣れてくるはずです。

そして瞑想中に、その思考を見ているのは誰か?というのも同時にやってみるといいかもしれませんね。

思考のブラックホール

自分は思考ではないということを、どうすれば気付けるのか?これこそが鍵だと思うのです。

ある場所に思考が集まりだすと、さらにその吸引力によって似たような思考群が大量にやってきてはその塊を強化するのです。

ある意味ブラックホールのようなものなのかもしれません。何かの物質が集まると、その質量によって外のものをさらに引き寄せる力が強化されるのです。

そうして、最後は光さえも吸収して逃さない、ブラックホールが出来上がるのですが、私たちのマインドも同じようなものかもしれません。

ただし、何度も言うように思考がどれほど凝縮しようとも、それはただの思考であってあなたの本質ではありません。

あなたは、その思考が集まり、浮遊してまた集まる、その空間だと気づけばいいのです。その空間こそ別の表現を使えば意識なのです。

思考と同化しないためには、思考を眺めること。思考を常に見ていることができれば、それに飲み込まれることはなくなります。

あなたは自由に思考を浮遊させる広大無辺の空間、意識なのですね。そうなったら思考を恐れることもなくなってしまいます。