ハイアーマインドの声

昨日のブログの補足なのですが、ロアーマインドはハイアーマインドの存在を知ることはないと書きました。

確かに波動が違いすぎて、上位から下位を見ることはできるのですが、下位から上位を見ることはできないのです。

とはいうものの、例外的な事柄というのはあるものです。非常に辛く苦しい日々を送っている子供がいるとすると、その子のハイアーマインドが口を開くこともあるのです。

本人はその声がどこから届くものなのか、全く想像すらできないのですが、とにかく孤独でどうしようもない時に、鋭い洞察の声がやってくるということがあります。

私はそれが本人のハイアーマインドから来るものだと考えています。波動の違いを飛び越えて、それでもある瞬間にはその子の無思考の状態がその声を聞こえるくらいに波動を上げるのだと考えることもできます。

またクライアントさんの中には、催眠状態になったときだけハイアーマインドが出てきて、含蓄のある言葉を話す場合があります。

残念ながら、ご本人が催眠から覚めた時にその言葉をしっかり覚えておくことができないために、それがそのまま癒しに繋がることはありません。

毎日の生活に余裕がなく、ロアーマインドに巻き込まれていると、ハイアーマインドに気付くことは難しくなるのです。

けれどもたとえ一瞬であろうと、それと繋がる可能性はあるということを覚えておいて欲しいと思います。

二重生活を愉しむ

二重生活と言っても、表と裏ということではありません。ハイアーマインドとロアーマインドの双方に気づいているということです。

誰のマインドであれ、波動の非常に高い部分と低い部分に分かれているのです。多くの人は、低い部分つまりロアーマインドとして生きています。

それは防衛の大きさによって変わってくるのですが、ロアーマインドに飲み込まれていれば、人生をリアルな世界だと思い込んでいるのです。

一方ハイアーマインドの特徴は、人生を物語として見る目を持っているということ。ただ残念なことに、ロアーマインドからは遠くに分離しているので、ロアーマインドからはハイアーマインドを知ることはありません。

ハイアーマインドからすれば、ロアーマインドも含めてすべてをただありのままに見ることができるのです。

二重生活者となるためには、両者の真ん中に位置する必要があります。ロアーマインドの生活を見ながらも、ハイアーマインドの感覚を同時に感じるのです。

私自身は、ブログを書いているときにはハイアーマインド寄りになっていると思いますが、何か困ったことが起こるとロアーマインド寄りになるといった具合です。

どうせマインドで生きるのなら、二重生活を楽しんでみるのもいいと思いますよ。

水を見習いたい

人間の身体の60%くらいは水分でできているらしいですが、普段は自分のことを水人間だとは思ってないはずです。

しっかりとした骨格や筋組織、それと内臓などでできているという感覚です。そしてそうした固体というのは、固有の形を保持しているのです。

ところが水というのは、それ自身の固有の形を持っていません。逆に言えば、どんな形にでもなれる無類の柔軟性を持っているわけです。

水を超高速で小さなノズルから噴射させれば、鉄でも穴を開けることができるし、ベッドの中に水を敷くとあの素晴らしいウォーターベッドにもなるのです。

水の無形性に比べてみると、私たち自我というのは自分の独自性や特別さというものをとても大切にしていることがわかりますね。

自我にとって一番苦手なこととは、水のように周囲にぴったりと馴染んで溶けていってしまうことです。

それは自我にとっての自殺行為とみなされるからです。身体は水を多く含んでいるのではなく、水がベースで身体ができていると思えば、もう少し水を見習うこともできるかもしれませんね。

何ものにも縛られない

自覚があろうとなかろうと、誰もが自由を求めて生きているはずなのです。不自由な人生を好むなんてことはないからです。

ところが現実はどうかと言うと、不自由な人生を生きている人はたくさんいるのです。自分の人生なのに、どういうわけか生きたいようには生きられない。

したいと思っているのにできない、行きたいと思うところに行けない、一緒にいたいと思う人と一緒にいられない等々。

その不自由さの原因をしっかり見極めようともせずに、ただただ不自由な毎日の中でもがき苦しんでいるのです。

その理由は、不自由を強いられていると思い込んでしまっているからなのです。実は不自由さは外からやってくるものではないということ。

自分自身が不自由さを生み出している張本人だったと気付くまでは、不自由な人生が変わることはないのです。

不自由さの本当の原因は、マインドの自己防衛にあるのです。マインドは防衛するためには、自由を犠牲にすることができるのです。

そうしておいて、それを周りのせい、社会のせい、誰かのせいにして誤魔化すので、いつまでだっても自由を手に入れることができなかったということです。

防衛に気づき、少しずつでもそこから解放されていくなら、自ずと不自由さも小さくなっていくのです。

そして真の自由とは、マインド(自我)からの自由だということにも気付く必要があるのですね。

依存–共依存の強固な関係

数十年前くらいに、アメリカでアル中患者がたくさん世の中にいることが分かって、厚生するための施設も沢山作られて、回復する人も多くなったのです。

ところが、施設の生活で完全にアルコール中毒から抜けてきれいな身体となって自宅に戻ると、しばらくしてまたアル中の症状が出てしまうのです。

再度施設で厚生するも、自宅へ戻るとまた元の木阿弥という現象が続いたのです。困り果てた末に原因を詳細に調査した結果、驚くべきことが判明したのです。

それは、アル中のご主人を抱えた奥さんが一番の被害者であったはずなのに、何と奥さんと暮らすことでアル中は再発したのです。

実は奥さんのマインドの中に、依存者を必要とする部分があることに気づいたのです。それを共依存と呼ぶことになったのです。

つまり、共依存とは依存者に依存するマインドのことです。共依存は、それまであまり知られていなかったので、本当に驚かされたわけです。

自分がいなければこの人はダメになる、私が何とか頑張って面倒を見てあげなければならない、そういうことで自分の存在価値を見出そうとするマインドなのです。

もしも共依存の親に育てられたとしたら、その子はどうなるでしょうか?子供は敏感なので親の期待に応えようとして、親に依存することになるのです。

そうやって、親子の間での依存−共依存の強固な関係が成立することになるのですが、子供は自分の人生を台無しにすることになりますね。

共依存者は、全く自覚のないまま依存者をコントロールすることで、依存者のままでいさせようとするのですから、恐ろしいものです。

ほんの少しでも思い当たる節があるなら、その部分から目をそらすことなくしっかりと癒しを進めていく必要があるでしょうね。

求めるより待つこと

「求めよ、さらば与えられん。」という言葉がありますね。聖書の中の言葉だろうことは知っていますが、その真意は私は知りません。

ただ一般論としては、強く求めれば必ず願い事は叶うもの…のような感じで受け取られていると思います。

そうだとしたら、一言言いたいのです。それは、求めるということは自我の習性だということ。

つまり、求めて求めてそれを手に入れるということを繰り返す人生であれば、それは完全に自我に乗っ取られた人生だと言えるのです。

なぜ繰り返すかというと、求めた結果手に入ったにもかかわらず、満ち足りるということがないと気づいてしまうからです。

自我が求めて手に入れたものというのは、この世では価値のあるものかもしれませんが、どれもこれも一過性のものなのです。

いつかは消え失せてしまうのです。真実はそこにはありません。本能として赤子がお乳を求めるのは自然の摂理ですが、心理的なものは自我のものなのです。

真に大切なものは、必ず向こうからやってくるものです。それを待つことができれば、そのときには本当に満たされることになるはずなのです。

そして私たちにできることは、待つ間にやってくるものに気付くための準備をすることです。それが意識的であるということですね。

ノールールで生きる

私たちは社会的な存在なので、それなりのルールというものは必要なのですが、ここで話題にしたいルールというのは、自分自身に課すルールのこと。

それも日常的な物理的なルール、たとえば朝は何時に起きて、歯磨きをして、会社には遅れないように出社して等々のことではありません。

より個人的なこと、たとえばお酒は飲むべきではないとか、人とは仲良くしなければいけない、自分は人格者にならなければならない等々です。

こうしたルールというのは、自分の理想像を勝手に思い描いて、少しでもそこに近づこうとする目標のようなものですね。

それがどれほど素晴らしい目標であったとしても、それはすべて自我のものだということに気付く必要があるのです。

自分は怒らないようにしなければならない、人のことを否定したり見下したりしてはいけない、いつも理性的でなければならない等々。

全てやめることです。なぜか?それこそが自我の作戦に過ぎないからです。自我はより良い自分になるという目標を掲げることで生き延びようとするのです。

こういった改善病の虜から抜け出すコツは、まず一回勇気を持ってあるがままの自分を見てあげることです。

それがどれほど惨めで悲しいものであったとしても。それはただのマインドに過ぎないということを見抜くこと。

それができれば、あらゆる自分への期待、目標から解放され、結果として自我からも解放されることになるのですね。

どんな重荷も責任もない

人は毎日の生活の中に飲み込まれてしまうと、自分の内側を見るということを忘れてしまうのです。

そうして、人生とは思考が作り上げた仮想的なものだということ、単なる物語だということを感じる余裕がなくなってしまうのです。

そうなると、間違いなく深刻さというものがやってきて、それにも飲み込まれてしまい、そのことに気づけなくなるのです。

思考が止まることがなくなって、常に何かを考えることで自己防衛を継続してしまうことになるのです。

こうしたことは、自分が人生の舵取りをしているという誤解からやってきます。自分がすべてのやり手だという思い違い。

歴史上の多くの賢者が共通して伝えてきたことは、あなたは成し手ではないということです。誰も行為者ではないということ。

すべては全体性の中で起きることが淡々と起きつつあるだけだということを思い出すことです。

その感覚を思い出せたなら、どんな責任も重荷も本当は何もないということに気付くはずですね。

疑いと不信

疑いと不信は似ているようでいて、実は全く異なるものです。不信というのは、信じるマインドの裏返しであることを見抜くことです。

マインドは常に信じることと信じないことしかできません。その両者は同じコインの表と裏の関係と同じなのです。

「私は人を信じられない」と言って嘆く人がいますが、それは人を信じることしかできないのと同じなのです。どちらもマインドの機能なのです。

一方で、疑いというのは言葉の響きこそあまり良くない感じがしますが、要するに物事への問いかけだと思えばいいのです。

幼い無垢な子供は、なぜ?どうして?を連発するのですが、それは不信からくるものではなく、純粋な問いかけなのです。

問いかけはとても大切な、そして正直な反応なのです。マインド(自我)が成長していくにつれて、この問いかけをすることが少なくなるのです。

そして逆に信じるか信じないかということで結論づけしてしまうことによって、安心しようとするのです。

それがマインドの自己防衛だと気づけばいいのです。信じたり信じなかったりすることから離れるだけで、マインドはその活動を小さくすることになるでしょうね。

安心して立ち止まる

私にとって、このブログを書くということは、人生という物語から抜け出していることのできる大切な時間でもあるのです。

自我というのは非常にずる賢いというのか、気づいているつもりでいても、気がつかないうちに物語の中に自分を引きずりこむ天才なのです。

そのためにはどんな手でも使うのです。そして勿論、騙されるのは自分自身なので、自我は自分の弱点を熟知しているので、簡単にやられてしまうのです。

物語に巻き込まれ続けてしまうと、気づいた時には息も絶え絶えになって、日々の生活もままならないという状態になることもあるかもしれません。

だからこそ、1日にたとえ5分でも、物語の流れから抜け出して、物語を見る場所に自分を置くことができれば、それは大きな助けとなるのです。

それが瞑想であってもいいし、物語の中でその日生きた自分を思い返すでもいいし、とにかく立ち止まることです。

私たちは、どこかへ向かって進んでいるわけではないのです。その感覚こそが物語に巻き込まれたときのものなのです。

だからどれほど立ち止まったとしても大丈夫。進んでないものは、遅れることもないのですから。安心して、しっかり立ち止まることを覚えることですね。