全体の中に溶けゆく

人と一緒にいることがそれほど苦にならないようであれば、みんなで和気あいあいとできれば、それはとても気持ちいいものですね。

連帯感とか、一体感といったものを感じられるからでしょう。暴走族が一部の若者にとって魅力的なのも同じ理由です。

あるいは、一つの劇や映画をみんなで力を合わせて製作することなども、一体感を感じられるので病みつきになるのかもしれません。

この一体感が好きなのは、自我のせめてもの疑似体験なのです。自我として分離して在るという妄想の世界は、本当はとても惨めなのです。

真実はすべてが一つものであるのに、そのことを忘れて自我として生活しているのですから、他人と時空や気持ちを共有することで代用しているわけです。

自我というのはなぜ根本的な不安や孤独を持っているかというのも、これと全く同じ理由なのです。

何かと一体になったら、つまり自我が全体の中に溶けていくなら、間違いなく至福を感じることになるでしょうね。

真実に「なぜ?」は通用しない

一般的に言えば、男性は論理的で女性は非論理的な傾向があるなんて言われたりしますね。勿論、実際には一人ひとりの個性によると思います。

それよりも論理的な人はそうでない人よりも、より「なぜ?」という質問をするのではないでしょうか?

物事が起きる原因や理由を知りたいと思うときには、この「なぜ?」という疑問や質問が出てくるのです。

なぜ宇宙はあるのか?なぜ人には自我があるのか?なぜ人間だけが意識を持っているのか?なぜ生物が生まれたのか?

こうした疑問に対する答えを見つけようとするからこそ、人類は科学をここまで発展させることができたのです。

そして多くの科学者は、もっともっと科学が発達すればいずれはあらゆる疑問に対する答えが見つかるはずだと信じているかもしれません。

けれども、それは間違いだと断言できます。なぜなら、「なぜ?」という疑問は思考の一部だからです。

真実は思考という狭い論理をはるかに超えているのです。だから、真実に関しては「なぜ?」は通用しないのです。答えなどないということです。

真実は永遠に思考では理解できないものなので、そこはきっぱりと諦めることです。真実は、ただ在るのですね。

悔やみ続けたいマインド

過去を振り返ったときに、あれやこれやと悔やんでしまうことは誰にでもあることですね。

もう少しあの時に理解してあげられていたらとか、もっと早めに手を打っておけばこんなことにはならずに済んだ…とか。

以前友人から聞いたことがあるのですが、その友人のパートナーがちょっと具合が悪いということでしたが、大丈夫だろうと思って放置して出かけてしまったのです。

戻ってきたらもっと具合が悪くなっていて、急いで医者に連れて行ったところ、どうしてもっと早く連れてこなかったのだと医者にしかられてしまったのです。

結局、容態は急変して友人のパートナーはしばらくして亡くなってしまったのです。そんなことがあって、その友人は毎日自分のことを悔いているのです。

確かにそんなことがあったら、誰でも激しく後悔してしまうでしょうね。時間が解決すると言っても、相当長い間苦しむことになるはずです。

もっと軽い出来事でさえ、私たちは悔やみ続ける傾向にあるのです。それは心のどこかに、後悔し続けたいという部分があるからです。

それは悔やんで苦しむことが執着となっているのです。そんなことがあるわけないと常識的には思えるのですが、マインドというのはそういうものなのです。

悔やむことさえもマインドは対処すべき問題として保持し続けようとしてしまうのです。問題にしがみついてしまうのです。

もしもマインドが100%で後悔への執着が不要となれば、それはどうでもいいことになるはずなのです。

その瞬間にとどまる

30代の初め頃、私は日本の大手の企業から訳あって、外資系の会社に移って仕事をしていました。

ただのペーペーのエンジニアだった自分にとって、自分よりも歳下のある人物がその職場の長をやっていることに少しの驚きを持って見ていました。

彼はエンジニアではなかったのですが、きっと有能だったのでしょうね。彼の席が広いオフィスの角にあって、私の席からちょうど見える位置だったのです。

時々、気がつくと彼が何かを熱心に考えていて、立ったり座ったりを頻繁に繰り返している姿をよく見たのです。

きっとあれこれと戦略を練って、誰にどのタイミングでどのような企画を持って行けばいいのか、内面では忙しくそれをやっていたのでしょうね。

前振りが長くなりましたが、人は何かを考えたり、何かに対処しようとしているときには、ジッとしていることができなくなるのです。

居ても立っても居られないという状態になることもあるし、未来のことを想定してイライラしてきたりするわけです。

何かに立ち向かおう、何かを解決しなければ、何かを対処しようとするのは、自我の特徴なのです。そうすることで、常にマインドは未来へと向かわされるのです。

その逆に、その瞬間にとどまっていられるなら、未来へ向かうことは少なくなるのです。加えて防衛も小さくなり、人生のフレーバーが変化するでしょうね。

マインドでもハートでもなく

私たち人間は、生まれるとまず初めにハートを使えるようにするのです。それは勿論、五感を使えるようにするためです。

ハートは感覚器官から入ってくる情報を感じるようにするのです。しばらくは、ハートだけで生きている時期が続きます。

その後、今度はマインド(頭)がその活動を始めることになるのです。ここからが人間に特有の時期となるわけです。

こうしてハートとマインドの双方が共にうまく働くことで、人間はバランスのとれた人物となるのです。

けれども、大多数の人が圧倒的にマインド優位の状態で生きているのです。自我の防衛が肥大すればするほど、マインド(思考)が止まらなくなるからです。

したがって現代人にとって、マインドを緩めてハートの働きを活性化させることがとても大切なのです。

できるだけ無防備になって、自然体で自由な生き方ができればハートが優位になっていくはずです。

ただし、ハートが真実を知る鍵ではありません。マインドよりはハートが自然に生きられるというだけで、真の鍵は意識なのです。

意識が目覚めることによってのみ、あなたがあなたの本質に気づくことができるのですね。

正義と悪党のど真ん中

小学生の頃、多分4年生くらいまでかなとは思うのですが、ある種の正義の味方のような生き方をしていたのです。今思うと笑えますが…。

そういった生き方、考え方が一体どこから来たのかと考えてみると、多分幼い頃に聞いた昔話やおとぎ話からではないかと考えられるのです。

桃太郎にしても、一寸法師にしても、簡単に言えば「悪い奴ら」をやっつけて成敗するという単純な物語なのです。

ヒーローというのは、常に正義の味方だったので、自分もそういう存在にならなければと短絡的に思ってしまったのだろうと。

ところが、5年生くらいから正義というもののあまりにもいい加減さに気づいてからは、一気に正義とか正しさというものに興味が薄れていったのですね。

正しさというものの素性がバレてからは、自分の中でそれを最優先しなくなったのです。そうすると、毎日がとても生きやすいことにも気づいたのです。

そしてそれがもう少し進んだところで、実は悪と正義が常に一対のものでしかないという二元性にも気づいたのです。

正義というのは悪なしでは成立しないのですから。極論に聞こえるかも知れませんが、悪は自我のダイレクトな防衛によるものですが、正義は遠回しな防衛なのです。

正義でも悪党でもない、そのど真ん中であることこそが本来の私たちの存在なのだと思うのです。

生への執着を見る

私たちは多かれ少なかれ生に対する執着を持っています。それを責める必要もありません。なぜなら、それが自我の特徴だからです。

自我の仕事が自己防衛であるのは、生への執着からくるものだと思っても間違いではありません。

生への執着は、惨めさの回避と言い換えることもできます。なんとかして、自分は惨めなんかじゃないというところへ持って行きたいのです。

人によっては、自分はいつも死にたいと思っているので、生への執着もないと判断するかもしれませんが、それは間違いです。

確かに生への執着は、死にたくないという強い思いを発生させるのですが、もしもあなたが本当に生への執着がないのであれば、防衛はなくなるはずなのです。

死にたい願望は、生への執着の裏返しだと思えばいいのです。どれほど頑張っても、生きやすくならないし、惨めさが消えることもないので自分でいることを放棄したいと感じるだけなのです。

それも防衛の一つなのです。生への執着が消えたなら、生きたいという願望も、死にたいという願望も、どちらも消えてしまうことになるでしょうね。

執着という防衛

子供にとってどんな親が理想的かと聞かれたら、迷わず言えることは、「心に余裕のある状態の人」なのです。

心がいっぱいいっぱいでゆとりがなければ、目の前にいる愛しい我が子の気持ちを受け止めることができなくなってしまうからです。

余裕がないのは、不安や恐怖から逃れるために何かにしがみついているからに他なりません。しがみつくというのは、何かに執着を持っているということ。

たとえば、断崖絶壁にしがみついている人は余裕があるはずないのです。岩肌にしがみついている指がはずれたら、落ちてしまうからです。

何かに執着しているとは、その対象を取り逃がしてしまったら大変なことになると錯覚している状態です。

要するに執着というのは自己防衛の一つの形なのです。親子の関係のみならず、執着心が強ければ一般的な人間関係もうまくいくはずもないのです。

対象が何であれ、自分の執着心をよく見てあげることです。それを取り逃がしても、本当は何も変わらないということに気づくなら、大きく人生は変化し出すでしょうね。

本質は鏡のようなもの

osho はよく、私たちの内奥無比なる実存、つまり私たちの本質は鏡のようなものだと言っています。

鏡には起きることのすべてがそのままに映し出されます。それはまるで鏡の中で起きているようにも見えます。

けれども鏡はただ、その前で起きていることを忠実に映し出しているだけで、鏡そのものに起こることは一つもないのです。

同じようにして、私たちは自分の自我と同一視することで、起きていることが自分に対して起きていると感じてしまうのです。

だから深刻にもなるし、完全に物事に巻き込まれてしまうわけです。ところが本質は起きる事象からは離れているのです。

次元が違うということですね。起きていることとそれを映し出す鏡の次元が違うのと同じです。

自分の本質が透明な鏡のように、あらゆる出来事をそのままに映し出している(あるがままに見ている)のだと気付くこと。

それは、ただ見るということを日々実践することによって、体得できるようになっていくのでしょうね。

全方位への集中

瞑想は無念無想になることだと短絡的に捉えている人もいるようですが、実はこの無念無想というのが怪しいのです。

文字通り、念も想も無いということなので、思考が停止している状態のことだということは分かりますね。

じゃあ、思考が停止していればそれでいいのかというと、そうではありません。思考停止状態にも2つの種類があるのです。

1つは、幼い子供がよくやるボーっとしている状態です。確かに思考は使っていないのですが、これだと動物と同じなのです。

つまりは無意識なのです。もう一つは、思考が停止していてなおかつ意識がある状態なのです。これこそが瞑想なのです。

要するに、大切なことは思考が活動していても停止していても、意識が活性化しているかどうかということなのです。

何か特定の事柄に従事して、そのことに集中しているような場合、これも瞑想とは異なるのです。

一点集中してしまうと、どうしても無意識になりやすいからです。これに対して瞑想は、全方位への集中と言えます。

難しく考えずに、とにかく実践してみることです。何事も最初から上手くやらねばと考えずに身体も巻き込んで感覚を覚えさせることですね。