深い理解こそあなたを変える

私たちは、たくさんの知識を持っている人を尊敬する傾向にありますね。テレビ番組などに出てくるクイズ王などは、なんでそんなことまで知ってるの?と驚くこともあります。

確かに知識は、この社会ではある程度役に立つこともあるのですが、それは所詮は上っ面のものなのです。

なぜなら、知識そのものは単なる情報であって、それだけでは決して深い理解に到達することはないからです。

知識に対して、熱心に繰り返しそれを実践することを通して、本当の理解へと進んでいくことができるのです。

その一方で、深い理解というのは、それそのものがすでに実践のようなものなのです。私は深い理解のことを人は気づきと呼んでいるのだと思うのです。

気づきが突然のようにやってくるのですから、深い理解も一瞬にしてやってきます。ある時急に、腑に落ちるという経験は誰にでもあるはずです。

あれが深い理解です。そして深い理解は、私たちをあっという間に変えるチカラを持っています。

どれほど強固な執着心も、強烈な依存心も、深い理解によってのみ溶解させることができるのですね。

母親をトータルに見る

どんな人間であろうと、健康的なマインドと病んで不健康なマインドの部分の両方を合わせ持っているのです。

ただし、その両者が激しく分裂していて、とても同じ一人の人間とは思えないような状態になってしまうと、周囲にいる人に多大な迷惑がかかります。

ましてや、その分裂したマインドの持ち主が母親であったとしたら、至近距離で育てられている子供への影響は計り知れません。

大抵の場合、子供のマインドも分裂してしまうのです。健康的な母親のことを大好きだと感じている部分ができるのは当然ですね。

その一方で、病んでいる母親から受ける様々な精神的暴力に対しては、母親を嫌いになったり、憎んだりするようになるはずです。

ところが、母親を好きな側のマインドはもう一方の方を忘れようとしてしまうのです。都合の悪い母親の一面のことをなかったかのようにするのです。

その結果、本当の気持ちや感情を抑圧するようになって、トータルな母親のあるがままを見ることができなくなってしまうのです。

母親に対して、いつも大好きな側の母親でいて欲しいという期待が大きくなって、大人になってもそんな期待を身近な人々に持ってしまうのです。

期待が大きくなればなるほど、裏切られた時のショックも大きくなって、生きづらい人生がやってくることになるのですね。

子供の頃の記憶に戻って、期待できない母親の本当の姿を正面から見て、それに対する自分の本当の気持ちを見ることができるなら、必ず癒しは進んでいくのですね。

自我から人生を取り戻す

もしもあなたが安心したいと思って何かをしたりしなかったりするなら、そのときにはあなたはこの生を生きてはいない。

つまり死んだようにして生きた振りをしているのです。それが自我の生き方なのです。あなたの代わりに自我が人生を生きているということ。

その反対に、安心のことをすっかり忘れて生きているときには、あなたが生を生きているのです。その瞬間、自我は眠っているのです。

こうした仕組みをしっかりと理解することです。自我はあなたが安心しようとするときにやってきて、防衛を画策し出すのです。

それが継続してしまうと、それが自分なのだと錯覚してしまうのですが、勿論それは本当のあなたではありません。

あなたは、自分がハッピーであろうとするのですが、自我はこっそりとそれを奪い取って、安心を得ようとする防衛にすり替えてしまうのです。

そうすれば、あなたの人生は自我のものになるからです。その瞬間に気づくことができた人は、少しずつ自我から人生を取り戻すことができるようになります。

そうなれば、それはそれは清々しい人生になるでしょうね。

リア充ってホントにリアル?

リア充のリアルとは、ネット世界のような仮想的なものではなくて、現実世界を意味するのだと、あるクライアントさんに教わりました。

まとまったお休みがあれば、気の合う友人たちとキャンプに行ったり、花火大会を見に行ったり、リゾートで楽しんだり…。

そんなふうにして、行動的にあれこれ体験して充実した人生を生きているというのが、リア充の意味なんでしょうね。

確かに引きこもっている人と比べたら、活動的で生き生きした毎日という感じがしますが、それが本当に充実してると言えるかというとそれは怪しいのです。

私の感覚では、このリアルというのは、他人の目から見えるというニュアンスが多分に含まれている感じがするのです。

長い夏休みに、外出せずにずっと部屋にこもりっきりで、興味のある文献を読み耽る、みたいなことも立派なリア充なのですが、そういうのはあまりイメージできないのです。

この現実世界を物語として見るようになると、リアルな世界というのは内側深くにこそあるということも分かるのです。

となると、真のリアルとは、充実感を感じる何者もいない全体性のことだというのが、わたしにはもっともしっくりくるのですが、いかがでしょうか?

有よりも無

生まれたばかりの赤ちゃん、あるいは生後まもない乳幼児の頃というのは、誰もが無邪気で無防備なものですね。

その特徴は、純粋無垢であるということです。そして、実はあらゆる「無」がそこにはあるのです。

例えば、まだ自我ができていないので、無自我なのです。そのため、自我の特徴的な部分を持ち合わせてはいないのです。

だから、これといった生きる目的を持っていない、つまりは無目的。そして、冒頭で書いた無防備であるため、はっきりとした思考がない、無思考なのです。

このように見てみると、何とも理想的な気がしてきますね。じゃあ、私たちは乳幼児の頃に戻ればいいということになってしまいます。

そうなったら、自己防衛はなくなり瞑想などもする必要がなくなるのです。ところが、たった一つ、「無」であることで困ることがあるのです。

それは無意識だということ。正確に言えば、意識がないというよりも、意識が覚醒していないということ。

結局私たちの理想は、意識だけが目覚めていて、それ以外はすべてが無であることなのです。それこそが真実の姿でもあるのですね。

真実は自分よりも近い

海の中にいる魚たちは、決して海のことを知ることはありません。なぜなら、彼らにとっては海でないところがないからです。

何から何までが海であり過ぎて、それを感知できないでいるということです。それと同じことが私たちにも起きているのです。

それはあまりにも、何から何までが真実、つまり全体性なので、それを感知することができずにいるということ。

宇宙全体のストーリーが起きる場だと思えばいいのです。だから、真実は私たちのあらゆるものを取り巻くものなのです。

私たちは最も自分に近いものは自分自身だと思い込んでいるのですが、それよりももっと近くに満ちているもの、それが真実であり全体性なのです。

それは一瞬であれ、自分を取り巻く煙幕のような思考(自我)が晴れた瞬間に、な〜んだという感じで感知するようなものです。

それには瞑想が役に立つかもしれませんし、日頃意識的であるように生きることが感覚を繊細に保ってくれることによって、感知できるようになるかもしれません。

全体性を感知すると、それがあまりにも全体過ぎて途方もない感覚になるでしょうね。生きている間にそれを知るなら、生死の違いも無くなるような気がします。

愛は欲しない

私たちが自分だと思い込んでいる自我というのは、そもそもが自分のままでは足りないという欠乏感を持っています。

ですから、安心しようとすればその足りないものを外側からなんらかの手段を使って手に入れることによって、実現しようとするのです。

つまり、自我というのは足りないものを外部から取り込むことで充足できるのだろうと信じ込んでいるのです。

けれども、事実はどうかと言えば、実際に入手した直後だけは少しばかりの満足感を得ることはできるのですが、それもあっという間に消えていくのです。

そしてまたすぐに別のものをターゲットにして、相変わらずの欲しい欲しいの人生が継続するわけです。

外側から手に入れたものでは決して満たされることはないという、自我の真実に早く気づけばそれだけその人は救われるのです。

欲しがるものがお金であれ、物質的なものであれ、人であれ、違いはありません。好きな人を欲するのは自我としては自然なことですが、それは自我の愛なのです。

真実の愛は、「欲すること」がないばかりか、自分の内側にあるものが外側に向かって溢れていく状態なのですね。

自分を楽しむ

「人生を楽しむ」というのは良く耳にする言葉ですね。では、「自分を楽しむ」というのはどうでしょうか?

両者は一見すると似ているように思うかもしれませんが、実は全く違うことを表しているのです。

「人生を楽しむ」の方は、生きていく中で自分にやってくる様々な事柄それ自体を楽しむというくらいの意味です。

一方で、「自分を楽しむ」というのは、やってくる事柄に対する自分のあらゆる反応を楽しむということなのです。

この両者の違いで一番大きいのは、前者は自分が楽しめるような出来事がやって来たときは楽しめるのですが、そうではないときには楽しめません。

希望が叶ったり、嬉しい出来事があればその出来事を楽しむことができるのですが、悲しいことや辛いことがあればそれは楽しめないのです。

ところが、自分の反応そのものを楽しむということであれば、どんな反応であれそれを楽しむことができるわけですから、生きている限り常に楽しめるということなのです。

歓びが来たらそれを楽しみ、悲しみがきたらそれを楽しむ。不安が来てもそれを楽しむ…。というようにあらゆる反応を楽しむのです。

この技を発見できたなら、あなたはもう人生の達人になるでしょうね。

「雪隠詰め」は死語?

若い人は全く聞いたこともないと思いますが、「雪隠詰(せっちんづ)め」という言葉があります。というか、ありました。

辞書には、「 1.将棋で相手の王将を、盤の隅に追い込んで詰めること。2.逃げ場のない所へ追い詰めること」とあります。

雪隠(せっちん)というのはトイレのことで、昔の家屋はトイレが隅にあることが多かったようで、それで雪隠詰めと言うようになったらしいですね。

なんでこんな話しをするかと言うと、セラピストというのは場合によってはクライアントさんを雪隠詰めにする必要があるのです。

なぜなら、誰だって都合の悪いところは見たくないものなので、そっぽを向かないように逃げ場を少しずつ取り上げていくのです。

肝心なところを見ざるを得ないように仕向けるのですが、クライアントさんは無自覚とは言えあっちにいったりこっちにいったりして、逃げ回るのです。

セッションを重ねていくうちに、そういうことにも気づけるようになっていくのですが、最初のうちは雪隠詰めされたらシンドイでしょうね。

だから言葉巧みにいつまでもはぐらかして逃げ回るクライアントさんもたまにはいらっしゃいますが、それも防衛の一つということです。

それはまるで池の水を入れ替えるために、池の中の鯉を隅っこまで追い詰めていって、ようやく生け捕りにするようなものです。

少し比喩が悪かったですが、それでも鯉のことを思って追い詰めていることは、鯉には伝わらないけれどやりがいのある仕事です。

自分の力で自分を変えるのは不可能

できるだけ早く気付くべきことは、自分の力で自分を変えようとすることは不可能だということです。

勿論、表層の部分、上っ面の飾りの部分はいくらでも変えることができるでしょう。それは、服を着替えるのとあまり違いがないからです。

けれども、マインドの中に入っていけばいくほど、変えることはできないことを知ることです。

例えて言えば、自分の髪の毛を上に向けてどれほど引っ張ったところで、身体が浮き上がることがないのと同じなのです。

変わらないと言っているのではありません。あなたの努力では変えることができないと言っているだけです。

その違いを理解することです。変わるとしたら、あなたの努力によってではなく、意識によるということ。

もっと厳密に表現すれば、意識的であることでマインドの中の使われる部分が変化するということなのです。

マインドの各部分が変わるのではなく、どの部分を使って生きるようになるかが変化するということです。

その結果として、生きづらさの部分が使われなくなり、代わりに自由で自然である部分がより多く使われるようになるということですね。