心配よりも可能性に目を向ける

私は子供の頃、ちょっと考えられないくらい極端な偏食でした。固いものを噛んで食べるということ自体があまり好きではなかったのではないかと思えるくらいです。

食べられるものがほとんどなく、卵焼きとヨーグルトばかり食べていたのを覚えています。母親はきっととても心配していたことでしょうが、そんなことにはお構いなく、嫌いなものを口にしたことはなかったのです。

でもそれは私にとって、とても幸運でした。というのも、無理やり嫌いなものを食べさせられると、悪くするとその体験が一種のトラウマとなって、大人になってもずっと嫌いなままになってしまう可能性があるからです。

私は食べ物を強制されたことがなかったので、自然と大人になるにつれていろいろなものを食べられるようになりました。結局、人は成長するにつれて、ごく普通になっていけるのです。

食事にまつわることでは、もう一つあります。小学3年生くらいになって、ようやく少しづつ給食を食べられるようにはなっていったのですが、特別好きではなかったせいか、食べる速度がクラスで一番遅かったのです。

けれども、これも誰からもせかされたり、否定されたりすることがなかったので、そのことで辛い思いをすることはありませんでした。中学生になって、体力がついてきたころには人一倍早食いにもなったのです。

もしも、自分のペースを否定されていたら、きっと焦ってしまうクセがついてしまっただろうと思うのです。子供が独自に持っているその子のペースは、とても大切な個性として尊重してあげることが大切なのです。

小学生のころの別のひどいエピソードを思い出しました。2年生か3年生のころ、図工の授業で粘土を使って仮面を作るということがあったのですが、いつものようにペースが遅かったのです。

というよりも、授業が終わる5分前になっても私は何もできていませんでした。何を作ろうか考えている間に時間が経ってしまったのですね。

それを見かねた担任の先生が、こんなのはどう?といって、私の粘土で確か悪魔のような仮面を一分くらいでちゃちゃっと作ってしまったのです。

私はあっけにとられていたものの、それを完成品としてずうずうしくも提出したのでした。なんと、それは図工の先生によって、優秀作品として展示されたのです。

夏休みの自由研究の宿題を丸ごと友達のお兄さんに頼んで作ってもらったこともありました。こんないい加減な、ずるい子供だったのですが、誰にも否定されたことがありませんでした。

今もずるいところは沢山あるかもしれませんが、かといって社会性がない大人になったとは思っていないのです。子供のときに、ちゃんとした大人になれるのかと親が心配してしまうことはよくあることですね。

けれども、否定さえしないであげることができたら、その子は間違いなく足りないところを自ら補正していくことができるのです。

心配するよりも、子供の可能性のほうに目を向けてあげることができると、その子供の未来には大きく羽ばたくチャンスが広がるはずですね。