「気づき」そのものがそれ自体に気づく

子供の頃から、ちょっと変なことをそこそこ真剣に考えるようなところがあったのですが、今になってみるとそうした生まれながらの習性がとても役に立っています。

例えば、自分の目で自分の瞳を直接見ることは不可能なんだなあと考えていたことがありました。その時には、ただそれだけだったのです。

どう逆立ちしたところで、瞳がそれ自体を見ることができないということが、どういうわけか心に引っかかっていたのです。こんなことを考えるのは子供だからと思われるかもしれませんね。

けれども、実は年齢を重ねた今でもやはりそんなことを時々考えているのです。そして、今では原理的に見ることが不可能だというところに、真実が何気なくその姿を露呈しているということに気づいたのです。

私たちが暮らしているこの世界は、いわば分離の世界と言えます。あらゆるものが、それ以外から分離して存在しているからです。

その分離がベースとなって、主体と他者があり、その間で見ることや聞くことといった知覚が機能するわけです。いつものように、真実とは全体性であるということからすると、知覚は機能しません。

つまり、自分の目でそれ自体を見ることが不可能であるというところに、真実が口を開いていてくれるのだと分かるのです。真実とは究極の一人称だということは以前のブログでも書きました。

私たちは周囲の音を、鼓膜の振動によって聞くことができるのですが、その鼓膜の音自体を聞くことはやはりできません。なぜなら、そこに本質があるからです。

あなたの手の人差指の先を使って、絨毯や畳の上をなぞってみて下さい。絨毯の毛足の柔らかさや、畳の質感が指先に伝わってきますね。

けれども、どうやっても指先そのものの手触りを、その指先そのもので感じることはできませんね。そうやって、知覚が不可能な一人称こそが、真実の入り口なのです。

真実は、この分離の世界においてもごく普通に私たちにその姿をちゃんと見せてくれているということです。私たちが「気づき」とか、「覚醒」などと言っていることも、本質的には気づく何者かがいるわけではありません。

「気づき」そのものが、それ自体に気づくということです。