本当の自由 その2

昨日の続きです。

私たちは自由気ままな時間を過ごしていると思っている時でも、その背後には、常にエゴのシステムが動いていて、そこから逸脱できないようにされているのです。

自由だと思っていたものは、そんな束縛された心の状態であったのです。エゴの内側での見せかけだけの自由とは違う、本当の自由とはどういうもののことを指すのでしょうか?

自立することが幸せへの道と教わってきたし、それを信じている我々にはとても相容れ難いことなのですが、自分の心の愛の部分である聖霊に判断を委ねることで、人生の舵取りから開放されることでしか、本当の自由は得られないということです。

愛には制限がありません。聖霊に依存することは、とても大きな抵抗感があることは否めませんが、それもエゴの抵抗でしかありません。

聖霊の役目である、間違いを訂正するための判断というものを、聖霊から奪ってその代わりに自分が判断をしようと考えたところから不自由が始まったのです。

不自由さというのは、何かの枠組み、それはエゴが自己防衛のためにこしらえた本当には存在しない制限を受けつつ生きることを言うのです。

自分はとても自由人だなあと思って生きてきました。特に、会社員をやめて現在の仕事に変わってからは更に自由な時間、自由な発想、自由な仕事の進め方、全く自由の中で生活ができるようになって嬉しいと思っていました。

しかし、奇跡のコースを学ぶようになってからというもの、本当の自由についていつも考えるようになったのです。エゴのままでよしとしている限り、見た目や現実的なスタイルがいかにも自由に見えてもそれは違うと分かりました。

例えば、オフィスから自宅へ戻る時に、いろいろな道順を自由に選んで帰ることができますね。少しくらい遠回りをしてもいいやと思ったら、それこそ無数に通る道を選ぶことができます。

それでも、それが本当の人生の自由ではないということは何となく分かっていただけると思います。交差点や分かれ道にぶつかるたびに、その都度いくら気ままに道を選んだとしてもです。

聖霊は私たちが培ってきた常識やルールなどに左右される判断をしません。ですから、頭でいくら名案を探し求めてもどうしてもうまくいかなかった問題が、聖霊に委ねることで思いもよらなかった方法によって解決してしまうといったことが起こるのです。

エゴのシステムの中で自由を得ようとすること自体、もう不自由な感覚で生きている証拠ではないでしょうか。

自由は求めるものではありません。愛を伴って与え続ける選択をすることによってのみ、本当に開放された自由な心で生きていくことができるようになるのです。