真実は多面的に表現される

昨日のブログでは、物事には両面があるということを書きました。そして、そのことは私たちが真実と呼んでいるものにも当てはまるのです。

というより、真実について言葉を使って説明しようとしたら、両面どころか多面的な表現ができてしまい、その多くは互いに矛盾するのです。

例えば、近年の脳科学では私たち(の脳)には自由意志はないということが、通説になっているようです。まだ、厳密に証明されたわけではありませんが…。

そのことは、世界中の賢者と言われた人たちも同様に言っていることです。したがって、それは真実なのだろうと考えてもよさそうです。

でもその一方で、瞑想をするべきであるとか、真剣に自己探求を続けていく努力を惜しんではいけないという言われ方もするわけです。

これは、自由意志がないということと矛盾するように感じます。自由意志がない我々に、何をどう働きかけたって、結果が変わるようなことはないはずだからです。

けれども、実際には努力すべきときは努力する必要があるというのも真実なのです。自由意志がないということは、すなわち何が起こるかについて我々には何の影響力もないということを意味しますね。

それなのに、愛に溢れた心を持つ人々は、自らの命を顧みずに他人の命を救おうとまでするわけです。

何が起こるのかは、決定しているとしたら、なぜそれほどまでに他人のために尽力しようとする人々がいるのか疑問です。

きっと、自己防衛に奔走するエゴの影響から開放された彼らの心の中には、慈悲とか自愛のエネルギーが盛りだくさんになっているのでしょう。

覚醒したイエス・キリストが天国に行ってしまわずに、二千年の時を越えて、奇跡のコースを私たちに提示してくれるのも、そうした慈悲の心の成せるわざなのだと思います。

真実は本当に謎に満ちていて、興味深いですね。