思考からの脱出

この人生において、最も、それも群を抜いて一番に関心を持っているのは、何を隠そうこの「私」についてであるというのは、間違いないことです。

それなのに、何がきっかけだったかは忘れてしまいましたが、この「私」というのは厳然とした実体のあるものではなくて、単なる思考の産物だったと気づいたのです。

この気づきは、とてもショックであり、またある種の小気味よさというものも感じたのです。自分に対して、ざまあみろ!的な思いというのか…。

多くの人は、自分の存在価値に気づけなくて苦しい毎日を生きていたり、自分の中の罪悪感や自己嫌悪感に苛まれていたりと、悩ましい人生を生きているのです。

けれども、その中心にいるはずの「私」というものが、本当は何の実体もない、ある意味架空の作り上げられたものだったということなのです。

こんな馬鹿げた、やってられないような話しってないと思いませんか?一体毎日私たちは何を悩んで、頑張り続けてきたのかアホらしくなってしまいます。

でもそれは、本当のことなのですね。私たちが、何かを価値があると思ったり、大切だと感じたりするのも、すべては「私」がここにいると錯覚している思考の中でのことだったということです。

そして、その思考とは過去そのものなのです。過去の体験、つまりそれは知覚による体験ですが、それと記憶の働きによって、過去を積み重ねてきたのです。

それこそが、「私」という人物の本当の姿だったのです。何度も言いますが、何の実体もありません。すべては思考だったのです。

過去によってでっち上げられた張りぼてのようなものとしての「私」、それは常に過去と過去の変形である未来の申し子なのです。

だから、人物としての私たちは、決して今この瞬間に生きることはできません。今ここには、誰でもない本質の自己が在るだけなのです。

思考という部屋の中を、ぐるぐる回って出口を見つけられずにいるのが、私たちの現実なのです。でも必ず出口は見つけることができます。

出口を見つけ、その方向に一直線に向かって歩いていくには、思考そのものを利用する必要があります。

しかし、最終的にはその思考そのものから出てくるのです。そこには、やっと出てきた本当の自分を待っていてくれる真の自己が在るはずです。